硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

バレンタインだから…敢て。

2013-02-14 23:26:15 | 日記
他者の幸福を考える時、どうしてもそこに幸福を考える側の願望が少なからず入ってしまう。

確かに幸福を受け取る側にとってもそれが本当に幸福を感じる場合もあるが、それはごく少数であり、また、気を使われることにより幸福になったと思いこんでしまう場合もある。こういうケースが少なからず存在するので、人はそれを基準としてしまう傾向があるような気がする。

しかし、このような場合、まず幸福を考える側の幸福を充足させようと無意識に選択しているように思う。確かに誰しも私の考えはいつも正しいと願っている。それが普通である。しかし、他者の幸福を考える場合、そこに「私」の願望を介入させては他者の真の幸福を知ることは出来ないと思う。

なぜなら、私と他者は異なるからである。

とても当たり前な事であり、頭では分かっている部分もあるけれど、なぜかどこかで拒否する思考が生まれる。自身の思考を自ら否定する事が出来ないのである。これが自尊心というものなのかと思う事もあるけれどよく理解できない。

しかし、多くの人の場合、私が幸せならあなたも幸せであろう。と、考えるのである。しかし、僕にはこのような自信はない。

だから、躊躇いの感情の中で、どちらともつかずな判断をベストだとする事が多いが、それはあまり受け入れられない。

かといって、躊躇わず自我を押し通すほどの力もない。これを優柔不断と言うのだろうか。

対象者がどうすれば幸福を感じてくれるだろうかと頭をひねり色々と策を講じてみてはみるが、意思疎通のとれない対象者にとっては本当に幸福かどうか計り知れない事が多く、確認や検証を試みるもそれが本当に本心なのかどうかは分からない。
その場合、ほぼ自己満足で帰結させてしまう。

でも、分からないのが他者である。だから、頭をひねり色々と策を講じる。だから私も存在しているのだといえよう。

しかし、その本質に触れることなく「私の自我」を他者の幸福に当てはめてゆく人が存在する。だから、そこに他者から生じる不幸というものも消える事がないのだと思う。