5階の東の廊下の突き当たりから、大好きな田園風景を眺めていると、元気だった頃のことを取り留めもなく思い出します。思えば当時は随分ドライブが好きで遠くまで車で出かけていたなあ、と我ながら呆れるほどです。
秋田へ出かけたのは、家内の母親が次女ご夫妻と同居しておられて、ご主人の転勤で秋田にお住まいでしたが、その母親が倒れて秋田の病院に入院され,その付添いのお手伝いに家内が出かけることに、なったからです。常識的には名古屋空港から秋田空港に飛び、リムジンで秋田市に入りそこからタクシーで、病院に向かうところですが、オソマツ君は考えました。付添いや泊まり込みのお世話は吝(やぶさ)かではないが、何と言っても婦人病棟である。そこへ、老人とは言え、男が泊まり込んでいては同室の患者さんから文句が出るのではないか、いずれにしても、シティホテルを取ることになるわけだから、家内が付添いをするときは、送って行って、少しお手伝いをして、病院を出て、近くの景勝地を訪ねるのがベストだ、
とすれば、車で秋田まで行くべきだということになった次第です。おかげで、奥入瀬(おいらせ)渓谷を散策したり、十和田湖畔をドライブしたり、お岩木山を頂上まで登ったりできました。出発の日は起きたらすぐ出発して朝食もパーキングエリアの食堂を利用しました。確か長野五輪の前で、中央道と北陸道とを繋ぐ道が出来ていなくて、長野市内を抜けなければならなかったので、心配しました。市内の渋滞に巻き込まれたらすぐに、3~4時間は、ロスしてしまいます。今でもはっきり覚えていることは東北自動車道に入り仙台を超えたあたりから、高速道路の前方に一台も走る車なし、バックミラーにも、車の姿なしのところを時速150キロで走ったときの、心地よい振動です。クラウンが喜んでいる感じで、急ブレーキ、急ハンドルをしないようにして、走りました。始めはスピードメーターを見てワイワイ云っていた家内も、いつの間にか助手席でスヤスヤ眠りはじめていた。これで、当時の車内が如何に心地よい振動に恵まれていたか分かると思います。
秋田から青森へ入った所の見事なリンゴ畑は今でもクッキリと思い出すことができます。一面に花が咲いていて、農家のおばさんたちが受粉の作業をしておられた。青森へ入ったすぐの古城は桜が満開で桜祭りをしていた。いい旅だった。
↑ 上の写真は、蓮池にある半夏生(はんげしょう)で、丁度見ごろを迎えました。
大歩危・小歩危へ行ったのは多分僕が思いついて急に、鳴門の渦潮が見たいとか、本四国連絡橋を通過してみたいとか、大塚美術館へ行こうといいだしたから行くことになったものと思われます。
当時娘が神戸にいて、夕食を一緒に取ろうということにして、翌日の都合などから、何と淡路島で宿をとった。明石の鯛とかが有名で、確かに、お刺身も、お寿司も、煮物も美味しかったです。翌日娘は本州に帰り、我々は大歩危の蔓橋を見に出かけた。
深い山奥で平家の落ち武者が藤蔓を編んで橋を掛け、源氏の追手が追いかけてきたときは、その橋を切って身を護ったという言い伝えがあるとか、こういう話に弱いオソマツ君はすぐ観に行きたくなる性分である。
大塚美術館も素晴らしかった。創業何周年かの記念行事として世界に誇れる事業をしようと云うことで企画された美術館だという。世界にフアンの多い西洋絵画の名品を劣化しない方法で正確なコピーを造り保存しようという企画であったという。本物も油絵である以上空気に触れると少しずつ変色し、あと数百年後には、何の絵かさえ分からなくなるという。カラー写真も同様で、変色しないのは陶器の焼き物にしておくことだという。そこで大塚が持っている技術を総動員して、予算もたっぷり注ぎ込んで、モナリザやゴッホの「ひまわり」を陶器の板にしてしまったものを展示している。ルーブル美術館の学芸員が「本物と同じ色合いである」と認定したという、認定書つきである。この美術館はお薦めである。それらは全部、車で回った。こうした旅の一コマ一コマがが思い出されます。
阿波踊りの徳島もいい街であった。徳島で人形浄瑠璃を初めて観賞し、いたく感動したおぼえがある。あれこそ、日本人の血であると思った。演目は「トトサマノナハ、アワノジュウロベイ、トモウシマス。」という例のあれであった。
淡路島はタマネギの産地である。畑のあちこちに竹を渡した、物干し棚が作られそこに沢山のタマネギが掛けてあったことを、よく覚えている。
最後に蛇足ですがネット検索していただくと、大塚美術館の概要をごらんいただけます。
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