昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

決定論と確率論、認識と実在

2025-01-01 19:32:54 | Weblog
 今日では量子力学により、物質は究極的には確率的存在であると理解されるようになっている。すなわち、古典的決定論(初期値が決まれば以後の物質の運動はすべて物理法則に従うことから、自由の生じる余地はない)は後退している。他方、概略的ではあるが、日常生活レベル・マクロレベルでは多くの事物は決定論的に振舞っているように見える(例えば、確率的に不可能ではないにしても、リンゴをつかもうとする我が手がリンゴをすりぬけてしまい目的を達しないといったことは観察されない)。このことは、確率的に振舞う微粒子がおびただしい数介在することによって、全体としてほとんど決定論的に「見える」という形で説明されることが多いかと思う。
 ただし、決定論的に「見える」というのはヒトの認識であることに留意する必要がある。そもそも我々は、世界に存在するものすべてを認知する能力があるのだろうか?(プラトンのイデア論を想起せよ)
 少なくとも、現時点で我々が認識しているもの―それがクォークであれ超ひもであれ―が世界の存在すべてに該当するならば、答えはイエスであろう。しかし、これはおそらく答えのない問いである。

 個人的には、世界にはもっと混沌とした現象が起きている可能性を考えたい。すなわち因果関係が不明確、又は全くないような事象というものも、ミクロレベルの確率論的な振る舞いに限らず、マクロレベルでも現に起こっていると考えている。ただし、我々ヒトという生物は、そうした現象を知覚する可能性はあっても、ほとんど「認識」しないだろう。なぜなら、こうした偶然的な、換言すれば因果律に則しない現象を知覚したところで、そうした知覚と、その知覚に続いて起こる認識は、そうした知覚ないし認識に基づいて将来の行動を変更するという回路を生成した場合は、そうでない場合に比べ、将来の行動を変更するかどうかといった思惟判断に係る余分なエネルギーを使うことになり、その分、のちの生存に不利に働くと考えられるからである。反対に言えば、完全に偶然的な、因果律に基づかない現象については、たとえ知覚されることがあっても、それを認識のレベルに届かないようシャットアウトする仕組みがあった方が(こうした仕組みは蓋然的でよく、かつ、進化の過程で改良されていき、今に至ると考える)、よほど生存には有利であろう。こうして、世界には実は因果律から逸脱した現象がいくらでも存在するのだが、我々の認識にはほとんど上らないのだ、といった説明は有効と考えられる。

 きわめて雑駁な議論をすれば、幽霊を見るという体験は、幽霊の存在を物理的・因果律的に実証することはない。ただし、偶然、あるヒトに「現にそこに居ないヒトで、すでに死んでおり、以前は確かに存在したヒトの姿が見える」という事象が起きることは排除されない。そして、それが複数のヒトに同時に、あるいは異時的に起こることも排除されない。ただ、そうした「単なる意味のない偶然」の情報は、蓋然性が大局的に支配するこの世界で生きる生命にとってほとんど無意味であるため、存在するかどうかを検証するに値しないのである。かくして、ヒトにおいては、因果律に基づかない事象はほとんど認識されないのだ、と考える方が自然である。
 まとめると、この世のほぼすべての事象は「ヒトの認識の中では」概ね因果律に基づいており、ミクロ的には確率論がそれを支える。しかし、ヒトの認識という制約の外までを考慮に入れた場合、世界には因果律に基づかない事象もそれなりに起こっており、そのほとんどはミクロレベルであるが、マクロレベルの事象も存外多く、ただし、それらは生物進化の結果として認識されようがないのだと結論する。
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