ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団第625回定期演奏会

2018年07月22日 | 音楽
昨日は京都コンサートホールに京都市交響楽団第625回定期演奏会を
聴きに行った。
指揮は下野竜也さん。
最初に演奏されたのが
シューマンの天使の主題による変奏曲からテーマ
野本洋介編曲。
プレトークの時に下野さんはこのシューマンの曲で
会場の雰囲気の空気の温度をさげますというような趣旨のことを
おっしゃっていた。
なるほど聴いているとスピリチュアル的に静かな雰囲気を持った曲だ。
しかし、それがどんなイメージのものなのだろうと思っているうちに
演奏が終わってしまった。
なにしろ演奏されたのはテーマだけなので
変奏がまったくない。
もし変奏があったらそれを聴く過程のなかでもう少し
イメージが形成されたかも知れないと思う。
まあ、なにしろこのシューマンのテーマは
次に演奏される尾高あつたださんのピアノ協奏曲の
プレリュードとしての位置付けで下野さんは演奏されたと思う。
プレトークのお話をきいているとだいたいそんな感じだった。
そして次に演奏されたのが
尾高あつだた ピアノ協奏曲
ピアノ独奏は野田清隆さん
第一楽章
音がキャオーンとなっていかにも現代音楽という感じ。
こういう音楽が割りと苦手は僕にとっては
キャオーンといってパターンといっているように
音楽が聞こえてしまう。
ときどき看板がトタンとたおれるように聴こえるところもある。
どうも現代音楽は苦手だなあと思ってしまう。
第二楽章
途中で眠くなってしまったけれど
寝ずにこらえた。
回りをこっそり見回すと寝ている人も一部いらした。
第三楽章
音楽がにわかに速くなって眠気が覚めた。
途中で音楽が弛緩したときまた眠気がぶり返す。
曲が終わるときの最後の一振りは下野さんとても
気合いが入っていて、そうか下野さん気合いをいれて
演奏されていたんだと演奏が終わる瞬間にやっと
気づくという体たらくだった。

作曲者とおぼしき方が演奏のあとステージに上って
下野さんやオーケストラのメンバーとしばし
感慨にひたっておられた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
ブルックナーの交響曲第1番ハ短調
第一楽章
冒頭のリズムの刻み方がマーラーの交響曲第6番のようだと思った。
下野さんのブルックナーを聴いているとおとがもわっとした感じだなと思う。
演奏がやや単調であるように思う。
第二楽章
楽章の中盤ではうっとりするようなやすらぎの世界が広がった。
ただ、ブルックナーの交響曲を聴いていると
ブラームスがこれらを交響曲的大蛇と呼んだ逸話をときどき思い出してしまい
そんなブラームスの気持ちもわかるなあとしみじみと思ってしまう。
演奏を聴いていてブルックナーの他のシンフォニーの旋律が
心に浮かんでは消えたりした。
第三楽章
ブルックナーの五番以降のシンフォニーのスケルツォほど
切れがあるわけでもないし
うーんと思っているうちに演奏が進んでいった。
途中ブルックナー停止という言葉をはっきりと想起した場面があった。
下野さん、鮮やかな音楽的空白の作り方だなと思った。
第四楽章
弦楽器が譜割りの細かいところを引くときの突っ込みがあまいなと思う。
鈍いおとが出ているなという印象を持つ。
おとが小さくなったときに弦楽器がドミノ倒しのようにさーっと
流れていくのがちょっと気になる。
ブルックナーだからこういう演奏になるのかなとも思う。
最後のおとの残響が印象に残った。

昨日は、3曲とも聞いたことのない音楽ばかりのプログラムだった。
ブルックナーの交響曲全集はヨッフムさんのものを持っているけれど
聴くのはもっぱら4番以降のシンフォニーで
1番から3番までは全集のCDを買ったときに
記念に一通り聴いた程度だ。
だから昨日は実質的にはじめて聴く曲ばかりのプログラムだった。
定期演奏会でなければ
こういうプログラムの演奏会にいくことはまずない。
ただ、知らない曲ばかりのプログラムではしばしば
印象が定まらないうちに演奏が終わってしまうことが僕の場合多い。
昨日もそんな感じだったかなと思う。
あとピアノ協奏曲は独奏者が常に楽譜を見ていたけれど
コンチェルトの独奏者があれだけ楽譜と首っ引きで演奏するのは
珍しいと思う。
視覚的にあまり見映えのいいものとは思わなかったけれど
そこには素人にはわからない色々な事情があるのだと思う。