硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

この海は誰の為にあるの。

2015-04-05 23:14:58 | 日記
沖縄県知事と官房長官が会談するシーンが流れる。一時間話し合った中の数秒であったが、互いの想いが重なり合うことはないように映った。

官房長官の個人的な本心は分からないけれど、問題の原点がどこにあるのか遡ってゆくとしたら、日本はなぜアメリカと戦争を始めてしまったかという所まで遡らなければならなくなり、米軍の基地が設置されたのは沖縄県が占領されたからであるけれど、そこに問題の所在を求めるのだとしたら、占領を回避できなかった軍部の責任となる。

しかし、時間は遡る事が出来ないから現状からできることを考えてみるけれども、誰もが満足のいく結果を出すことができないように思います。

沖縄本土から米軍の基地を撤退させる条件として考えられるのは、極論であるけれど、戦闘できる軍を保有するか、沖縄県が日本から独立し独自で米国と交渉するか、どこかの国と同盟を組み、米国との関係を断ち切るかしなければならないように思います。

しかし、それは大変危険な選択でしかありません。日本が独立するのですから、平和であろうとも構造は戦前に逆戻りです。

移設には反対だから基地はよそでやってくれないかという意見がすんなり通らないのは、日本が敗戦しているからです。もう七十年も経つんだからいい加減勘弁してくれないかと許しを請うても相手は簡単に権利を放棄してはくれません。

もし、貨幣がすべての問題を解決するという選択が通ってしまえば、あのきれいな海は戻らなくなります。

いつか訪れるかもしれない有事の為に綺麗な海の一部を献上すると思えば呑み込めなくはないけれども、あの海は未来の島民のものでは無くなってしまいます。

地球規模からみれば蝸牛の角の先位にしかならないかもしれないけれど、そこに息づく人々の想いを汲み取る事ができなければ、幕府が倒れたように日本政府も倒れてしまうようなきがするのです。

そして、「シーザーのものはシーザーに返せ。」という論理が正しいなら、本来のあの海はいったい誰のものなのだろうかと考えてしまうのです。