硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

広島原爆の日に向けて。

2024-08-04 14:13:01 | 日記
少し前から自分で書いたあるブログが気になっていた。
しかし細かいところまでは思い出せずにいたので、何とか探し出し読んでみると、やはり興味深いトピックだったので、そのブログに少しだけ加筆しここに採録しておこうと思いました。


介護職という仕事柄、お年寄りから昔話を聞く機会があり、10年ほど前では大正生まれの方が多かったこともあり、戦争体験談もたくさん聞けました。話された方の中には、家族には話せないけれども、第三者ならという気持ちもあったのかもしれません。

様々な戦争体験談の中で、広島の原爆体験のお話も数名から聴く事が出来ましたが、これから述べる当時兵隊さんだった男性の体験談は、これまでに聞いたことがなく、本や記事などからも知る事の出来なかった印象深い話をされ、僕に大きな疑問を投げかけました。

その男性は三重県生まれの方で、1945年には、たまたま県内の内地勤務にあたっていたそうです。
しかし、その年の7月末か8月1日位に、急に広島の第二総軍という部隊へ配属命令が下りました。
すぐ移動という事で、命令が下ったその日に三重県を立ち8月3日か4日に広島に移ると、全国各地から同じように招集をかけられた多くの兵隊さんが集まっていたそうです。

そして運命の8月6日の朝。

その男性は屋外に出て集合する途中、忘れものに気づき、一旦宿舎へ入った直後、広島上空で原子爆弾が爆発しました。
男性曰く、その時、何が起こったのか分からず、突然建物が壊れ、建物の下敷きになり抜け出せなくなりました。
もうダメだと思い始めた数時間後、運よく怪我はなく助け出されたものの、変わり果てた景色を見て、初めて何が起こったのか理解したのだそうです。
そして、歩いてゆくと死者や負傷者が沢山いて、さらに多くの死体が浜辺や河川沿いに積まれていたそうです。

さらに、その男性の話で最も印象深く残ったのは、同じ第二総軍に所属していた、李グウ公という韓国の王子様のお話でした。
8月6日、李グウ公の御つきの吉成中佐という方は、李グウ公と共に第二総軍司令部に行く予定だったのですが、吉成中佐は6日の朝、体調を崩され、李グウ公は一人で司令部へ向かうことになり、李グウ公はその途中に被爆され亡くなりました。御付きであった吉成中佐は、無事でしたが、李グウ公を護れなかった責任を取って自決されたのだそうです。

このお話を聞いていて、初めて知る歴史的事件に驚きを感じるとともに疑問もわきました。

まず原爆が投下される数日前に、広島に沢山の兵隊さんが集められ、その中に韓国の王子様がいた事です。

原爆投下を設定するにあたり、ち密な諜報活動もなされていたはずであるから、多くの兵隊が集まる事も、その中に韓国の王子様がいる事も分かった上で、原爆投下が行われたとみるのが妥当です。

事前に第二総軍という組織が広島に編成されることが外に漏れていたという事は、情報を流した人が存在したという意味であり、日本の兵力を一気に消耗させるチャンスを与えた事になります。
また、韓国の王子様が日本で亡くなったとなれば、韓国の国民感情は、日本が悪いから王子は命を亡くしたのだとの想い、原爆を投下した米国よりも反日感情を抱く人が多いだろうと予測し、大東亜戦争後の朝鮮戦争への介入も受け入れやすくなるだろうと考えたのかもしれません。

これはあくまでも僕個人の妄想の推測。

しかし、なにか触れてはいけないものに触れてしまった気がしてならないので、あえてここに記述しておくことにしました。