我が社はどちらかというと「親方日の丸」的な会社であるが、それでも、労働福祉的な面が充実しているとは言えない。
具体的に言うと、できるヒトに仕事が集中する。それが全く改善されず、拡大再生産される。
他方、できないヒトややる気のないヒトは、疎んじられ、相応の「外れクジポスト」を回り、碌に仕事をしない。
古い言い方をすれば「窓際族」というヤツである。
困るのは、その地位に安閑とし、仕事はしないが給料だけは貰っていっかな恥じない、というタイプを一定数抱え込むことになる点である。
フツーの会社なら堪り兼ねて自主退職するような冷遇でも、彼らは全く気にしない。
ひどいのになると、ゴマスリだけして仕事と責任は投げ出している「愛嬌のない植木等」タイプになる。こういうヒトは、仕事をしなくても上の感情を害さずに居るので、なんとなくそれなりに評価されているようなポジションを回ってしまう。
こういうヒトの部下になると、たまったものではない。「自分は仕事をせずによい」「すべて部下にやらせればよい」「仕事を覚える気もない」というスタンスを隠しもせず、日中は新聞を手に情報収集を気取るか、若しくは上司の機嫌取りに終始し、時間がくればとっとと退社する。「それでいい」と、本気で思っている。
こういった社員の有様が、長い勤務年数の一時であるならまだしも、常態であるとなれば、働き手としては無駄銭ということにしかならないが、それでも解雇はされない。
ゴマスリタイプなら尚更、上司の覚えだけはいいので、どんなに仕事をしていなくても評価は下がらない。
それすらしないようなヒトでも、いざ解雇をするとなれば、実は次に、それを決断したヒトの責任が問われることになる。そして、決断すべき立場のヒトは、それを嫌う。
つまり、人事管理の責任者にしてみれば「問題を先送りしておこう」という判断に傾きがちになる。結果、こういう「評価は気にしない。椅子を尻で磨いているだけで給料が貰えるならそれでいい」というヒトが減らないということになる。
他方、「できないヒト」の中には、うつ的に、あるいは統合失調症的に、もう日中ぼんやりとしかしていないとか、ひどいといつの間にか居眠りしているとかいう場合がある。
私も鬱で苦しんでいるので、一歩間違えばいつでもそちら側に行きかねない。ヒトゴトではない。
ただ、こういうタイプにも二通りあって、本当に苦しみ、仕事ができないことを申し訳なく思って、治療を粛々と(鬱のヒトは「頑張ってはいけない」ので)するヒトと、病気と怠惰の区別が最早つかなくなってしまったようなタイプのヒトに、分かれる。
これは残念ながら、労働福祉制度上の観点により、現状、どちらのタイプであっても、よほど酷くない限り解雇の対象にはならない。
そのことだけをもってすれば、むしろ我が社の「労働福祉面は手厚い」ということになるのかもしれない。私自身も鬱持ちである以上、私欲を優先すれば厳しい人事管理は困る。たぶん、ご同様に考えるヒトが上にも居られるため、こういう部分も温存されてしまう。
ところが、その負の側面がある。結果、上記の一見「手厚い」労働福祉は、全体としてその効果が相殺されてしまい、むしろ、負の側面が大きくなる。詳しくは後述する。
であるから、俯瞰的に見れば、上記二通りがある程度区別出来る以上、その線引きは常に考えておくべきなのが、本来あるべき姿であろう。
すなわち、ちゃんと仕事に責任感を持っているヒト、治療を真面目にやっているヒト、そういうヒトは残しておき、そうでない「怠惰と区別がつかなくなった」ヒトは、辞めていただけるような制度設計なり人事管理なりを、早急に実現すべきである。
もっとも、私見を述べれば、我が社の場合、精神系トラブルの大半は職場の理不尽が原因にあるように見える(私自身について言えば、半分はそれだが、半分は異なる)。どちらかといえば、職場の理不尽改善を優先すべきだ。さすればサボリはともかく、傷病系の問題は改善に向かうはずであるし、何より人事管理者だって評価を下げることがない。
なぜそうならないのかは、謎だ。というか「問題だ」という意識がないのかもしれない。何せ、尻で椅子を磨くだけでも給料が貰えているヒトが現に居るのだ。自分がそうなりたいとか、自分がそう看做されるのは嫌だが仕事は増やしたくないという場合は、そういったことを「問題視しない」というバイアスがかかっておかしくない。我が社という部分社会における適者生存が起こった結果、そうなっているのかもしれない。
さて、病理発生の原因たる「理不尽」の一つが、冒頭に述べた「できるヒトに仕事が集中する」という事態である。
「できるから」というだけで安易に「できないヒトの分の仕事」も負わされる。仕方ないからと、できるヒトはしゃかりきに仕事をやってしまう、あるいはやらされてしまう。無論、やった分だけの正規の労働報酬は出ない。本人が空気を読むのと、単に部門に金がないのと両方で。
結果、いつしかできるヒトは、その限界を超え、心身に不調を来す。そうして、優秀なヒトも磨り減っていってしまう。ひどくなると、できる人は大抵マジメなのであり、真面目な分だけ自己の状況に耐えきれず、自責の念に駆られて自主退職してしまったり、自死を選んでしまったりする。
それでも上は「人事管理者たる自分の評価が下がる」ことを近視眼的に恐れるばかりで、こういった悪い傾向を改善しようとしない。ひたすらに、そういった最悪解に「自分が当たらない」事を祈るだけだったりする。更には、万が一そういう事態に至っても、別に反省もせず改善もせずボヤくのみでありもする。そうして今度は、次に出来るヒトに仕事が回っていくだけである。
あるいは、そういった修羅場をくぐった「できるヒト」が、幸いにして「やりこなせてしまった」場合どうなるか。
今度は、何時しか怨嗟を抱えるようになる。「俺はあんなに酷い仕事を押し付けられ、でもこなしてきた。お前らだってできるだろう、いや、俺と同等には苦労して当たり前だ」とばかりに、自分が地位を得ると、今度は、自覚してかせずしてか、部下に理不尽を強いる上司に変貌してしまう。
そういう上司に当たった部下は壊れ・・・以下同文と、負のスパイラルが続くようになる。
そうやって、何時まで経っても、こういった傾向は、改善されずに残る。劣性遺伝が続いてしまうのである。
これが、手厚い労働福祉を「相殺」してしまう。
むしろ負の側面が大きくなる理由である。
考えるだけで気が滅入る。
しかも今の私には、鬱の所為で気が滅入るのか、事実だから気が滅入るのか、最早区別がつかない。
私自身は、仕事に関する問題意識は高いつもりだ。ただ、個人的なコネクションや飲み会的な非公式な場を通じて築き上げた、横の関係というものがない。
したがって、例えば知り合いの感情に訴えて助けを乞うような解決手段は、持ち合わせていない。そういうコネのあるヒトと比べると、与えられた課題への対応は遅くなりがちである。つまり私は「できない」タイプに属するといえる。
ただし、そのかわり私は、ほとんどの課題を独力で解決するノウハウだけは、蓄積している(自慢げに書くことではない。要するにそれが自分にとって一番楽だからそうしているだけである。昼行灯は伊達じゃない)。
その方法も、別にどうということはない。単純に、問題を冷静かつ客観的に分析し、最短の方法でゴールにたどり着くやり方を提案するだけだ。それもできるだけ「身も蓋もなく」である。
言ってみれば、ここに書いているような類のことだ。誰もが内心思ってはいるが、言葉にしない、できないでいるようなことを、私は意識的に「言語化」するようにしている。
しかも私は割合、職場でもオブラートにくるみつつ、こういった「身も蓋もない話」を口にしてしまう。なぜなら、そこから目を背けていては問題解決にならないからである。問題解決にならなければ、私の仕事は片付かないのだ。それは、私も困るし、たぶん私にあてがわれた業務に関わるヒトも困る。だから私は、分かっていても、私流で身も蓋もなく、日々残業をして、どうにかこうにかあてがわれた業務をやっている(やれているかどうかは、知らない)。
とはいえ、そういった頭でっかちの議論は、親方日の丸的な我が社では、好まれない。
結果、上司が私に抱く印象は、悪くなりがちである。特に「横の関係」こそを重視するような「体育会系のヒト」にとっては尚更覚えが悪いであろう。
仕事をやったか否かにかかわらず。
まあ、もっとも私が何か提案したところで、私に部下が居るわけではないから「じゃあお前がやれ」という話になってしまう。
果然、自分がやりやすく、効率が良く、かつ仕事の質も一定を保てる方法を、一層「自己実践」する羽目になる。
そうすると、実のところ、それなりに仕事はこなせてしまう。特に最近は鬱からの回復基調にあるので、尚更、やれてしまう度合いが高い。
そうした結果、私の立場はどうなるか。
まず、私は「できないヒト」なのに、仕事は集中するというパラドックスが起きる。
しかも一向に減らない。
それでいてなおかつ、上司の覚えは宜しくないので、評価は低いという状態になる。
理不尽極まる。
私の「努力すればするほど事態が悪化する」状況の、一例がこれだ。
別に高評価は要らない。
ただ、適正な業務量にして欲しい。
締切が重なっている仕事をぽんぽん投げて寄越すのは、いいかげんにしてほしい。
頼むから遠眼鏡を持っておくれ。実際、回ってないやん、うちらの仕事。
たぶんその半分以上は、きちんと組織内の仕事分担を考えずに、私に締切重複の仕事を複数あてがっているせいだよ。
年末年始どうすんのよ、いやマジで。
病院に行く暇もありゃしないよ。やってらんない。
ってか、ボヤいてる位なら退職すべきだよなあ。好きでやってる仕事じゃないし。
そう出来ないのは、結局「俺が悪い」のだ。鬱。
そんな2013年のクリスマス。
(次回記事は楽しいものにする予定です)
具体的に言うと、できるヒトに仕事が集中する。それが全く改善されず、拡大再生産される。
他方、できないヒトややる気のないヒトは、疎んじられ、相応の「外れクジポスト」を回り、碌に仕事をしない。
古い言い方をすれば「窓際族」というヤツである。
困るのは、その地位に安閑とし、仕事はしないが給料だけは貰っていっかな恥じない、というタイプを一定数抱え込むことになる点である。
フツーの会社なら堪り兼ねて自主退職するような冷遇でも、彼らは全く気にしない。
ひどいのになると、ゴマスリだけして仕事と責任は投げ出している「愛嬌のない植木等」タイプになる。こういうヒトは、仕事をしなくても上の感情を害さずに居るので、なんとなくそれなりに評価されているようなポジションを回ってしまう。
こういうヒトの部下になると、たまったものではない。「自分は仕事をせずによい」「すべて部下にやらせればよい」「仕事を覚える気もない」というスタンスを隠しもせず、日中は新聞を手に情報収集を気取るか、若しくは上司の機嫌取りに終始し、時間がくればとっとと退社する。「それでいい」と、本気で思っている。
こういった社員の有様が、長い勤務年数の一時であるならまだしも、常態であるとなれば、働き手としては無駄銭ということにしかならないが、それでも解雇はされない。
ゴマスリタイプなら尚更、上司の覚えだけはいいので、どんなに仕事をしていなくても評価は下がらない。
それすらしないようなヒトでも、いざ解雇をするとなれば、実は次に、それを決断したヒトの責任が問われることになる。そして、決断すべき立場のヒトは、それを嫌う。
つまり、人事管理の責任者にしてみれば「問題を先送りしておこう」という判断に傾きがちになる。結果、こういう「評価は気にしない。椅子を尻で磨いているだけで給料が貰えるならそれでいい」というヒトが減らないということになる。
他方、「できないヒト」の中には、うつ的に、あるいは統合失調症的に、もう日中ぼんやりとしかしていないとか、ひどいといつの間にか居眠りしているとかいう場合がある。
私も鬱で苦しんでいるので、一歩間違えばいつでもそちら側に行きかねない。ヒトゴトではない。
ただ、こういうタイプにも二通りあって、本当に苦しみ、仕事ができないことを申し訳なく思って、治療を粛々と(鬱のヒトは「頑張ってはいけない」ので)するヒトと、病気と怠惰の区別が最早つかなくなってしまったようなタイプのヒトに、分かれる。
これは残念ながら、労働福祉制度上の観点により、現状、どちらのタイプであっても、よほど酷くない限り解雇の対象にはならない。
そのことだけをもってすれば、むしろ我が社の「労働福祉面は手厚い」ということになるのかもしれない。私自身も鬱持ちである以上、私欲を優先すれば厳しい人事管理は困る。たぶん、ご同様に考えるヒトが上にも居られるため、こういう部分も温存されてしまう。
ところが、その負の側面がある。結果、上記の一見「手厚い」労働福祉は、全体としてその効果が相殺されてしまい、むしろ、負の側面が大きくなる。詳しくは後述する。
であるから、俯瞰的に見れば、上記二通りがある程度区別出来る以上、その線引きは常に考えておくべきなのが、本来あるべき姿であろう。
すなわち、ちゃんと仕事に責任感を持っているヒト、治療を真面目にやっているヒト、そういうヒトは残しておき、そうでない「怠惰と区別がつかなくなった」ヒトは、辞めていただけるような制度設計なり人事管理なりを、早急に実現すべきである。
もっとも、私見を述べれば、我が社の場合、精神系トラブルの大半は職場の理不尽が原因にあるように見える(私自身について言えば、半分はそれだが、半分は異なる)。どちらかといえば、職場の理不尽改善を優先すべきだ。さすればサボリはともかく、傷病系の問題は改善に向かうはずであるし、何より人事管理者だって評価を下げることがない。
なぜそうならないのかは、謎だ。というか「問題だ」という意識がないのかもしれない。何せ、尻で椅子を磨くだけでも給料が貰えているヒトが現に居るのだ。自分がそうなりたいとか、自分がそう看做されるのは嫌だが仕事は増やしたくないという場合は、そういったことを「問題視しない」というバイアスがかかっておかしくない。我が社という部分社会における適者生存が起こった結果、そうなっているのかもしれない。
さて、病理発生の原因たる「理不尽」の一つが、冒頭に述べた「できるヒトに仕事が集中する」という事態である。
「できるから」というだけで安易に「できないヒトの分の仕事」も負わされる。仕方ないからと、できるヒトはしゃかりきに仕事をやってしまう、あるいはやらされてしまう。無論、やった分だけの正規の労働報酬は出ない。本人が空気を読むのと、単に部門に金がないのと両方で。
結果、いつしかできるヒトは、その限界を超え、心身に不調を来す。そうして、優秀なヒトも磨り減っていってしまう。ひどくなると、できる人は大抵マジメなのであり、真面目な分だけ自己の状況に耐えきれず、自責の念に駆られて自主退職してしまったり、自死を選んでしまったりする。
それでも上は「人事管理者たる自分の評価が下がる」ことを近視眼的に恐れるばかりで、こういった悪い傾向を改善しようとしない。ひたすらに、そういった最悪解に「自分が当たらない」事を祈るだけだったりする。更には、万が一そういう事態に至っても、別に反省もせず改善もせずボヤくのみでありもする。そうして今度は、次に出来るヒトに仕事が回っていくだけである。
あるいは、そういった修羅場をくぐった「できるヒト」が、幸いにして「やりこなせてしまった」場合どうなるか。
今度は、何時しか怨嗟を抱えるようになる。「俺はあんなに酷い仕事を押し付けられ、でもこなしてきた。お前らだってできるだろう、いや、俺と同等には苦労して当たり前だ」とばかりに、自分が地位を得ると、今度は、自覚してかせずしてか、部下に理不尽を強いる上司に変貌してしまう。
そういう上司に当たった部下は壊れ・・・以下同文と、負のスパイラルが続くようになる。
そうやって、何時まで経っても、こういった傾向は、改善されずに残る。劣性遺伝が続いてしまうのである。
これが、手厚い労働福祉を「相殺」してしまう。
むしろ負の側面が大きくなる理由である。
考えるだけで気が滅入る。
しかも今の私には、鬱の所為で気が滅入るのか、事実だから気が滅入るのか、最早区別がつかない。
私自身は、仕事に関する問題意識は高いつもりだ。ただ、個人的なコネクションや飲み会的な非公式な場を通じて築き上げた、横の関係というものがない。
したがって、例えば知り合いの感情に訴えて助けを乞うような解決手段は、持ち合わせていない。そういうコネのあるヒトと比べると、与えられた課題への対応は遅くなりがちである。つまり私は「できない」タイプに属するといえる。
ただし、そのかわり私は、ほとんどの課題を独力で解決するノウハウだけは、蓄積している(自慢げに書くことではない。要するにそれが自分にとって一番楽だからそうしているだけである。昼行灯は伊達じゃない)。
その方法も、別にどうということはない。単純に、問題を冷静かつ客観的に分析し、最短の方法でゴールにたどり着くやり方を提案するだけだ。それもできるだけ「身も蓋もなく」である。
言ってみれば、ここに書いているような類のことだ。誰もが内心思ってはいるが、言葉にしない、できないでいるようなことを、私は意識的に「言語化」するようにしている。
しかも私は割合、職場でもオブラートにくるみつつ、こういった「身も蓋もない話」を口にしてしまう。なぜなら、そこから目を背けていては問題解決にならないからである。問題解決にならなければ、私の仕事は片付かないのだ。それは、私も困るし、たぶん私にあてがわれた業務に関わるヒトも困る。だから私は、分かっていても、私流で身も蓋もなく、日々残業をして、どうにかこうにかあてがわれた業務をやっている(やれているかどうかは、知らない)。
とはいえ、そういった頭でっかちの議論は、親方日の丸的な我が社では、好まれない。
結果、上司が私に抱く印象は、悪くなりがちである。特に「横の関係」こそを重視するような「体育会系のヒト」にとっては尚更覚えが悪いであろう。
仕事をやったか否かにかかわらず。
まあ、もっとも私が何か提案したところで、私に部下が居るわけではないから「じゃあお前がやれ」という話になってしまう。
果然、自分がやりやすく、効率が良く、かつ仕事の質も一定を保てる方法を、一層「自己実践」する羽目になる。
そうすると、実のところ、それなりに仕事はこなせてしまう。特に最近は鬱からの回復基調にあるので、尚更、やれてしまう度合いが高い。
そうした結果、私の立場はどうなるか。
まず、私は「できないヒト」なのに、仕事は集中するというパラドックスが起きる。
しかも一向に減らない。
それでいてなおかつ、上司の覚えは宜しくないので、評価は低いという状態になる。
理不尽極まる。
私の「努力すればするほど事態が悪化する」状況の、一例がこれだ。
別に高評価は要らない。
ただ、適正な業務量にして欲しい。
締切が重なっている仕事をぽんぽん投げて寄越すのは、いいかげんにしてほしい。
頼むから遠眼鏡を持っておくれ。実際、回ってないやん、うちらの仕事。
たぶんその半分以上は、きちんと組織内の仕事分担を考えずに、私に締切重複の仕事を複数あてがっているせいだよ。
年末年始どうすんのよ、いやマジで。
病院に行く暇もありゃしないよ。やってらんない。
ってか、ボヤいてる位なら退職すべきだよなあ。好きでやってる仕事じゃないし。
そう出来ないのは、結局「俺が悪い」のだ。鬱。
そんな2013年のクリスマス。
(次回記事は楽しいものにする予定です)
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