暖かい一日で、日曜日。
街を流れる川沿いを歩いている人やジョギングしている人を多く見かけた。
春になって、気温が上がるとやはり外に出かけたくなる人が増えるのだと思う。
コロナの方は、自粛重視の人と、ある程度活動しなければやってられないというタイプの人に大きく二分されることは相変わらずだけれど、ある程度活動しなければと考える人の割合が日に日に大きくなってきているように思う。
郊外の大型商業施設の駐車場は自動車であふれかえっていた。
大阪で、徒歩と電車が中心の生活をしていたころはあまり気づかなかったけれど、郊外の大型商業施設には自動車で来る人が本当によく集まるんだなと思う。
特に 東海地方は自動車社会だからその傾向が強いのだと思う。
これでは、かつての街の中心部が寂しくなっていくはずだと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大相撲春場所で若隆景が優勝した。
大変、おめでたいことと思うし、なんとなく日本男児という感じの人が出てきてよかったなと思う。
その一方で、僕は優勝をあと一歩のところで逃した高安のことがとても気になってしまう。
春場所はそんなに見ていたわけではないけれど、高安が14日目に正代に負けた相撲をネットの映像で見ると、本当に高安 大丈夫だろうかと思ってしまう。
解説者の談話とか、ネットのサイトの書き込みを見ると、あせって前に出てやられたと書いてある。
確かにその通りなのだけれど、大関を経験したような実力のある高安が、左の上手をつかんだ状態で出て行って、相手が土俵際で打ったすくい投げにあれだけコロッとこけるというのも珍しい。
あせって前に出たというよりも、上半身だけが前に出て下半身がカチカチになって、上半身についていっていないので前のめりになってコケたように見える。
よほど、緊張して、足が動かなくなっているか、口に出して言わないだけで、10日目を過ぎてどこかケガした可能性があるかもと思ってしまう。
高安がコケて起き上がった時の、ぽわーんとした放心状態のような顔がそれを物語っているような気がする。
若隆景に高安が負けた優勝決定戦も、いい形に一瞬なったけれど、そこから足がばたばたしてしまっているように見える。
本当に高安 残念と思ってしまった。
チャンスだったのに。
僕の母が、稀勢の里のことを「あの人、勝ったらあかん時に勝つし、負けたらあかんときに負けるから本当に口惜しい」とよく言っていた。
それで、今まであまり気にしたことなかったけれど、高安と稀勢の里は同じ相撲部屋で、同じ茨城県出身ということを思い出してしまった。
まさか、稀勢の里のここ一番でなかなか勝てないという特徴までまねしていなければいいと思うのだけれど。
まあ、それは僕の思い過ごしであることを祈りたい。
昭和の時代の名大関 大麒麟が引退会見のときに「優勝経験がないのは残念だった」という主旨のことを語っていて、そのころ僕、まだたぶん小学校高学年くらいだったと思うけれど、妙にその言葉に同調してしまったことを覚えている。
高安にもできればなんとか優勝してほしいのだけれど、、、。
勝負には時の運もあるから。
こういう優勝を逃すことって挫折と言えるのだろうか。
今の時代、必ずしもそうでもないかもしれない。
優勝だけがすべてではないと思い始めている人も多いし。
それで、ちょっと挫折ということについて吉本隆明さん(作家吉本ばななのお父さん)が語った面白い文章を紹介します。
「まあ、挫折を知らないからダメだって言われても、どうすることもできないわけだからね。挫折なんて、しないならしなくていいですよね。というかできないですからね。
そういう説教する上司とか先輩とかいたら、ただ、いい加減に聞き流してりゃいいんです。
だって、そう言われても、それ以上のこと、例えば『わかりました。これから挫折してみます』ってことも言えるわけじゃないし、言った方だって『じゃあ、ここへ行って、こうして挫折してこい』って紹介することもできないんだしさ。
言ってるだけ、聞いてるだけってことでいいんです」と。
※吉本隆明 「悪人正機」新潮文庫より引用
さすがは吉本ばななのお父さん、おもしろおかしく挫折について語っているけれど挫折ということの本質を見事についておられるような気がする。
たとえば、相撲に負けても、入試に落ちても、本人がそれを挫折と感じれば挫折だし、そんなことどうってことない、時の運もあるしと考えれば挫折ではないし。
そう考えれば、挫折って心の感じ方しだいであることがわかる。
逆に、「挫折も知らないような奴はダメだ」と挫折をネタに威張っている人も、それをネタに威張れるような挫折なら本当の挫折ではないだろうし。
本当の挫折は、だれしも、あまり口には出さないもの 仮に言うとしても控えめに言うもの、そういうものだと思う。
そして、そういうことにことさら触れようとする人は案外 他人から敬遠されるというのはよくある話だし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここ数日、心のよりどころをどこに求めるべきか、ということを考えていたら、新約聖書マタイによる福音書の次のような言葉が心に浮かんだ。(というか思い出した)
「あなたがたは、自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ、自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗むこともない天に、宝をたくわえなさい。あたながたの宝のある所には、心もあるからである」
※マタイによる福音書第六章より引用
「宝のある所に心もある」 というのは 逆に言えば 「自分の心をどこに向けるかによって、自分にとって何が宝であるかも決まってくる」ということだと僕は思っている。
街を流れる川沿いを歩いている人やジョギングしている人を多く見かけた。
春になって、気温が上がるとやはり外に出かけたくなる人が増えるのだと思う。
コロナの方は、自粛重視の人と、ある程度活動しなければやってられないというタイプの人に大きく二分されることは相変わらずだけれど、ある程度活動しなければと考える人の割合が日に日に大きくなってきているように思う。
郊外の大型商業施設の駐車場は自動車であふれかえっていた。
大阪で、徒歩と電車が中心の生活をしていたころはあまり気づかなかったけれど、郊外の大型商業施設には自動車で来る人が本当によく集まるんだなと思う。
特に 東海地方は自動車社会だからその傾向が強いのだと思う。
これでは、かつての街の中心部が寂しくなっていくはずだと思った。
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大相撲春場所で若隆景が優勝した。
大変、おめでたいことと思うし、なんとなく日本男児という感じの人が出てきてよかったなと思う。
その一方で、僕は優勝をあと一歩のところで逃した高安のことがとても気になってしまう。
春場所はそんなに見ていたわけではないけれど、高安が14日目に正代に負けた相撲をネットの映像で見ると、本当に高安 大丈夫だろうかと思ってしまう。
解説者の談話とか、ネットのサイトの書き込みを見ると、あせって前に出てやられたと書いてある。
確かにその通りなのだけれど、大関を経験したような実力のある高安が、左の上手をつかんだ状態で出て行って、相手が土俵際で打ったすくい投げにあれだけコロッとこけるというのも珍しい。
あせって前に出たというよりも、上半身だけが前に出て下半身がカチカチになって、上半身についていっていないので前のめりになってコケたように見える。
よほど、緊張して、足が動かなくなっているか、口に出して言わないだけで、10日目を過ぎてどこかケガした可能性があるかもと思ってしまう。
高安がコケて起き上がった時の、ぽわーんとした放心状態のような顔がそれを物語っているような気がする。
若隆景に高安が負けた優勝決定戦も、いい形に一瞬なったけれど、そこから足がばたばたしてしまっているように見える。
本当に高安 残念と思ってしまった。
チャンスだったのに。
僕の母が、稀勢の里のことを「あの人、勝ったらあかん時に勝つし、負けたらあかんときに負けるから本当に口惜しい」とよく言っていた。
それで、今まであまり気にしたことなかったけれど、高安と稀勢の里は同じ相撲部屋で、同じ茨城県出身ということを思い出してしまった。
まさか、稀勢の里のここ一番でなかなか勝てないという特徴までまねしていなければいいと思うのだけれど。
まあ、それは僕の思い過ごしであることを祈りたい。
昭和の時代の名大関 大麒麟が引退会見のときに「優勝経験がないのは残念だった」という主旨のことを語っていて、そのころ僕、まだたぶん小学校高学年くらいだったと思うけれど、妙にその言葉に同調してしまったことを覚えている。
高安にもできればなんとか優勝してほしいのだけれど、、、。
勝負には時の運もあるから。
こういう優勝を逃すことって挫折と言えるのだろうか。
今の時代、必ずしもそうでもないかもしれない。
優勝だけがすべてではないと思い始めている人も多いし。
それで、ちょっと挫折ということについて吉本隆明さん(作家吉本ばななのお父さん)が語った面白い文章を紹介します。
「まあ、挫折を知らないからダメだって言われても、どうすることもできないわけだからね。挫折なんて、しないならしなくていいですよね。というかできないですからね。
そういう説教する上司とか先輩とかいたら、ただ、いい加減に聞き流してりゃいいんです。
だって、そう言われても、それ以上のこと、例えば『わかりました。これから挫折してみます』ってことも言えるわけじゃないし、言った方だって『じゃあ、ここへ行って、こうして挫折してこい』って紹介することもできないんだしさ。
言ってるだけ、聞いてるだけってことでいいんです」と。
※吉本隆明 「悪人正機」新潮文庫より引用
さすがは吉本ばななのお父さん、おもしろおかしく挫折について語っているけれど挫折ということの本質を見事についておられるような気がする。
たとえば、相撲に負けても、入試に落ちても、本人がそれを挫折と感じれば挫折だし、そんなことどうってことない、時の運もあるしと考えれば挫折ではないし。
そう考えれば、挫折って心の感じ方しだいであることがわかる。
逆に、「挫折も知らないような奴はダメだ」と挫折をネタに威張っている人も、それをネタに威張れるような挫折なら本当の挫折ではないだろうし。
本当の挫折は、だれしも、あまり口には出さないもの 仮に言うとしても控えめに言うもの、そういうものだと思う。
そして、そういうことにことさら触れようとする人は案外 他人から敬遠されるというのはよくある話だし。
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ここ数日、心のよりどころをどこに求めるべきか、ということを考えていたら、新約聖書マタイによる福音書の次のような言葉が心に浮かんだ。(というか思い出した)
「あなたがたは、自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ、自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗むこともない天に、宝をたくわえなさい。あたながたの宝のある所には、心もあるからである」
※マタイによる福音書第六章より引用
「宝のある所に心もある」 というのは 逆に言えば 「自分の心をどこに向けるかによって、自分にとって何が宝であるかも決まってくる」ということだと僕は思っている。