硝子戸の外へ。

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グループホームの火災事故を考える。その2

2013-02-10 20:37:59 | 日記
火災事故が起こった長崎市では以前にも同じような火災事故があり、再発防止のためいくつかのグループホーム従事者が集い勉強会を開いていたという。

僕はこの記事を観て大変脱力してしまった。

それは、僕自身も同じような体験を幾度かしているからなのです。もちろん火災事故ではないけれど、現状の問題点を提起したり、研修発表という形で公の場で問題提起したりするのですが、多くの上司の人は不機嫌な表情をし、他の職員さんは右から左へ受け流すのです。

そして、問題提起した問題が実際に起こってしまっても、内々に処理し何事もなかったように振舞うのです。最初のうちはその事が不思議でなりませんでしたが、施設を移り歩いてみるとそれがスタンダードである事に行きついたのです。

中には真剣に取り組んでいる方もいるけれども、多くの人は現状をより良くする事よりも、いかに自身の身を保つかに力を注いでいるようなのです。 その気持ちも分かるけれど、それでは進歩しないし、仕事は一定の人達より消費されるだけで、後進も育ちはしないし、エントリーしてこようとしている若者に希望を与えることなんてできはしない。

火災事故の再発防止の為に貴重な時間を割き勉強会を開いてみえた代表の方は大変がっかりしただろう。この事で気持ちを折らないでいてほしいと願う。


社会福祉とか介護事業とは、たしかにビジネスではあるけれど、いかにして隣人を愛するかという壮大なテーマが根底にある。

しかし、それはイエス・キリストが自身で十字架を背負い、鞭を打たれつつゴルゴダの丘へと歩んでゆくほどの受難を受ける覚悟がなければ、真の隣人愛にはたどり着けないという事でもある。

凡人の私達には到底出来ぬ。ただ内なる神を信じ挑戦してゆき、何度でも躓き、そのたびに赦しを請う。それを繰り返してゆくだけしかできないと思う。それは到達点など求めてはならないということでもあるのではないかと思ったりもするのです。

しかし、社会的責任は実社会で果たさねばならない。それが生きているという事でもあるのだから。

この事故を境にグループホームの運営はますます厳しくなってゆくだろう。その事により運営が立ち行かなくなる施設も出てくるであろう。しかし、それでは社会のニーズはあるけれど対応する社会資源が不足するだろう。

そして、若者に夢や希望を与える事の出来ない仕事に未来はあるのであろうか・・・。