そのせいでは無いのだろうが、訃報の電話を受けたちょうどその時刻、みかんの丘に激しい雨が降った。雨は2時間ほどで止み、丘は静寂を取り戻した。初々しいみかんの新葉に溜まるしずく。隣であおむしに葉を食い尽くされた小枝が痛々しい。
丘を見回ると、初夏になって植えた苗木から新芽が吹いていた。
この芽はやがて新しい枝となり、日の光を受けて苗木に息吹を送り込む。そう。失われるものばかりではない。ここには希望がある。何時までも悲しむのはよそう。そう思いながら涙がこぼれた。
竹取庵の屋根を開け、口径20センチの反射望遠鏡に大きいほうのカメラを取り付ける。近場の3等星でピントを合わせ、筒先を星雲に向けた。カメラ感度3200、露出7分。ガイドをコンピューターに任せて居眠りしながら写し取ったのがこれ。
淡いピンクのガスのあちこちに見える虫食いのような黒い穴は「グロビュール」と呼ばれる星の卵だ。この先端で、今まさに星が生まれつつある。
この1枚を撮ったところで時刻は午前1時を回ってしまった。もう帰ろう。と言うわけで、この画像は重ね合わせ無し。キメが粗いのはその為だが、入梅前の記念の1枚というところだろうか。
天の川の下流、いて座のシンボルとも言える南斗六星の柄の先から少し南に下ったところに、肉眼でもはっきりと分かる光の塊りが有る。日本から見ればまるで銀色の川の河口付近に出来た小さな干潟。 M8。この塊りに「Lagoon Nebula=干潟星雲」の名を与えたのはイギリス人女性アグネス・クラークだと言われている。1890年のことだ。
明日は仕事が有るので余り時間は無いが、せっかく夏の天の川を撮影しに来たのだからと、欲を出してこの干潟星雲も撮影する事にした。
月は昇ったものの、南の天の川はまだはっきりと見えていた。今度いつこんなに晴れるか分からない。駄目で元々、撮ってみようか。カメラを望遠鏡から外し、元のレンズを付け直す。条件を「はくちょう座」の撮影に合わてフレームを南に移動。カメラのシャッターを開く間に7分。画像がモニターに現れるまでに7分。この間、空はわずかずつ明るくなってゆく。ここまでか。竹取庵の屋根を閉め、ディテールの薄らいだ天の川に別れを告げて丘を下りた。
翌々日、2枚目の天の川の画像を処理をしながら気が付いた。北の天の川と南の天の川、この二つの画像は一部重なり合っていてつなぎ合わす事が出来る。そこで数時間頑張って仕上げたのがこれ。はくちょう座からいて座までの天の川だ。地上の明かりの影響は有るものの、場所によって明らかに色が違う星の流れ。その両側で織り姫彦星が鮮やかだ。
僕らの住む銀河を真横から見た姿。それもここに写し撮ったものは一部分でしかない。その壮大なスケールの中で僕らは生きている。 いや、生かされている。その理由を尋ねるのは、未熟な人類にはおこがましい事なのだろうか。
天の川を堪能しながら「はくちょう座」を撮影するうち、東の山の端が次第に明るくなってきた。月が昇る。そう、今夜の撮影チャンスは、天の川が高度を上げてから月が昇るまでのわずか2時間ほどだった。その貴重な時間も家を出遅れたためにかなり喰われていた。
木立の隙間を縫って下弦を過ごした月が見る間に昇ってくる。それはまるで生き物のようだった。そうだ、この様子を撮影しよう。そう思い立ってはみたものの、カメラを雲台から外して8センチの屈折に付け替え、ピントを合わせているうちに月は木立から離れずいぶん昇ってしまっていた。
月が昇ると、澄み切っていると思われた星空のあちこちに刷毛で曳いたような薄雲が見える。そういえば月自体も羽衣を纏っていた。空全体が明るくなる。撮影もここまでかな、そう思いながらシャッターを切った。感度は「はくちょう座」の撮影と同じく1600、シャッタースピード15分の1、F値は口径8センチ焦点距離600mmだから7.5かな。
月齢22。夕方の月とは太陽の当たり方が逆さまだ。普段見慣れたクレーターもなんだか別物のようで妙によそよそしい。