表題のようなものがあるだろうと考えて研究を始めたが、ピダハンの発見によりどうやらそうではないと考えるようになった。宗教には言語ほどの普遍性はなく、従って強固な生物学的基礎もなさそうである。
さて、宗教は神秘体験や夢と不可分になっていることが多い。神秘体験のうち、特に体外離脱体験は、死後の世界という不可視の世界に関する観念を想起させやすい。この現象は世界中で報告されていることから、体外離脱体験には生物学的基礎がありそうである。これに生物学的基礎があるとすれば、臨死体験は生物進化の過程で人類に備わってきた、すなわち生存に有利だったということになろうと考える。しかし、死に際に体外離脱するというような体験、ましてやその際に幸福感に包まれるというような体験は、進化の上で選択されうるだろうか?体外離脱体験は、死への恐怖を和らげる効果をどうやら持ちそうではあるが、死に際するそうした効果を持つこと自体は、個体の生存に対して特段の優位性をもたらさないであろう。では、体外離脱体験は進化において中立的だったのか?すなわち現生人類において偶然に残ったものなのか?もしそうでないなら、体外離脱体験はむしろ死後の世界を肯定する証拠そのものではないのか?
こうした私的疑問は、ミーム論によっておおむね解決された。体外離脱体験は、現代では脳の血流不足などにより、脳が、自己の身体が空間上のどこにどのように位置しているかを計測する部分が働かなくなることで「宙に浮く」ような感覚が生じるものと説明される。特に、脳機能低下時には視覚が働かなくなる一方で、聴覚は最後まで働いていることが多く、聴覚と不完全な身体同定情報とが交わると、体外離脱したような感覚が生じるようである。つまり、体外離脱体験はいわばヒトの脳のバクのようなものである。
では、そうしたバクがかなり広範囲のヒトに残っているのはなぜか。そのバグはヒトの生存において何か有利な状況をもたらしたのか。それは半分はイエスであり、半分はノーだ。少なくともヒト個体において、体外離脱体験につながる脳のバクは、生存に対して中立的である。そもそも、それは「死にそう」な場面で起きる現象であり、従ってその後のサバイバビリティに影響を及ぼすものではなかろう。
他方、そうした体験をする個体を含むヒトの群れにおいて、そうした体験に特別な意味づけを行う場合はどうか(そうしたヒト集団は多くみられる)。ヒトは動物である以上死を忌避し、死を恐れる感情を有するが、死後の世界が存在するかもしれないという形で、体外離脱体験に意味づけがなされた場合は、ある場面、集団が危機に瀕し絶滅の瀬戸際にあるような場面において、特定個体の死に対する恐れを薄れさせ、死をいとわぬ形で闘争を繰り広げ、結果として当該ヒト集団の存続確率を高めるように働いたのではないか。
つまり、体外離脱体験に特定の「意味」=「死の恐怖の緩和・克服」を与えた「文化」が、ヒト集団の中で競争を勝ち抜いた結果、体外離脱体験という脳のバグは、ヒト集団の中で有利に働く結果を招いたのではないか。もっと言えば、体外離脱体験を一つの契機とした一連の観念体系=宗教が、ヒト集団の中でより適応的に(当該観念を持つヒト集団を生き残らせる方向に)働いたということではないか。これが、ほとんどのヒト集団に「宗教」がみられる根本原因ではないか、ということである。
おそらく、宗教を持つヒトは宗教を持たないヒトよりもサバイバビリティが強い。ヒトという生物においてはそうなのである。(宗教的な行動の痕跡はネアンデルタール人にもみられるものではあるが、もし今後ホモ・サピエンス・サピエンスが違う種になるときは、宗教が存在していないかもしれない。)
このことは、もし体外離脱体験が選択圧を受けて生き残ったとすれば、それはヒトの個体の生存に直接有利だったからではなく、そのような体験をするヒトを無意味なものとは考えず、むしろ積極的な意味を見出す「文化」において選択圧が働いた結果、体外離脱体験を引き起こす身体的要因をもたらす遺伝子が保存されてきたのであろうということを意味する。つまり、「体外離脱体験」という身体に依存する現象に意味を付与する文化がセットになって生き残ってきたのである。
なお、宗教現象にみられる、生命体としてのヒトの生存と一見相反する特徴が、むしろ普遍的ですらあるという矛盾は、このようなミーム論においてうまく説明ができる。例えば自爆テロである。自らの命を投げ出すという、生命体としては欠陥に等しい行為を推奨する役割を宗教が果たすことはよく見られる。古くは十字軍。これは、そうした闘争的な面を有する宗教という文化・行動様式が、ヒト集団の中で他の文化・行動様式と競争する上で有利であった結果、このようになっていると思われる。
もっとも、こうした自殺のような行動が暴走すれば、当然、当該文化を持つヒト集団は滅亡する。したがって、多くの宗教がそうであるように、自殺を動機づけるミームを持つ文化はダブルスタンダードを持っている。逆に言えば、ダブルスタンダードを許さない、論理的に厳格な行動を促す「文化」は、おそらくダブルスタンダードを許容する「文化」より、ヒト集団の生存において劣ったということであろう。
さて、宗教は神秘体験や夢と不可分になっていることが多い。神秘体験のうち、特に体外離脱体験は、死後の世界という不可視の世界に関する観念を想起させやすい。この現象は世界中で報告されていることから、体外離脱体験には生物学的基礎がありそうである。これに生物学的基礎があるとすれば、臨死体験は生物進化の過程で人類に備わってきた、すなわち生存に有利だったということになろうと考える。しかし、死に際に体外離脱するというような体験、ましてやその際に幸福感に包まれるというような体験は、進化の上で選択されうるだろうか?体外離脱体験は、死への恐怖を和らげる効果をどうやら持ちそうではあるが、死に際するそうした効果を持つこと自体は、個体の生存に対して特段の優位性をもたらさないであろう。では、体外離脱体験は進化において中立的だったのか?すなわち現生人類において偶然に残ったものなのか?もしそうでないなら、体外離脱体験はむしろ死後の世界を肯定する証拠そのものではないのか?
こうした私的疑問は、ミーム論によっておおむね解決された。体外離脱体験は、現代では脳の血流不足などにより、脳が、自己の身体が空間上のどこにどのように位置しているかを計測する部分が働かなくなることで「宙に浮く」ような感覚が生じるものと説明される。特に、脳機能低下時には視覚が働かなくなる一方で、聴覚は最後まで働いていることが多く、聴覚と不完全な身体同定情報とが交わると、体外離脱したような感覚が生じるようである。つまり、体外離脱体験はいわばヒトの脳のバクのようなものである。
では、そうしたバクがかなり広範囲のヒトに残っているのはなぜか。そのバグはヒトの生存において何か有利な状況をもたらしたのか。それは半分はイエスであり、半分はノーだ。少なくともヒト個体において、体外離脱体験につながる脳のバクは、生存に対して中立的である。そもそも、それは「死にそう」な場面で起きる現象であり、従ってその後のサバイバビリティに影響を及ぼすものではなかろう。
他方、そうした体験をする個体を含むヒトの群れにおいて、そうした体験に特別な意味づけを行う場合はどうか(そうしたヒト集団は多くみられる)。ヒトは動物である以上死を忌避し、死を恐れる感情を有するが、死後の世界が存在するかもしれないという形で、体外離脱体験に意味づけがなされた場合は、ある場面、集団が危機に瀕し絶滅の瀬戸際にあるような場面において、特定個体の死に対する恐れを薄れさせ、死をいとわぬ形で闘争を繰り広げ、結果として当該ヒト集団の存続確率を高めるように働いたのではないか。
つまり、体外離脱体験に特定の「意味」=「死の恐怖の緩和・克服」を与えた「文化」が、ヒト集団の中で競争を勝ち抜いた結果、体外離脱体験という脳のバグは、ヒト集団の中で有利に働く結果を招いたのではないか。もっと言えば、体外離脱体験を一つの契機とした一連の観念体系=宗教が、ヒト集団の中でより適応的に(当該観念を持つヒト集団を生き残らせる方向に)働いたということではないか。これが、ほとんどのヒト集団に「宗教」がみられる根本原因ではないか、ということである。
おそらく、宗教を持つヒトは宗教を持たないヒトよりもサバイバビリティが強い。ヒトという生物においてはそうなのである。(宗教的な行動の痕跡はネアンデルタール人にもみられるものではあるが、もし今後ホモ・サピエンス・サピエンスが違う種になるときは、宗教が存在していないかもしれない。)
このことは、もし体外離脱体験が選択圧を受けて生き残ったとすれば、それはヒトの個体の生存に直接有利だったからではなく、そのような体験をするヒトを無意味なものとは考えず、むしろ積極的な意味を見出す「文化」において選択圧が働いた結果、体外離脱体験を引き起こす身体的要因をもたらす遺伝子が保存されてきたのであろうということを意味する。つまり、「体外離脱体験」という身体に依存する現象に意味を付与する文化がセットになって生き残ってきたのである。
なお、宗教現象にみられる、生命体としてのヒトの生存と一見相反する特徴が、むしろ普遍的ですらあるという矛盾は、このようなミーム論においてうまく説明ができる。例えば自爆テロである。自らの命を投げ出すという、生命体としては欠陥に等しい行為を推奨する役割を宗教が果たすことはよく見られる。古くは十字軍。これは、そうした闘争的な面を有する宗教という文化・行動様式が、ヒト集団の中で他の文化・行動様式と競争する上で有利であった結果、このようになっていると思われる。
もっとも、こうした自殺のような行動が暴走すれば、当然、当該文化を持つヒト集団は滅亡する。したがって、多くの宗教がそうであるように、自殺を動機づけるミームを持つ文化はダブルスタンダードを持っている。逆に言えば、ダブルスタンダードを許さない、論理的に厳格な行動を促す「文化」は、おそらくダブルスタンダードを許容する「文化」より、ヒト集団の生存において劣ったということであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます