Team埼玉 ブログ

自閉症教育と授業改善についての学習会

論点整理

2016年10月29日 00時36分04秒 | 日記

昨年8月に出されてから、時折、夕練で取り上げて読み合わせをしています。

時代はまわり、どんどん移り変わっていっています。過去の学習指導要領を読み返すと、その指導内容例などで、ポケベルやテレフォンカードの使用等を見ると、「10年ひと昔」という言葉のすごさを実感します(さらに携帯電話からスマートフォンへ)。

過去の(昭和26年の学習指導要領から現在までの)生活単元学習で求められていた「生活」に必要な知識・技能・態度と、現在、求められているそれらの違いは確実にあります。

だからこそ、知的障害のある児童生徒の教育目標及び内容を考える上で、現在の社会情勢の動向を踏まえ、求められる「生きる力」とは何かを把握し、最優先課題として日々の授業に取り入れていくことが私たち教員に求めらているのだと思います(決して前年踏襲を重んじるのではなく・・・)。

1年間の限られた授業時間数の中で、今を生きる子どもたちへ何を伝え、どのような力を身につけてほしいのか、日々の教育実践が子どもたちの「生きる力(キャリア発達)」として、具体的にどのような形で実現しているのか、その検証こそが、知的障害教育における学習評価のポイントではないかと考えています。

畠山


「アクティブ・ラーニング!?」

2016年10月22日 22時35分19秒 | 日記

昨日の夕練のテーマです。

かもがわ出版の「教育」No.850の記事をもとに、読み合わせをして意見交換をしました。夕練は毎回、60分一本勝負をポリシーとして実施しているのですが、今回は、生活単元学習とアクティブ・ラーニング、生活単元学習の歴史と現在の社会情勢を踏まえ、どう理解し位置づけていくのが良いのか、目の前の実践を共有し合いながら少し時間をオーバーしてしまいました・・・。

ふと思うのですが、特に、教員の研修会。十数年、お話をいただき、講師をさせていただいておりますが、これほどパッシブな教授法はないと実感しております・・・。

参加者は講師の話を黙って聞くことが求められ、講師は用意したプレゼン(パワポの資料及び映像など、『ちなみに、Power Pointとは、British Englishでは、日本語で言うコンセント《電源》という意味』)を時間内で発信することが求められているということ。

子どもたちにアクティブ・ラーニングを求めながらも、教師間の学び合いは未だにパッシブ・ラーニングでよいのでしょうか???

チーム埼玉の試みとして、パッシブ・ラーニングではなく(一言も誰とも会話を交わさずに話だけ聞いて帰るということがないように)、学びを求めて休日返上で、さらに有料の研修会(数百円ですが・・・)に参加している先生方には、是非、主体的に、対話的に学んでいただこうと、「意見交換」の時間を意図的に設けています(研修会で学んだことをいかに日々の自分の教育実践に具体的に生かしていくことができるか)。

また、応用行動分析をテーマにした会では、少人数のグループに分かれて、一つの映像を何度も見返して、「自分なら子どもの行動をどのように解釈して、どう指導するのか」を話し合い、考えて、発表し合うという学び合いをしたことがありました(チーム埼玉の午前の部でしたことと同じ研修内容で県内の特別支援学校の研修会でしたこともありました・・・)。

教員の研修こそ、アクティブ・ラーニングが必要ではないかと思っております。主体的に学ぶ過程、対話的に学ぶ過程、深く学ぶ過程、これこそが、教師に必要な学びなのではないかと。

今年の夏、ある研修会で講師をさせていただいた際、自分の用意した資料を使わずに(情報提供の資料として配布しただけで)、参加した先生方一人一人が、この研修会で学びたいことを順番に発表していただき、それに対して答える、という形式で2時間半の時間を費やし、自立活動についての研修会をしました。アンケートの結果、賛否両論ありましたが、一方的に畠山の考える自立活動の話を聞かされるより、自分の目の前の子どもたちの話をしながら、悩んでいることについてみんなで意見交換し、講師がまとめるという研修会のやり方は、常識的ではないが、ためになったなど、一定の支持を得ました。

教師こそ、受け身ではなく、主体的で対話的で深い学びが必要ではないかと。

「自身から学ぼうと欲する姿勢がないと!」と思う次第であります・・・。

                                      畠山


修学旅行

2016年10月14日 22時13分25秒 | 日記

本日、修学旅行から帰ってきました。

子どもたちにとっては、一生に一度の想い出となる小学校最後の修学旅行。

教師としては子どもたちの楽しい想い出作りを目的とした授業です。

子どもによっては、親もとを初めて離れて一泊する体験(学校に泊まる宿泊学習ではなく、家族旅行以外の旅行として)となります。親御さんにとっても初めての経験となるイベントとなります。互いに、ドキドキワクワクです。

教員にしてみれば、何年かに一度、繰り返す授業となり、新鮮さがなくなりそうにもなりますが、それでも、ほんの一瞬を感じ取り、人生の中で運命的に出会えた子どもたちと、ともに過ごせる修学旅行は格別の時間となることを今回も実感することができました。

子どもたちにとって最初で最後の修学旅行は、自分自身にとっても、最初で最後の修学旅行なのだと。一期一会、とは意味が異なるかもしれないけれども、そのような意味合いがあるのかなとも思います。

養護学校を卒業してからも、二十歳を過ぎ、今でもボロボロになった小学部の修学旅行の写真を見返しているという卒業生の話を聞くと、この子の人生において大きな影響を持っている教師という仕事に責任を感じることがあります。

知的障害教育に携わる者として、その末端にいるものとして、その責任を感じながら誠意を持って目の前の子どもたちに向かい合いたいと新たに思った次第です。

自分のミスもあり、たくさんの人々に迷惑をかけたことも多々あった「珍道中」となりましたが、結果all rightで、とても楽しかった~。

また行きたいと思いつつも、もう二度と同じメンバーで行けることのない旅であることもわかりつつ・・・。

(畠山)

 

 


合理的配慮

2016年10月02日 23時43分26秒 | 日記

リーズナブル・アコモデーション。

「安っぽい調節」

とも訳すことができます。

「理にかなった配慮」

ということだと解釈はしています。

障害があっても、障害のない人たちと共に、平等に生きていくために必要な環境要因として当然になされるべきこと。

インクルーシブ教育の構築のためには絶対不可欠な条件です。

世界の、現状の、教育の動向を踏まれば、当たり前のことだと思うのですが、現場の小学校、中学校の教員の中で、このことを知らない教員がいることも確かなことです(残念ながら・・・)。

平成21年度の学習指導要領の改訂の4つのポイントの一つである、交流・共同学習の推進。障害のある児童生徒が障害のない児童生徒と「共に学び合う」教育機会。

「共に生きていく」上で、必要となる配慮・心遣い・気配り(もちろん本人の同意、保護者の了承のうえで)があって、成り立つ授業。

実際に、健常の(通常クラスの)児童生徒たちは障害のある児童生徒と共に学び、心と体で感じ、やりきれない矛盾や不条理を目の当たりにして涙を流し、目には見えない多くのことを学んでいます。

権利条約批准を受けて、今後、合理的配慮が論議されていくことと思いますが、本来、合理的配慮などとという言葉がなくても、「共に生きていく」ための配慮・心遣い・気配りとして、ごく自然に、当たり前になされていく時代が来ることを心の底から願っています。

キャリア教育の目指すところ(今している授業が子どもたちの生きる力につながる最優先の授業になっているのか)、そして知的障害教育の教育課程(学習指導要領を踏まえて)について、自分が明日から現場で何をどうすればいいのか、もっと具体的に示していかなければいけないと思いながら、考えがまとまらずに合理的配慮について、学校として何をすべきなのか、障害のある児童生徒が権利としてどのように学び、主張すべきなのか、それをどのように指導していけばよいのか等々、今年度第17回の夕練を終えて、考える機会となり、悶々としているところです・・・。

(畠山)