初ちゃんの「ボチボチ生きようぜ!」

毎日の生活で出会った事をボツボツ綴っていきます。

連休

2019-05-01 | 思うこと

今年の連休は私的にはちょっときつい。

何が…と言うと病気上がりの身体がまだ元に戻っていない。

 

元に戻って欲しいとは言わないがやはり足がまだまだ回復してなくて外出は結構「ハアハア」と言う感じ。

 

入院中もいつもの筋トレらしきものは毎日してたつもりだが折角の筋肉貯蓄があれよあれよという位崩壊してしまい本当にショックだ。

 

足の弱ったのもショックだが何だか脳も少し弱って来て片づけが難しい。

PCの周りは仕方ないにしても台所やお風呂なども気になる。

毎年この時期は専門家にお願いして水回りのお掃除をお願いしてるが今年はうっかりしていた。

 

昨日、トイレを掃除したが便器より周りの床に埃があるのが取れない。

夫に言うと「いつも掃除してるが俺がしたのじゃ気に入らんのじゃろ」と言われそれ以上は言えない。

 

台所は料理するときに洗剤を付けてさっとしているつもりだが私がすると当てつけに見えるみたいだ。

 

明日からは息子が帰省して来る。

娘に少し手伝って貰い食事は何とかできる。

親としたら一年に一度くらい手作りの煮物などを食べさせたい。

 

が、私の親がしていたようにしたいと言うと夫は「何もして貰ってない」と言う。

これはショックだ。ゆっくり休めるようにと洗濯機も起きるまで回さず沢山の料理を作って待っていた母の事も覚えていないと言う。

 

この時期に、今の私にこういうことを言うなんて夫は疲れているのだろうか。きっと私の入院で大変な思いをしたのだろうな。必死に頑張っているのを見て申し訳ないなあと思っていたので早く元気になって安心させてあげなくては、と、思う。

 

一旦弱った筋肉はなかなか元に戻らないけど再入院したらもっと周囲が困るので頑張らなくては・・・と思う。ただし、頑張りすぎないように。

 

でも、ブログを書く余裕が出て来てホッとした。


心が重い

2019-02-16 | 思うこと

再開早々嫌なテーマになりました。

お正月開け、病気友達から突然電話がありました。

時折電話で交流はしていましたが年賀状欠礼のはがきが届き落ち着いた頃に電話をしようと思っていた矢先です。

「私ね、病院であんたは認知症になっているから専門医で検査を受けなさいと言われたの。主人が先に死んだからどうしたらいいかこまってるんよ」と。

彼女は私と同じ病気。私より年下でお料理が好きでリハビリが終わった後色んな所に出かけては遊んでいた。

ご主人ががんの闘病をしておられたが昨年亡くなられたそうだ。お互いの家が遠くてリハビリ病院を代わってからは時折電話で話をする程度の友人だった。

「検査をしなさいと言われたらどこかで検査を受けたり治療をしないと」と言うと「どこに行けばいい?」と言われる。

私も数年前に精神を病んだ時に家族が検査に連れて行ったと聞いた。

頼りにしていたご主人がいなくなって不安なのだと思うが息子さんの一家と同居してて近くには娘さんの一家やお兄さんの一家も暮らしている。

まずは、家族に相談して連れて行って貰わないと、としか言えなかった。

今、思い起こすとまずは市の福祉課に相談しての方がより適切だったかもと思う。しかし、彼女には最初に紹介してあげた介護事業者があると思うのだがご主人がすべて取り仕切っていたのならわからないかもしれない。

最初に申請した事業所のケアマネさんがどうなっているのかも私にもわからない。いずれにしても自分の事なので彼女がもう一度介護保険の内容とかも知る必要がある。今までリハビリとか病院とかどうしてたのかが判らないのでアドバイスもできない。

私はその時々でケアマネさんが代わり、介護度によっても変わってきたので担当になった人がアドバイスをしてくれるし、どんなサービスを受けるのか適切な事業所を紹介してくれ選んで利用する。しかし、利用は本人なので納得して契約をしてきた。

事業所によってはリハビリの内容なども違うので体験して良ければそこと契約すればいい。

彼女はそういう事は全く判っていなかったのかもしれない。

だから、認知症予防も何もして来なかったのかもしれない。

私は今でも認知症予防訓練のメニューもできるだけ参加して頭も身体も鍛えるようにしてきた。私は四字熟語などが好きなので本を買ってしたりネットでも探せばあるのでそこでしてもいいと思う。

身体は今は週二回スクワット20回、そのほかの足のリハはパワーリハプラス体操。自宅でもお風呂に入る前、鏡の前でしている。

驚いたのは70代は勿論、80代の人もシャキッとして参加していること。

そんな話や自分の病気や薬の一覧もお薬手帳とともにいつも携帯していることも話したが「それはあんたが几帳面だからよ。私には出来ない」ときっぱりと断られた。

それはそれで個人の問題だからいいのだけれど、最近の動向が誰でも災害に遭う被災率は高く、私はできるだけ周り、家族に迷惑をかけたくないと思うのでさりげなく伝えようと思ったが見事に跳ね返された。

今年に入って4~5人の一人暮らしの人に電話をかけた。今の所、みんな自立して頑張って生活をされていて私は教えられることが多い。

何も出来ないと思っていた夫は今ではかなりの家事がこなせるようになり私も一安心している。夫は何でも好き嫌いなく食べるし贅沢もしない。今はドライブが好きであちこち出歩くことが趣味なので私は助手席でその相手役をするべく座っている。それができるように健康維持するのが役目だと思っている。

しかし、彼女は今はあまり気力がなくなって困っているのだと思う。

事情をよく知っている夫は「いらん事言うと混乱するだけで自分で考えられんようになるのでそっとしてあげなさい」と言う。

こういう事は今から増えるのだろう。

実際に昨年の秋、知人の女性が一人暮らしで認知症になり施設に入居していたが亡くなったと連絡があり寂しくなった。

生き残るのは良いが認知症との戦いは厳しい。

昨年子供たちにエンディングノートを渡したがもしかすると自己満足に終わるかも・・・と思い始めている。

今年のはじめに寒々としたテーマで、しかも長文、誰かが私の心を救ってくれるかしら・・・。

 


新しい年

2019-02-16 | 思うこと

新しい年を迎え今年も多難な年になりそうな予感がしますが相変わらずボツリ、ボツリと綴って行こうと思いますのでよろしくお願いいたします。

今年は息子も帰省せず少し寂しいお正月でした。

でも、何とかおせちやお雑煮を食べ賑やかになった娘家族に囲まれ良いお正月を過ごしたなと思います。

ここ数年は入退院を繰り返した。新たな病気も見つかり少し不安な年のはじめでもある。

ただ、どちらがどうだというのでもないが不思議に(夫婦喧嘩)は減った。

それは、私が夫に頼らざるを得ないくらい弱ったからかもしれないし、夫も私がいることであちこちへのドライブも行くことが出来るかもしれない。

私はブログ以外でfacebookというツールでも沢山の方とお付き合いしている。仲間は殆どがブログだけしていた時の仲間だが半分くらいはお会いしている。

同世代と子供世代、昔の仕事仲間などfacebookの年齢層は厚くみんなまめな人が多い。

ブログのように文章を書くことはあまり無く、写真とコメントだけで完成できるので更新も楽。

今書いている文章は実は1月に書いて放置していた文章です。

これからは「今年2019年」の認識で続けていこうと考えています。

 


OB会

2017-06-10 | 思うこと

年一度のOB会。

あの人やこの人に会いたいから夫と出かけました。

でも、あの人もこの人も体調不良で来られていませんでした。

私も夫も大きな職場にいたので知り合いは多くてお話できる人はいますが期待していったら来られていないとちょっと残念でした。

総会もさらりと終わって懇親会に入りますが皆さん「出し物」の支度に行くので食べるのもそこそこでお気の毒です。

今日はカメラは持って行かないのでスマホで待ちかまえました。

腹踊り、名物のひょっとこ踊り、ハモニカの演奏など「出たがり」が多いのが特徴です。

ゆっくりしたいのに「ビンゴゲーム大会」で盛り上がります。

その間に椅子ごとひっくり返る人もいてまあにぎやかです。

私は食べ終わったらスマホで写して回りますが席にいてもお酒をもって色んな人が話に来ます。

兄のお友達も来て話し込んで行かれますが病気自慢の人が多いです。

そうこうしている間にカラオケを歌う人がいてカラオケが嫌いな夫はさっさと帰りました。

私は毎年女子会をするのでそれを楽しみに参加したのに休んだ人が多くて行くのをやめて帰ることにしました。

私達の職場は女性が多かったのですがいわゆる「役者」が多くて忘年会などの宴会は全員で参加するのが通例でいつも「何をしよう」と悩んでいましたが短い寸劇でもせりふが上手くて「かんいち・お宮」などは毎回誰かが演じるので楽しみでした。私は歌を歌ってちょっと踊ることぐらいしか出来なくて今思うともっと楽しめば良かったなと思います。交代制勤務なのでお昼に宴会もアリでしたが宴会場も心得て黒幕を張り巡らせて夜の雰囲気を出してくれるのです。

でも、我ながらそんな時代だったからこそ一次会が終わったら二次会に行く人とすぐに保育所に直行する人に分かれて保育所組は酔いを醒ましてお迎えに颯爽と行くので男性の職員さんはあっけに取られていました。みんな本当に先輩を見てしっかりと親をしていたなあと思います。

我が家の場合は夫が有休をとってお迎えをしてくれていました。二次会に行く人はちゃあんと心得てお酒などは1杯だけが課長のおごりでそれ以上は飲み食いしないと申し合わせていたのでなぜか私がそれを課長に言う役だったですね。でないと新任の管理者はどのくらいお金を出すものかと不安ですから。

娘も時折「飲み会」があるので子供が小さい時は帰宅するまで留守番をしていました。

もう、大きくなったので楽になりましたが私達も娘も電話で様子を聞くくらいになりました。

最近事件が多いので不安はありますが私達のように年取ったらOB会で楽しめるような老後になればいいなと思います。

来年も元気で再会できるように約束して後にしましたが改めて元気でいようと思いました。

 


今年のテーマ

2017-03-20 | 思うこと

今年のテーマと大上段にいう事でもないのですが暇なので何か一つ目的を持ってみようと思い興味のあることを振り返って見ました。

今思っているのは「キリシタン迫害」の歴史について色んな雑誌が特集してるので読み漁ってみました。

キリシタン迫害は全国に及んでいるので津和野だけでは無いのですが高校生時代から心に留めていたことなので出来るだけ資料を読んでみようと思いついたのですが明治政府になってから迫害は厳しかったという事が判り、日本人でも宗教弾圧で沢山の人を殺したり棄教させていることに腹が立ちます。今や世界中でISに対する憎しみはありますが日本民族の宗教観はどうだったのかと考えてみました。それよりも、明治維新は何ぞやという事も考えないといけないんだなと思います。決して新しい夜明けでは無いむしろ差別や迫害の始まりだったのではないのかと思います。私の故郷「津和野」という町は長崎からのキリシタンを受け入れて迫害しほとんどが棄教したり拷問で亡くなったりした歴史があります。

私は高校時代町はずれの谷間にある教会に友人たちと行くのが日課でそこにはドイツ人の司祭が教会を守っておられ私たちが行くと必ずどこからともなく現れて「コンニチワイイコ」と言って迫害の歴史を話して下さっていました。名前こそ奇麗な「乙女峠」と言う場所でしたが私たちはいつも教会の中でお祈りをして帰りました。今でもカタコトの「サヨナライイコ」と言う声が聞こえてきそうなくらい耳にしっかりとこびりついて忘れられない経験でした。冬は結構寒いので迫害を受けた信者には厳しいものだったと思います。

数年前夫を案内していった時大型のバスが2台止まっていて日本人も外国の人も一緒にミーティングしていて終わってから若い金髪の女性に聞きました。

彼らは世界中から集まったキリスト教の信者で毎年津和野や他の迫害地に巡礼の旅をするんだそうです。

特に津和野はその迫害が酷かったので有名なんだそうです。私はそのことを知っていたのでとてもショックでした。

先日夫と映画を見に行きました。「沈黙」は遠藤周作原作で私世代は読んでいる人が多いと思います。遠藤周作さんはクリスチャンなので宗教に関する本を沢山書いています。沈黙を読んで迫害の歴史に触れ少しイヤーな気分になったことはありますが私の宗教はどうかと言われると普通に「仏教」としか言えないので数十年前に日本人が迫害されながら生きてきた歴史は心が切なくなります。何であれのほほんと生きてきた私と比べると波乱万丈の人生を送った方と比較するのが変ですが宗教は何であれ幸せな人生を送るために必要ではないのかと思う私にはロドリゴやキチジローのような生き方には近寄らないかもしれないなと言うのが本心です。今世界中でISがユダヤ教を恐怖の宗教のように祭り上げていますが本来はとても穏やかな宗教だと聞いたことがあります。仏教も幼い頃から聞かされて育ちましたが今や葬式仏教だと陰口を言われるくらい心のよりどころでも何でもなくこれでいいのかな?なんて思っています。まだもう暫く色んな本を読み漁って勉強しようと思います。

 

 


退院

2017-03-10 | 思うこと

2月の後半から入院していましたがやっと退院できました。

症状はあまり変化は無かったのですが定期診察で以前出血した場所に出血していたので即入院になりました。

右脳の視床下部、新しい出血だと聞きました。

ずっと点滴と薬の処方で先生からは2~3週間、から1か月かかると聞いて昨年も同じ時期に脳梗塞をしたのが思いだされこの時期はどうしても血管に負担がかかる時期なので仕方ないと思いましたが点滴の針が入らず毎日が鍼との戦いでした。両腕は紫の注射痕だらけで毎回痛々しい限りです。今回は近くの病院に転院していましたので自宅から近く夫も娘も楽だと言っていましたが毎日頑張って来てくれました。親しい友人にはメールをしたのですぐに飛んで来てくれました。コーヒーが飲みたくて飢えていたら迫ちゃんが来てくれて「コーヒー飲みたいよぅ」と言うと甘いのとブラックを買って混ぜて飲みました。次の日は娘と飲み夫とも同じようにして飲みました。左半身はしびれがきつく痛いのですが院内は暖かく足を出して眠るくらいでした。今の時期看護師さんのインターンが大勢いて孫と同世代の男女が毎晩沢山宿直でいてトイレもお茶が欲しい時も直ぐに飛んで来て面倒を見て貰いました。男の子は起き上がる時もしっかり支えてくれるので頼もしく10年前と比べると環境がまるで変っています。今回は右半身が痛く腰が痛くて起き上がり、トイレなどの動作が痛くてアイタタアイタタと言ってばかりです。自宅に戻ったら夜中のトイレが大変で起き上がるのが寒くて足がこわばり暫くはアイタタばかりでしょう。でも気力は少し上向いてブログやフェイスブックもしようと言う気になりました。

今週末は四国の孫が帰省してきます。一緒にお食事に行こうと娘と約束していますので楽しみです。

デイケアはもう少し身体が動くようになってからにしようと思います。

その後に写真を写しにいkwルようになればいいなと思っています。


おめでとうございます

2017-01-01 | 思うこと

あけましておめでとうございます。

お天気に恵まれて暖かい新年のスタート。

今年も色々とアクシデントがあるでしょうがよろしくお付き合いをお願いします。

今日は早速初ドライブ。

西区のマリーナホップに行きました。

何と!若い人を中心に沢山の人がブラブラとされていました。

ドッグランがあるのでワンちゃん連れが多いですね。

腹ごなし・・・みんな思う事は同じですね。

 

ふと、昨年のお正月を思い出して廿日市まで足を延ばし寿屋珈琲に行ったらやはりね、お休みでした。

昨年福袋買ったら凄く沢山入っていたので今年も買いに行こうと思っています。

仕方なく早めに帰ろうと自宅近くに帰ってきたら交差点の信号で夫が「目が回る~運転できーん。」と急に苦しみだし私は「判ったからパニックにならないんよ」と言いつつ後続車に知らせるべくハザードランプを付け、ハンドブレーキを引いて夫に横になるようにしました。

少し前に自宅で同じようになったのでメニエルでは?と思っていたのですがハンドルが切れないというので娘を呼ぶしかありません。

交差点の真ん中は結構怖いのですが良く知った道だし娘も近くですぐに来られる位置なのでパニックにならず連絡が付きました。

が、しばらくすると「治りそうじゃ」と言うので娘に断りゆっくりと自宅へ帰りました。

メニエルは私の母が晩年に患い随分苦しんだので症状もよく知ってはいますが吐き気も無くすぐに回復しますが何度も発作が来れば私も対応できません。

お正月明けに病院に行った方が良いでしょうね。

私も一度軽いめまいでふら付いたことがありますがそれきり今は出ていません。

私の病気や毎日のように遠距離ドライブして疲れているんじゃないかと思いますが遠出は当分控えなくては。

何はともあれ今年もよろしくお願いします。


カープ

2016-10-30 | 思うこと

カープが思いも寄らず敗退した。

私は熱心なカープファンではないが幼馴染がカープの選手と結婚した縁で多少の興味はある。

だが、野球の話は殆どしたことが無く30数年病気をしたらお互いに電話をしてお見舞いにかけつけることにしている。

今年はいつもの年と違いリーグ優勝は危な気なくすんなりと決まり安心して結果を見ることが出来た。

しかし、日本一にはなれなかったのは残念だった。

今年のカープはいつもと違い若さがはじけるような試合運びで黒田選手と新井選手が若い選手を懸命にけん引し育てているんだなと素人目にも感じるシーンが多かった。

負けてしまったけれど日ハムの選手もよく頑張ったと拍手を送りたい。

ネットでは監督の采配がどうのこうのとささやかれてはいるが今は「お疲れ様」と言ってあげたい。

感動的なシーンが沢山ありほろりとすることもあった。

沢山の人が「感動をありがとう」と言っている。

私も全くそうだなあと思う。

切磋琢磨して来期もドキドキハラハラさせてもらいたい。


「キャノン・ハーシー ヒロシマへの旅」

2015-08-13 | 思うこと

以下は先日NHK BSで放映された「キャノン・ハーシー ヒロシマへの旅」と言う番組を見ての感想です。長文になり言葉がおかしい所があるのですがお許しください。

1946年、原爆投下1年後に広島を取材に来たジョン・ハーシー記者

帰国後、その取材を基に「ヒロシマ」と言うルポルタージュを書きアメリカで出版。

原爆の「非人道性」についてありのままの広島の姿を「ニューヨーカー」に寄稿しアメリカ社会を始め世界中に知らしめた。

その、生々しい広島の惨状は原爆投下の是非についてアメリカが主張する「戦争を早く終わらせるため」だと信じていた国民に「人体実験ではないのか」とか「非人道的」とかアメリカ国民のみならず世界中から注目された。

10カ国語に翻訳され世界中の人に読み継がれ今でも増刷されていると言う。

 

彼の孫であるキャノン・ハーシーがこの春、広島長崎を訪問し、祖父の軌跡をたどった。そのルポルタージュ番組である。

 

最初はTV放映を知らず、後篇のみ見て、昨夜やっと前篇の再放送を見た。

「ヒロシマ」は6人の被爆者の体験記が中心でジョン・ハーシー記者が見たありのままの広島の姿、惨状を極秘裏に寄稿し、アメリカの人たちに「核の怖さ」を伝えた。取材した6人の被爆者は

 

佐々木とし子(東洋製缶工場の社員。爆心から1.5キロ。)

藤井正和(医師。京橋川の近くにある自宅(藤井病院)にて被爆(爆心地から1.4キロ)。

中村初代(幟町在の仕立屋の未亡人。爆心より1.2キロ。)

ウィルヘルム・クラインゾルゲ(イエズ会ドイツ人司祭。通訳、案内人。幟町の教会で被爆(爆心地より1.3キロ離れたところ。)

佐々木輝文(外科医。日赤広島病院にて被爆(爆心地より1.5キロ。)

谷本清(牧師。流川に教会。市街の知人の家で被爆(爆心地より3.2キロくらい)

 

ピュリツァー賞受賞作家でもあるジョン・ハーシー記者は「ヒロシマ」を自身が所属する「タイム誌」に載せず対抗誌である「ニューヨーカー」に掲載、発売と同時に長く身を隠し家族にも存在を知らせなかったらしい。

原爆投下後の広島に入れたのは彼の妻の実家が大富豪であり、軍部にも多くの知り合いがありそのつてで入国できたからだそうだ。

だが、その妻にも消息を隠し続けたらしい。

 

今回の取材でジョンの息子にもキャノンは聞きに行っているが画家である彼は殆ど興味も無く知らされてもいなくて「???」と言う感じ。

ジョンは家族にも口をつぐんできたようだ。

 

キャノン・ハーシーは芸術家だが、今回来日するにあたり、祖父の軌跡を訪ねジョンにゆかりのあった人々や場所などを訪ね、本を出版してから沈黙をした祖父の想いを知るために多くの調査をしていた。

私は「ヒロシマ」の本も読んでいなくてそんな方がいたのかとその勇気と事実に感動した。

原爆を発明したアインシュタインもこのルポルタージュを読んで1000部買ったそうです。

 ジョン・ハーシーは「ヒロシマ」発表以後、口を閉ざしました。

今回、キャノンの目的であった一つに「なぜ、本を出版後祖父は長く口を閉ざしたのか」の疑問に孫であるキャノンは「被爆者と同化してしまったから」という結論に至りました。

 

被爆者は被害者ですが、さらに日本国民からも差別を受けます。

放映の中で、ある女性が「異常な子どもが生まれるから」と結婚できません。

ですから、みな口をつぐんでしまいます。と言う場面があった。

キャノンは祖父がこれと同じ行動を取ったのだと理解しました。

 

この再訪に当たっては元広島市長である秋葉忠利さんが「アキバプロジェクト」の運動をされていたので橋渡しをされ実現したそうです。

その再訪時にも最初に取材した被爆者の方を取材され「ヒロシマその後」と言う本を出版されています。

ジョン・ハーシーは長い沈黙の後65年からエール大学の教壇に立ち、85年に広島を再訪、取材した被爆者の足取りを追って、「ヒロシマ その後」を出版し重い口を開いています。その時に発した言葉は「被爆者の受けた苦しみ出来事を語り継いで欲しい」という事でした。そして、93年に78歳で亡くなっています。

今回のルポルタージュは谷本清牧師の長女である「近藤紘子さん」との出会いから始まった。近藤紘(こう)子さんのお話は一度聞いた気がするのですが今回学生たちに話している内容から「被爆したことを隠すため高校は東京、大学はアメリカに行った」と言われている。

谷本清牧師もアメリカの大学で牧師の資格を取っている。

ジョン・ハーシーさんからすれば宗教的にも谷本清牧師は取材対象としては良かったと言うべきだろう。

そして、原爆乙女を渡米するにあたってもノーマン・カズンズさんたちの支援を受けて実現し、牧師、医師と言う人選はルポジュタージュに適していたと言えよう。

近藤紘子さんは今は被爆者として語り部をされているが被爆の事はずっと隠して生きてこられたと言っておられる。

今回とても心に残ったのは被爆しても救助活動され、最後は原爆症で亡くなったウィルヘルム・クラインゾルゲ牧師のことだ。

ドイツ出身で最後は向原教会で過ごされたと近くの信者さんが話されていた。

異国の地で辛い試練をされ亡くなった神父さんに心が痛んだ。

 

今回はTVを見ての感想なのでまだ書きたりない思いがするがここで一応終わり。BSでオンデマンド放送を見ることが出来ると思うので興味のある方は見て欲しいです。長文読んでいただきありがとうございます。本当にいいルポでした。

ぜひ、「ヒロシマ」も読んでみたいと思います。

 

 

 

 

 

 


初めての猛暑

2015-07-31 | 思うこと

「初めての」などと書くと何かの特権のようですが本当に昨日の朝までは早朝に戸を閉めないと寒くてくしゃみが出るほどでした。

一戸建て、またはマンションの下の階の方は今までも熱帯夜あり、クーラーもかけずにいられなかったはず。

でも、今朝はちょっと暑いな~とトイレに行き、暫くまどろんで起きました。

最近はすっきりと起きられなくて、朝食に果物とヨーグルト、小さいパンを食べてニュース・朝ドラを見たら又ベッドに横になりました。

それから何時間か眠ったようですが喉が渇き起きようとしたら手が滑ってベッド脇に手が落ちてはまり、頭を壁にゴンッと打ち、身体をねじった状態で動けなくなりました。

病気をしてからこういう事は何度もありましたが大抵一人の時なので時間をかけて何とかするしかありません。

情けないやらはがゆいやらですが、今回は夫がいたので助けて貰いました。

でも、やはり肩の付け根を痛めたらしく、午後からの市民劇場は行かないことにしました。

午後、生協から荷物が届き、夏休みの子供たちのお昼ご飯にと注文したものが一箱あり、夕方部活から子供たちが帰ってきたら届けてそのまま田舎へゴーです。

お世話になっている夫の親戚へお中元を配ります。

本当に皆さんに親切にしていただいています。

でも、心の中では「私が元気だったらな」と、つい思ってしまいます。

口に出して言うと夫は怒ります。

今回は夫の実家について相談したいなと思っていたのでお昼がいいのですがこんなに暑くてはいくら田舎でも暑くて落ち着かないと思い夕方にしました。

いつも、帰宅すると家の周りのボウボウの草は綺麗に刈ってあり、田んぼもお世話を全部して下さいます。

一度改まって「少しでもお金を出させてください」と言っても「ついでだからおかねはいらん。俺が出来る間だ」の一点張りで甘えています。

それでも私は義父から色々と風習について聞いていましたので何とかお付き合い出来ますが生前義父のいう事を全く聞かなかった夫はこれからどうするのでしょう。

義父はお庭の手入れから田舎のお付き合いにまで私に託して逝きました。

私の実家は兄が全部母から受け継ぎ、家も大分前に壊して平地にしています。

同級生の不動産屋に頼んでいるとはいえ多分うれないであろうと思います。

我が家も草ぬきをしていた時、聞きに来られた方もいましたがお断りし、アメリカから来られる英語教師の方が日本家屋に住みたいと聞いてこられたこともありましたが屋根だけは全部やり治したのですが何分にも寒冷地、毎年、水道管が破裂してお風呂のみならず水洗トイレも家の中の管が破裂し、お断りしました。

まだ働いていた頃なら治せたかもしれませんが今は老後の守りに入っているのでお金は使いたくないし、夫が悩むのも無理はありません。

という事で一応宝くじを買ってみました。

当たればすぐに小さなログハウスに建て替えます。しかも、もう建築士は決まってるんですよ。

我が家の一部屋をログ調にして貰った1級建築士の方です。

当たると良いね。

こんな暑い日、こういう事考えてると涼しくなるから素敵~。