硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

ローマ法王とキリスト教

2013-03-15 13:49:00 | 日記
幾度となく目を通すニュースなので、個人的に思った事をほんの少しだけ述べておこうと思います。

ローマ法王がフランシスコ1世に決まり、カトリック派に安堵感が伝わっているけれど問題は多いという。

けれども、問題の本質は「人」であって「信仰」ではないように思います。

なぜ、信仰に問題がないのかと言うと、イエスを愛していると断言しながらも、自身の弱さゆえにイエス・キリストを裏切っている人達の「罪の意識のなさ」に問題の根源があるのではないかと思うのからなのです。

たしかに、現代社会は誘惑で満ちているので、誘惑に負けてしまうのも仕方がないとは思うけれど、それではイエスに仕えているとは言えないのだと思う。

どうして、そうなるのか。それはイエスへの信仰が、いつの間にかイエスを信仰している自身を信仰してしまうからなのだと思う。

人は少しでも偉くなると、知らず知らずのうちに慢心してしまう。それは内なる神を忘れてしまうという事。

自身の心から神が居なくなれば、人の感情は欲望の赴くままに流されてしまう。

そこに「罪」が生まれる。そうなると愛すべきは自分自身のみであって、隣人や内なる神ではなくなる。

そうなってしまうと、偽りの言葉を並べるようになり、隣人に対し愛を与え無くなり、やがて「罪」がなんであるのか分からなくなるのだと思うのです。守るべきは神のみ言葉であって、蛇の言葉ではない事を忘れてしまうのです。

しかし、司祭や神父だけでなく、誰の心にもそういった部分が潜んでいて、つねに囁くのです。「あなた方はそれを食べる時、あなた方の目は開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と。


信仰とはとても身近にあるものでもあるけれど、実は深遠であるものでもあるような気がするのです。