昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

宗教学

2006-08-29 23:00:34 | Weblog
 さて、結果オーライとはいえ、かなりよこしまな動機で専攻を選んだわけですが、自分なりに、この学問を学ぶに足ると考える理由はありました。
 それは、「宗教は人間が生きるのに必須とは思えない」のに「宗教的活動が観察されない人間社会は存在しない」こと、また、「ヒトという種がもつ動機として、最も強力であると思える」ことです。
 こういった特徴から、ヒトという生物にとっての宗教(あるいは宗教行動)は、日本における「日陰者」のイメージとは裏腹に、しばしば、個人又は社会にとって、極めて決定的な影響を及ぼしているに違いない、これは学ぶ価値があるぞ、と思ったわけです。
 より具体的な問題意識としては、戦争です。
 当時も今もそうですが、中東における戦争に代表されるように、宗教戦争といった場面では、ヒトは死を厭わない行動に出ます。生物として観察すると、これは非常に特異な行動です。
他者の生命も、自分の生命も尊重しない、という行動を選択する際の動機として、なぜか宗教が関与することが多い。というよりも、少なくとも、生物として通常の価値観を否定する、より上位の価値観として宗教が登場する。その諸相を学ぶことで、ごく単純ですが、戦争の多くを回避する手立てが見つかるのではないか、という思いがありました。
 そして、上で述べた「ヒトにおける宗教が生物としての価値体系の上位に位置する」こと、それはなぜか、という問題意識がありました。このことは、自己言及のメタ構造を含んだ疑問で、パラドックスと大いに関連します。ヒトであり、何がしかの社会に属している限り、何らかの価値体系の枠組みの「中で」、その価値体系について問わざるをえません。数学的にいうと、こういった体系内で矛盾のない答えに到ることは困難です。おそらく宗教もそうであり、だから面白そうだ、と思っていました。
 これについては、逆に「そのように価値を与えられたモノが宗教だ」という言い方も可能です。しかし、私が関心を持ったのは「宗教現象が人類普遍に見られることから、このことには生物学的根拠があるのではないか」ということです。よって、大脳生理学の研究成果等から、宗教現象を考えられないか、その中で、「ヒトが宗教に至高の価値を与えるしくみ」や、その「生物学的意味」(すなわち、生存に有利な形質のひとつとして進化・定着したはずであるという仮定を証明するもの)を見出せないか、というのが、内心、私が抱えていた研究テーマになりました。
 とはいえ、宗教学は極めて文系的な学問です。その端緒は、キリスト教世界における、周辺世界の文献学でしたし、いまでもこの伝統は根強いものです。古代の神話といったテキストの解読、あるいは先人の残した文化・習俗に関する文献、はたまた、宗教家の言説や行動の記録(お経や新約聖書がそう)、あるいは自ら著したもの、それらが、この学問で研究されたものでした。
 その後、文化人類学の登場により、フィールドワークの手法が加わることになります。いまでも、文献学とフィールドワークが、この学問では二大手法となっています。
 また、対象への接近方法としては、特定の宗教の価値体系の中で、ある宗教家なりの言説を理解する、「神学」的研究方法と、その価値体系に属さない立場から、しかし決して攻撃的でなく「客観的に」研究する立場とがあります。そして、後者はしばしば、複数の宗教現象を比較しながら進める「比較宗教学」の立場を取ります。
 しかし、いずれにせよ、研究方法は文系的なものです。当時は、先行研究の中に、私の関心に沿ったものはなかなか見出せませんでした。(「宗教心理学」というジャンルがありますが、一世紀近く前の古典的研究に属するものが多く、その後、あまり発展していませんでした)
 このため、内心の研究テーマについては、2年間の勉強では十分に考察できませんでした。そして、それ故、卒業後も、宗教学については、折に触れ自分なりに学習していこうと思っていました。(仕事が多忙で諦めましたが。)
 しかし、卒業後10年経って、かつて学んだことを振り返ってみると、学生時代に学んだ「文系的」研究者の著書や論文、そこで用いられる術語においても、実は、当時、自分に理解できなかっただけで、テーマに繋がる糸口がいくらでも転がっていたのだ、ということに気づかされました。
 特に、宗教を感情の面から規定したR.Ottoの業績は、再考する価値があると考えています。
 これについては、現時点で詳細に述べるほど考えがまとまっているわけではありませんが、宗教感情は「曰く言いがたい、戦慄と誘引力とを併せ持つ感情」として語られます。この「曰く言いがたい」ということが、至高の価値感情に関する特徴とされていますが、これは、大脳生理学的には、言語や視覚といった明晰な大脳活動に比して、より明晰度の低い、嗅覚、聴覚や音楽といった活動に類似すると指摘されてます(養老孟司など)。「言分け」以前の「低次な」活動が、それゆえ「至高」と認識される不思議、ここにヒントがあるような気がしています。
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