最近、なんだか非効率だなと思う事が増えた。利便性が高くなって効率的に物事が進められる時代だと思っていたが、どうもそれは思い込みなのではないかと考えた。
モノを対価と交換し、効率よく消費する事は、一見便利であるけれど、モノと交換する為には対価を得ねばならない。つまり、対価を得ねば消費する事も出来ないという事である。
半世紀前の価値観ならば、長男は家の後を継ぎ、誰かのお節介で妻を娶り、次男や長女などは、実家を出ねばならないという宿命のようなものを背負っていた。農家であれば農家の後を継ぐことが当たり前であった。野に出て大地を耕やすことが、営みであったから、身体の異常を抱えていない限り、野に出なければならない状態であった。それは、大きな豊かさは得られないが、地産地消で経済が回ってゆくことが担保されていて、この非効率さが、沢山の労働者を必要とし、労働者を支える街作りがなされていった。そして、労働者には、頑張れば、豊かな生活を送れるという希望もあった。
そのような経済は、小さな町単位で、自治が維持され、狭い世界の息苦しさを感じねばならないコミニュティーではあったが、人とのつながりが濃いために、取り残されてしまう人は今ほど多くはなかったように思う。
現在では価値観も変わり、狭い世界に留まる理由がなくなり、人は豊かさと利便性を求めて、町へと移動し始めた。消費対象は個人レベルに移行し、大きな資本は地方へ進出し、地産地消という経済に終焉をもたらし、効率的な生産を主な労働とし、対価を得て消費する事にシフトした。そして、それがスタンダードとなった。
しかし、競争はエスカレートし、エネルギーは無駄に消費され、食料は大量に破棄され、発生するごみは海外で処理しなければならなくなった。
人の寿命は延び、社会資源に依存するために、さらに対価を得ねばならなくなった。
確かに、豊かにはなりはしたが、果たしてこれを効率の良い経済と言えるだろうか。
もしこの事象が、マルクスの言う「発展する生産力は敵対を解決する諸条件を作り出す。それゆえ資本主義社会をもって人間社会の前期は終わる」というものに当てはまるのだとしたら、過労死や、人が無差別に人を殺したり、家庭内で殺し合うという事件は、「人間社会の前期の終わり」を示しているのかもしれない。
モノを対価と交換し、効率よく消費する事は、一見便利であるけれど、モノと交換する為には対価を得ねばならない。つまり、対価を得ねば消費する事も出来ないという事である。
半世紀前の価値観ならば、長男は家の後を継ぎ、誰かのお節介で妻を娶り、次男や長女などは、実家を出ねばならないという宿命のようなものを背負っていた。農家であれば農家の後を継ぐことが当たり前であった。野に出て大地を耕やすことが、営みであったから、身体の異常を抱えていない限り、野に出なければならない状態であった。それは、大きな豊かさは得られないが、地産地消で経済が回ってゆくことが担保されていて、この非効率さが、沢山の労働者を必要とし、労働者を支える街作りがなされていった。そして、労働者には、頑張れば、豊かな生活を送れるという希望もあった。
そのような経済は、小さな町単位で、自治が維持され、狭い世界の息苦しさを感じねばならないコミニュティーではあったが、人とのつながりが濃いために、取り残されてしまう人は今ほど多くはなかったように思う。
現在では価値観も変わり、狭い世界に留まる理由がなくなり、人は豊かさと利便性を求めて、町へと移動し始めた。消費対象は個人レベルに移行し、大きな資本は地方へ進出し、地産地消という経済に終焉をもたらし、効率的な生産を主な労働とし、対価を得て消費する事にシフトした。そして、それがスタンダードとなった。
しかし、競争はエスカレートし、エネルギーは無駄に消費され、食料は大量に破棄され、発生するごみは海外で処理しなければならなくなった。
人の寿命は延び、社会資源に依存するために、さらに対価を得ねばならなくなった。
確かに、豊かにはなりはしたが、果たしてこれを効率の良い経済と言えるだろうか。
もしこの事象が、マルクスの言う「発展する生産力は敵対を解決する諸条件を作り出す。それゆえ資本主義社会をもって人間社会の前期は終わる」というものに当てはまるのだとしたら、過労死や、人が無差別に人を殺したり、家庭内で殺し合うという事件は、「人間社会の前期の終わり」を示しているのかもしれない。