今日は「順受の会」・・・通称「論語の会」だ。月一の「儒学カフェ」。
前半は中江藤樹をやった。月曜日から二学期。「伝習録」をやる。
いっけん、むずかしそうだけど、みんなで気もちを整えて勉強すると、
なんとかなるもんだ。すぐに、売上があがったり、お金がたまったりするような
ものでもないし、人生がすぐに好転するものでもない。でも、ものの見方とか、
こころの持ちようが変ってくると、未来は確実ちがったものになる。
人生という旅の途中に、「!」ということがあれば、いい、ぐらいの気持ちで
参加されるといいのでわなかろうか?
最近、よく電話で、この会のことを質問される。まず、門をたたくことだ。
「大道無門」・・・大きな道、学びの道には、門など無い、誰でもいつでも
入ってきていいよ、という禅の教え。この会も、無門の会。
教科書は
「新書漢文大系 22 伝習録 」明治書院22 近藤康信【著】/鍋島亜朱
華【編】
『伝習録』陽明学の王陽明の言行録であり、陽明学の本質を著した基本書である。知行合一(知識と行いは一つのものであり、それによって道理に適うこと)・致良知(良知は人が生まれながらに持っている完全なもので、これを発揮すればすべての道理に適うこと)を唱えて空論を排除し徹底的実践を説いた。
「良知」は、「天真」と同じようなようなものだ。生まれながらにしてもっている
天真爛漫なこころ。それが発見できないのは、人が大人になるにつけ、私利私欲が
でるからだ。
そして、陽明学には、「万物一体」という言葉がよくでてくる。
「奇人」とは何をもって奇人というか。
俗人から見れば、奇人変人に見える人が、天のものさしでみると、
自然の理法と同じ、絶対的な存在の人を奇人という。
「論語」や「孟子」にも「狂者」というのがでてくる。尊敬の念をこめた
総称で、「狂禅」ともいわれた。
狂ったような面々が多いが、あくまで「自然と一体になる」という
ことが前提だ。
江戸時代以降に日本に入ってきた学問、陽明学。まだまだ奥深いもので、
こらから、この星で、いろいろな生き物や自然と生きていく人たちに
とって、非常に役に立つ学問だと思う。自然体で、気楽に学べば、の話では
あるが。
前半は中江藤樹をやった。月曜日から二学期。「伝習録」をやる。
いっけん、むずかしそうだけど、みんなで気もちを整えて勉強すると、
なんとかなるもんだ。すぐに、売上があがったり、お金がたまったりするような
ものでもないし、人生がすぐに好転するものでもない。でも、ものの見方とか、
こころの持ちようが変ってくると、未来は確実ちがったものになる。
人生という旅の途中に、「!」ということがあれば、いい、ぐらいの気持ちで
参加されるといいのでわなかろうか?
最近、よく電話で、この会のことを質問される。まず、門をたたくことだ。
「大道無門」・・・大きな道、学びの道には、門など無い、誰でもいつでも
入ってきていいよ、という禅の教え。この会も、無門の会。
教科書は
「新書漢文大系 22 伝習録 」明治書院22 近藤康信【著】/鍋島亜朱
華【編】
『伝習録』陽明学の王陽明の言行録であり、陽明学の本質を著した基本書である。知行合一(知識と行いは一つのものであり、それによって道理に適うこと)・致良知(良知は人が生まれながらに持っている完全なもので、これを発揮すればすべての道理に適うこと)を唱えて空論を排除し徹底的実践を説いた。
「良知」は、「天真」と同じようなようなものだ。生まれながらにしてもっている
天真爛漫なこころ。それが発見できないのは、人が大人になるにつけ、私利私欲が
でるからだ。
そして、陽明学には、「万物一体」という言葉がよくでてくる。
「奇人」とは何をもって奇人というか。
俗人から見れば、奇人変人に見える人が、天のものさしでみると、
自然の理法と同じ、絶対的な存在の人を奇人という。
「論語」や「孟子」にも「狂者」というのがでてくる。尊敬の念をこめた
総称で、「狂禅」ともいわれた。
狂ったような面々が多いが、あくまで「自然と一体になる」という
ことが前提だ。
江戸時代以降に日本に入ってきた学問、陽明学。まだまだ奥深いもので、
こらから、この星で、いろいろな生き物や自然と生きていく人たちに
とって、非常に役に立つ学問だと思う。自然体で、気楽に学べば、の話では
あるが。