もう、5~6年ほど前になるでしょうか、郷土史に関する本を出版しようとしていた人たちのお手伝いをしましたが、その時の編集委員の人たちと4人で「紅葉を楽しむ」ドライブに出かけました。湖東三山へは何度も行ったことがあります。しかし、行く度に“新しい感動”があり、「先回は何処を見ていたのだろう?」などと自責の念に駆られます。
先ずは参道。しかし、実際にはカーナビで中腹の駐車場まで連れていかれてしまい、この写真は西明寺発行の「龍應山 西明寺」からの借用です。ゴメンナサイ。
この写真は自前です。12月5日午前9時45分ころでしょうか。前夜の雨に洗われて、言葉を失うほどの鮮やかな紅葉があたり一面に溢れ、ときには、ハラハラと風に舞う中を歩くことさえありました。
創建は平安初期の承和元年(834)、仁明天皇のご勅願により三修上人の手によると伝えられているとか。国家の安寧を仏に願った時代であったことと、人馬の力だけでこんな岩山の上に本殿と塔を建てるという大事業を成し遂げた人々の情熱に思いを寄せると、熱いものがこみあげて来ます。もっとも、寺史に関する貴重な資料は「信長の焼き討ち」によって失われ、多くの歴史が口伝によるものだそうです。建築様式から、それぞれの建物が鎌倉時代や室町時代のものという研究もあるようです。
この苔の美しさにも言葉を失いました。苔が美しいのは梅雨どきだと思いがちですが、冬の苔も見事です。そう言えば、うっすらと雪化粧をした庭の苔もあでやかですよね。
寺宝には鎌倉時代の「密教法具」があるようです。西明寺は、いわゆる「天台信仰」といわれる比叡山の天台宗派に属しています。そこに密教法具があるということから最澄と空海の覇権争いや天台密教誕生のドラマなども思い起こされます。
三重の塔は、現在解体修理中で、その工事現場も公開されていました。上の写真は「桧皮葺と竹釘」を説明するために用意された模型です。これを見るだけで「莫大な桧皮と労力」を思い目が回りそうです。
解体修理中のため非公開となっている三重の塔の中に安置されている大日如来像です。今年の春、団体旅行で連れて行かれ参拝を許された、秘宝公開中の「東寺五重の塔」の内部とよく似ていると思います。ご本尊が大日如来であるところも興味深いところです。
本堂の横にある鐘堂です。少し離れているだけでしたが、ここには観光客も少なく、蕭然と佇む鐘楼にも歴史と情緒が溢れていました。
最後にエピソードを一つ書きます。
織田信長の命を受けて、元亀二年(1571)西明寺は焼き討ちに会います。多数の武士が攻め込んできたとき、機転のきく一人の僧侶が自ら僧坊に火を放ち、寺のすべてが焼け落ちたように見せかけ、本堂と薬師如来、三重の塔など多くの寺宝を護ったというのです。また、駆けつけた多くの信者が背に背に仏像を背負って逃げ、仏像を戦火から護ったという口伝もあるとのことです。尊いことです。
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