木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

湯屋のはなし②

2006年06月05日 | 江戸の風俗
前回の続き。

篠田鉱造という人がいる。
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われた年の生まれである。
記者として報知新聞に勤務のかたわら、「幕末百話」、「明治百話」、「幕末明治女百話」の3部作を表した。
どれも見聞した話を肩の凝らないエッセイ風に記述したもので、当世の貴重な記録となっている。
その中の「明治百話」の中に湯屋についての面白い記述があるので引用したい。

男女混浴は勿論やかましかったものですが、ズット以前、明治初年までは、男女の風呂が、湯板一枚で仕切ってあったといいます。で男湯から女湯へ潜ってきたなんとかという悪戯が行われて、後はその間に間隔ができてどうにもならなくなったといいます。(中略)陸湯(おかゆ)即ちあがり湯といって、湯から上がる時、拭くまえまたは体をながすための湯が、三尺四方に仕切った、底のある三尺くらいのたまりへ、湯が一杯あります。ソノ陸湯は男女兼用ですから、両方から桶を突っ込んで、小桶の鉢合はしょっちゅうで、ソコで知った同士
「オイ春さんじゃァないの」
「オオ秋さんか、おめかしだね」
「冗談いっちゃあいやよ、今来たばかりさ」
板仕切から覗き上げて、
「ばァ」
「アラいやだ」
「このごろは太ったね」
「食べ物がいいからサ」
「ひじきに油揚げか。乳首が黒ずんだね」
「よしておくれッ」


と、こんな会話を同じ町内会の男女の間で交わされている。
しかも、若い男女の間においてである。
そこで、前回の私の疑問(若い男女が混浴で恥ずかしくなかったのか?)である。
長屋では隣のおならの音が聞こえたという。そんなプライバシーというものがない江戸時代においては、個人の裸というもの関しても、今とは比較にならない感覚のズレがあったものと思われる。
年頃の娘とは言え、浴槽では暗いし、少しくらい見られたって、大丈夫、という感覚だったのではないだろうか?
このような状況を目にした外国人はどのような感想を持ったのであろうか?
日米和親条約のために来日したアメリカ人ペリーは概ね日本人に対しては好意的だが、混浴にはおおいに困惑している。
裸体をも頓着せずに男女混浴をしているある公衆浴場の光景は、住民の道徳に関して、おおいに好意ある見解を抱き得るような印象をアメリカ人に与えるとは思われなかった「日本遠征記」

その様子は伊豆下田の湯屋として一葉の写真が残されている。

さきほどの「明治百話」、男性風呂の描写も面白いので、再び引用したい。

じゃくろ口(洗い場と浴槽を仕切る板)があるため、風呂の中は薄暗がりで、湯気もうもう誰が誰だか分からない。だから義太夫でも清元でも、都々逸、トリリトン、下手くそでも唄って、顔を見られない。(中略)女湯は外が賑やかで、風呂の中が静かなもの、男湯は外が静かで、風呂の中が大賑わい習い立ての三勝半七や、歯の浮く嵯峨やお室の花盛りだからたまりません。(中略)賑やかなのを通り越して騒々しかった。(中略)その筋のお達しで、不潔なのと騒々しいのとで、取り払いとなったら最初は変でした。あんまりアケスコで寒いような間の抜けたような、裸同志がつかっていると、キマリの悪いといった風でした。恐慌したのは下手糞太夫で、開放しでは声上げて唄えなくなったものです

とあります。
こうして見ると、江戸時代の人が夜でも電気が煌々とついた現代の銭湯に入れと言われたら、とまどうかも知れない。



追記 インターネットでHPを調べていたら、東京都浴場組合で、銭湯の壁紙(富士山とか山中湖だとかが描かれているやつです)が売っていた。欲しい!
http://www.1010.or.jp/fix/wall/index.html

篠田鉱造 「明治百話(上)」 岩波文庫
http://www.1010.or.jp/main/index.shtml 東京都浴場組合

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