昨年の年賀状を見ながら、表書きをしていた。
腹話術仲間のHATTYさん、今年は奥様から喪中のはがきがきた。
お亡くなりになられたそうだ。
昨年の年賀状には、「抗がん剤が・・・・」との表記があり、
そうかあ、がんでなくなられたのかとあらためて。
お人形のKENTAくんは、どうしているのかなあ。
そして、斎藤先生。先生の奥様からも喪中のはがきがきた。
小学生のころの合唱の先生。
ほめてくださった一言が何十年たった今でも、心に残っている。
最後まで指揮をされたり、コンサートをされていたけれど、他界されたそうだ。
体調は良くないと聞いていたけれど、残念だ。
先生が作曲されたというオペラ
「種子島若狭物語」を聞いてみたかった。
****以下南日本新聞南風禄6月24日付からの転載*****
4月に78歳で亡くなった鹿児島市の作曲家・齊藤正浩さんも「はやぶさ」のような生涯だった。大病を繰り返しながら“復活”し、作曲や合唱指導を続けた。27年がかりで仕上げた歌劇「種子島若狭物語」は、命がけの大作である。
1987年に膵臓(すいぞう)がんを発病し、7年後には脳内出血で倒れる。まひの残る体を押して最初に手がけたのが、長崎の被爆したクスを歌った詩の曲作りだった。黒こげになりながらよみがえったクスを、「僕と同じだ」と話していたという。
指導を受けた若い音楽家は「先生の存在が私の一生を決めた」と話す。県内外の学校のために作曲した多くの校歌は、日々歌い継がれている。命が燃え尽きた後も、生前にまいた種は各地で芽吹く。
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前任校「大泉小学校」の校歌も斎藤正浩先生の作品だ。
腹話術仲間のHATTYさん、今年は奥様から喪中のはがきがきた。
お亡くなりになられたそうだ。
昨年の年賀状には、「抗がん剤が・・・・」との表記があり、
そうかあ、がんでなくなられたのかとあらためて。
お人形のKENTAくんは、どうしているのかなあ。
そして、斎藤先生。先生の奥様からも喪中のはがきがきた。
小学生のころの合唱の先生。
ほめてくださった一言が何十年たった今でも、心に残っている。
最後まで指揮をされたり、コンサートをされていたけれど、他界されたそうだ。
体調は良くないと聞いていたけれど、残念だ。
先生が作曲されたというオペラ
「種子島若狭物語」を聞いてみたかった。
****以下南日本新聞南風禄6月24日付からの転載*****
4月に78歳で亡くなった鹿児島市の作曲家・齊藤正浩さんも「はやぶさ」のような生涯だった。大病を繰り返しながら“復活”し、作曲や合唱指導を続けた。27年がかりで仕上げた歌劇「種子島若狭物語」は、命がけの大作である。
1987年に膵臓(すいぞう)がんを発病し、7年後には脳内出血で倒れる。まひの残る体を押して最初に手がけたのが、長崎の被爆したクスを歌った詩の曲作りだった。黒こげになりながらよみがえったクスを、「僕と同じだ」と話していたという。
指導を受けた若い音楽家は「先生の存在が私の一生を決めた」と話す。県内外の学校のために作曲した多くの校歌は、日々歌い継がれている。命が燃え尽きた後も、生前にまいた種は各地で芽吹く。
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前任校「大泉小学校」の校歌も斎藤正浩先生の作品だ。