人は色々な物事に理由をつけたがる。
よくこのブログにも書くけれど。
辛いことや頭にきたこと良かったこと悲しいこと・・・
自分自身で理由をつけて納得させようとしたり
余計なお世話なことに
他人の物事に対しても理由をつけてあげたりする。
尋ねてもいないのに、誰かが理由をつけてくれるようなら
その親切な人はどこから理由をつけてくれているのか考えてみる。
それは自分を落ち着かせてくれるのかもしれないけれど
本当の事実でないこともきれいごとの道筋をつけることもある。
本当にそうなのだろうか?
その理由はもしかしたら
自分を正当化するためのもので他を批判していたり
自分を他よりも上に置こうとするものかもしれない。
なんて傲慢なんだろう!
スピリチュアルなことに関心がある人だって
たいていの人はそんな傲慢さを持っている。
理由をつけるときに傲慢さは入り込んでいない?
そもそも、理由なんてつける必要もなくて
その今ある事実だけを認めるだけ・・・
どうして自分だけ・・・
そんなことも考えない。
その他、自分という境界線を持たないことが必要なのかも。
ここには他があるから、そう感じるのかもしれないけれど
あくまで自分に起こることは自分のこと。
過去のこと、今のこと、未来のこと
何か理由をつけることがあったら、
その理由はどこから来ているのかよくみてみる。
「気づく」
その時の自分が思ったことでもそれ自体が何層にも何層にもなっていて
単に薄いベールを一枚はがしたに過ぎないのだと思う。
本当に傲慢な生きもので無知そのものでもあるのかもしれない。
だからこそ、大きな可能性もある。
落ちることもできるし、飛躍することもできる。
傲慢だから自分に期待をしてしまう・・・
その期待が自分を苦しめるのだけれど
また、そこから見つけられるものも大きく
更にはまた落ちることも選択できる機会も与えられる。
常にどちらへ行くことも提示されているのかもしれない。
それくらい可能性も儚いもので幻の中で生きることもある。
期待をせずに手放すことの難しさ・・・
人生を委ねることがどんなに難しいことか・・・
でも、何度も突き付けられる。
「いい加減期待するのをやめなさい」
「いい加減委ねたらどうか」
期待を持たず人生を委ねることを責任をもって選択する。
いつも、いつも分かったつもりになっては
分かっていないことにまた気づいてまた分かる。
もっと簡単な方法もあるのに不器用な人たちもいる。
自然とわかる人。
頑張っているのに遠回りになってしまう人。
まあ、どっちだってその人にとって必要な道を辿るんじゃないかな。
ブログも外に向かって訴えるものあれば
自分のためのようなものもある。
私のはといえば、単なる記録のようなもの?
それでも随分続いているかも・・・
変化している部分。
繰り返しの感情。
そんな風にきれいごとでもなく
パッと閃いたことだけを単に書き綴るだけ。
そんな、ほぼ閃きだけで書いているから
何を書いているのかあまり覚えていなかったしますが
まア、それもありかな・・・と思っています。
ただ読み直しとかもしないので
書き間違えたりしていても気づかなかったりしますが・・・
それはチョッと恥ずかしいですね。
さて、今年はどんなことを書けるのかな!?
今日あたりからお正月気分も少し落ち着きが
出ているのではないでしょうか?
昨夜あたりから少し風邪気味で調子が悪くて
朝もすっきりしなかったのですが
だんだん復活してきました。
少し頭もクリアに・・・
一昨日の夜中、寝付けづにずに意識がうっすらしていたとき
なんとなくとても痩せたおばあさんを見たような・・・
ギョロッとした目を見開いて私の近くでジッと見ている。
誰だかわからないので見なかったことに・・・
昨夜も、チョクチョク起きていました。
今年、一つやろうと思うこと・・・
もっと自分から距離をおくこと。
分かっているのに飲み込まれている。
自分が日々を、人生をコントロールしようとする。
そんな時は「自分の存在を感謝する」
ということに全く意識がない。
コントロールしようとして上手くいかないために
また自信をなくしたりして不信感ばかりが募る。
よく「存在意義」なんてことを聞くけれど
そんなことを考えるから自分自身を無意味に感じるんだ。
そんなものは初めからなくて
個の集合体が必要で、そのために個というものも
必要になるだけに過ぎないのではないかと思ったりする。
だから、個というものに執着すれば上手くいかない。
もしかしたら、そうではなくて全体の中の個と考えたほうが
上手く見えてくるものがあるような気がしてきた。
エゴやわがまま、孤立というのは個と考えるからかも・・・
エゴもわがままも一向に構わないことだけれど
それは自分の芯も強く揺るぎのないものがあるほどの
独立心と強さが必要だとしたら大変な作業。
私はわがまま。
でも、それだけの強さはないのだろう・・・
だから、もっと自分の在り方を客観的に見る必要がある。
どう振る舞うのかというバランスと
もっと大きな全体として見て必要なことを・・・
そこで必要なものを行っていくこと、
準備していくことが大事なのかもしれない。
一進一退。
難しいものですね。
何だか昨夜は夜中に起きてからなかなか寝付けづにいました。
満月のせい?
最近、何度かもっと自分の感情を上手くコントロールしなくては・・・
という思いがあるのですが、そう思えば思うほど上手くいかず
何だかワガママなんじゃないかと深く思うところがあります。
確かにネガティブな思い込みも激しいのかもしれないけれど
些細な言葉をとても気にして落ち込みます。
もともと、そんな部分はありますが
いい加減いい年をした大人なのだから
些細なことくらい笑ってスルーして
気にならないくらいになりたいもの。
何気ない言葉をきにして
自分や周りに気を使わせるのはダメ!
自分自身でいたいと思うほど孤立していくのは
自分がワガママだからかもしれない。
自分自身でありながら、人と関われる自分でいるべきだ。
もっともっと、人を好きになろうと思うと
逆に自分がダメに思えたりする。
よくそのままの自分で・・・なんて言葉があるけれど
そんなのワガママでいるための言い訳。
直したほうがいい性質というのは
幾つであろうと誰であろうと持っていたりするもの。
自分が気づくか?
自分で気に入らない部分か?
自分が変えたいと思うのか?
そんなことから変化を作っていく。
根深い部分に向きあう必要があるときに遭遇するかもしれない。
それはとても嫌なこと。
でも、超えられたらいいもの。
別にいい人になる必要もない。
嫌な人でいつづける必要もない。
人に合わせる必要もない。
でも、自分が嫌だなここ・・・と思う部分があるのなら
何か自分自身の取り組みをしてもいいかも。
直ぐには上手くいかなくてもね。
流れの中で起こるできごとは静かに受け止めるだけしかできない。
起こるときにおこるだけ
でも、みんな躍起になって事を起こそうとしたり
自分にならできるはずなのに、と
流れだけを受け止めることはせずに
自分で何とかしてきているような気になることからくる
苦しみを味わう。
でも、苦しむために物事が望むようにならないのか?
本質を引き出すためにあるのではないか・・・
本質の中から学ぶ必要のある事
本質に従って気づく必要のある事
変えていく必要のある事
だから、その学ぶチャンスを周りが奪ってはいけないし
自分も逃げずに受け止めて見つめなくてはいけないのだろう。
楽なことではないし、進んで飛び込みたいことではない。
避けて通せることでもない
避ければ避けるほど、気づいてとばかりに
大きな問題となるし
避けてあげようと周りが守れば守るほど
そのツケも大きく周りにも本人にもやってくる。
自分自身の責任はいつだって自分の問題なんだ。
これからの時代は、より責任を意識する必要があると思う。
個人の責任、家族の責任、社会の責任、もっと大きな責任。
自覚を持つことがより迫られる。
今までどのようにしてきていたのか?
そんなことを突き付けられていくのかもしれませんね。
とても気持ちの良い天気のお正月でした!
今年はどんな一年になるのかな・・・
まだ今年の目標は決めていませんが
数日はまだワサワサしているので落ち着いたら考えます。
今年はもう少し済んだことは済んだことと割り切った
思考になるよう意識していこうとは思っています。
考えても仕方がないのに、そんなことを考えて落ち込んだり
いじけたりするのはくだらないこと・・・
変えられないことを考えるのは
ただ落ち込むだけで建設的なことは何一つない。
どうしようもないこと、
もう手に入らないもの、失ったもの済んでしまったこと。
それなりに自分で考えた選択だったのだし
今のある状態が全て。
ここからがスタートで
今の状態から自分の最善を作り出せるはず。
どんな一年にできるかな。