新小児科医のつぶやき「墓標」
医療現場の問題、として考えるよりも、ただただ、痛ましい。
希死願望というのは実は私の中にもまだあって、特に妻と喧嘩したりすると強く出てしまうのだが、後始末のことを考えると、やはり申し訳なくて思いとどまってしまう。
ただ、妻の存在と、妻とこれまで作り上げてきた時間、その結果として今ある家庭というものが、私をこの世に留め置いている絶対的な拠り所なのであって、もし、それらが存在意義を喪うのならば、果然、私自身の存在意義が消失する、ということに他ならない。
一方「そうではない!私と私が関与することで出来上がって『今』にも意味はあるんだ!」と絶叫するから、喧嘩にもなる。
「私」の存在する意味は、「私」にあり、「私にとってのあなた」にあり、「あなた」にある。
そこで、「あなた」において「私」の存在する意味が消失し、或いはネガティブなものに変質したとするならば、「私」の存在する意味は「私」においてしかなくなる。
ところが、「私」の存在意義などは、とうに「ない」ことが明らかである。そのことが暴かれる。
状況の過酷さ背景の深刻さや、その他諸々・・・比較にならない。本来なら、ここで自分語りなどすべきではない。
分かっているが、今の精神状態では、書かずにはいられない。
ただ、痛ましい。そして、恐ろしい。
医療現場の問題、として考えるよりも、ただただ、痛ましい。
希死願望というのは実は私の中にもまだあって、特に妻と喧嘩したりすると強く出てしまうのだが、後始末のことを考えると、やはり申し訳なくて思いとどまってしまう。
ただ、妻の存在と、妻とこれまで作り上げてきた時間、その結果として今ある家庭というものが、私をこの世に留め置いている絶対的な拠り所なのであって、もし、それらが存在意義を喪うのならば、果然、私自身の存在意義が消失する、ということに他ならない。
一方「そうではない!私と私が関与することで出来上がって『今』にも意味はあるんだ!」と絶叫するから、喧嘩にもなる。
「私」の存在する意味は、「私」にあり、「私にとってのあなた」にあり、「あなた」にある。
そこで、「あなた」において「私」の存在する意味が消失し、或いはネガティブなものに変質したとするならば、「私」の存在する意味は「私」においてしかなくなる。
ところが、「私」の存在意義などは、とうに「ない」ことが明らかである。そのことが暴かれる。
状況の過酷さ背景の深刻さや、その他諸々・・・比較にならない。本来なら、ここで自分語りなどすべきではない。
分かっているが、今の精神状態では、書かずにはいられない。
ただ、痛ましい。そして、恐ろしい。
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