さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

弥生時代 「漢字流入を阻止せよ」 小平次の妄想的歴史探訪  日本の歴史は国防の歴史編

2016-05-19 | 歴史




こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日は

妄想的歴史探訪

「漢字流入を阻止せよ!」

と大仰なタイトルでお送りいたします



さて

「漢字」

ですが、ご存知の通り我が国の常用国語文字であります

そしてこの「漢字」、これまたご承知の通り古く支那地域にて発明され、周辺地域、民族に広まり、我が国にも伝播したものですね

中学生の歴史教科書などを見てみますと、漢字が日本に「伝えられた」のは5世紀頃だそうです

「伝えられた」

というその言い回しからしますと「伝えられる」それ以前は、日本人は漢字、文字を知らなかった、と受け止められるわけです

さて、そうなりますと小平次には非常に素朴な疑問が湧いてくるのです

そしてその疑問はやがて妄想となっていくわけです


その疑問とは?

前回の記事「渡来人とはナニモノだ」で述べたことですが、いわゆる「弥生時代」と言われるB・C4世紀頃から、急速に大陸と我が国との人的な往来が盛んになっていったような痕跡があるわけです

その中で日本には大陸から多くの文化や技術が伝えられ、その積極的な文化や技術の受け入れは、ずーっと後の遣唐使の廃止のころまで続いていたわけですね


だとすると

おかしいじゃないですか…

しっくりきません


多くの文化や技術が伝えられ、積極的に受け入れ、大陸からの帰化人もそれなりにいたであろうに

なぜ、「漢字」という便利なはずの「道具」は、積極的な往来が始まって以来およそ千年もの間「伝えられなかった」のでしょうか

大変不自然に思えます


「漢字という文字の有用性を理解できるほどの文化文明が発達していなかったのでは?」


とはいかにも戦後の主流である一方に偏った歴史学者が唱えそうな言葉ですが、そんなことはあるはずもないだろうと思うのです

すでに縄文期からヒスイの加工など高度な技術を持ち、大陸との往来もあったわけですし、1世紀中葉には支那王朝から、あの有名な

「漢委奴国王」





との金印を受けるような、戦略的な外交も行っていたわけです


この意味は重要だと思うのです

「朝貢し金印を受ける」

つまり中華の秩序における冊封体制に入るというのは、いずれまた述べさせて頂きますが、言わば安全保障上の要請に基づいていたと考えられるわけです

海を越え交易をし、金印を受け倭王としての冊封を受けるというような外交上の成功をやってのけていた人たちが、漢字と言う「文字」の有用性も理解できなかったなどということはありえないでしょう

それどころか、漢字を使用しなければ、大陸との交易はもちろん、支那王朝相手に戦略的な外交をするなんて無理な話だと思うのです

そうなりますと、この時代の先人たちは、漢字を「5世紀頃に伝えられる」まで知らなかったわけではなく、知っていたけれども常用の国語文字として使用はしていなかった

ということになるのではないでしょうか

それはなぜなのでしょうか


安全保障上の要請から東アジアの冊封体制下に入り、大陸の文化や技術を受け入れてきた先人たち

当時の世界共通文字とも言える漢字を常用文字として使えば、外交上、交易上だけでなく、国内の交易、行政上等においても大変便利であったはずです

そもそも日本人は、その歴史を通して大変好奇心の強い民族です

優れているものは、必要であれば素直に受け入れ、自分たちに合うように変化させたり、独自に発展させその分野において世界のトップクラスになってしまう、そんな民族です


日本刀などは世界一強靭な刀でしょうし、仏教なども伝来以降さまざまな宗派に分岐し、日本人に合うように教義を変化させています

鉄砲も偶然伝わったかと思えば、たちまち国産として量産してしまいます

明治以降も、鉄道、飛行機、電気機器、アニメ、説明するまでもありません



そんな日本人が、様々な大陸文化や技術と接し、受け入れていく中、なぜ「漢字」、つまり「文字」は外交上、交易上では使用しながらも、自国の文字として受け入れることをしなかったのでしょう

前回の記事で「無償で文化や技術を伝えに来た渡来人などはいなかった」が、有償、もしくは様々な事情により大陸から日本に移り住んだ人たちはいたであろうと申し上げました

そんな人たちは日本に移り住んだ後、同じ地域の同族や民族などで、集団を形成したりはしなかったのでしょうか

集団を形成したのであれば、それまで自分たちが使っていた便利な「道具」である「漢字」つまりは「文字」を常用として使用したりはしなかったのでしょうか

使用していたのであれば、そこから周辺に広まったりはしなかったのでしょうか

民間レベルでなくとも、地域や「クニ」レベルで常用としてはいなかったのでしょうか


それらの痕跡はほぼ見つかってはいません


今年の3月、弥生時代後期のものと思われる硯の欠片が見つかったというニュースがありまして、見つかった場所が福岡ということで、大陸への玄関口として、外交文書を作成していたのでは?

http://www.asahi.com/articles/ASJ2Y5R8KJ2YTLZU001.html

などとちょっと騒がれたわけです

このような発見は、先ほど来申し上げている通り、外交や交易の場においては漢字は使用されていたことを裏付けるものだと思います

であれば、やはりなおのこと、民間レベルはともかく、他の文化や技術を受け入れ発達させたのと同様に、有益な「道具」として国内での行政や交易に漢字を使用していたとしてもなんら不思議はないのです

「魏志倭人伝」には、民が税を納めていたことや、犯罪に対する刑の軽重などなど、がすでに定められていたことが記されていますし、そういった決まり事を徹底させるにも文字は有用な「道具」であったはずです

それでもヒミコの時代以降、有名な倭の五王「武」の上表文など、外交文書の記録はあっても、国内で常用していたような確たる痕跡はありません(日本の土が酸性土であるために、そういった記録は残りにくいということの考慮はまた別な視点として必要だと思いますが)



しかしながら

「文字の使用の必要性がない文化文明の発達程度であった」

などという理由はもはや通用しないでしょう


これまでのことを整理してみます

弥生時代期の日本では、おそらく外交、交易の必要上間違いなく漢字を使用していた、そして日本に移り住む前、漢字を常用していた多くの帰化人がいたであろうし、その人たちは集団を形成したでしょう

しかしながらそこから常用文字として広まってもいないし常用されてもいない

しかも千年以上もの長き時間を経ながらも…


これはですね

もう「受け入れなかった」というような話ではなく

「強く拒否」

していた

いやそれでも足りません 外交文書、及び一部交易商人以外での漢字の常用、流布を

「禁じていた」

下手をすれば

「取り締まっていた」

くらいの話のように思えます

まさに

「漢字流入を阻止せよ」

ってな感じです



簡単に考えても、大陸からの「渡来人」「帰化人」が大勢いたと言われているのに、その人たちですら漢字を常用していた痕跡がないのです

しかも千年以上もの間…

これはあたかも、後年、白人キリスト教国家がその価値観を世界中に押し付け、従わない民族や国々があれば、虐殺し奪い取っていたような時代に、その大義であったキリスト教の布教や信仰を徹底的に取り締まっていた江戸幕府のようにも見えます

なにゆえそこまで頑なに…

その理由は何でしょうか

それついては「文字」そのものの役割について考えなくてはなりません

「文字の役割」 

最も単純に考えれば、それは「意思の伝達手段の一つ」でありましょう

「意思の伝達…」

しかしそれは、極端な話、不便さを考えなければ「口頭」で事が足りるのです


今、私たちの生活からEmailが無くなったら大変な混乱が起きるでしょうが、元々文字を使っていない人たちであれば、まあ不便さなんて感じてはいなかったかもしれません

口頭ばかりでなく、文字に代わる何か合図でも代替が利くかもしれません

家の前に石が三つ置いてあったら畑に出て留守にしているよ~、というしるしだとか…

いずれにせよ「意思の伝達」ということに限れば、文字は無くとも何とかなるわけです


「意思の伝達以外」の文字の重要な役割…

それは、人に約束を守らせるための

「証拠能力」

であろうと思うわけです

最もわかりやすい例として「契約書」なんかがありますね

契約者同士が、約束事を文字に起こし書面にして、割り印なんかを押して同じものを一部ずつ双方で持ち合うことで、何かあっても

「契約書に書いてあるではないか!」

もし約束を違えれば「損害賠償」などについても決め事をしておき、互いに約束を守るよう「義務」を課し、それを証拠として残しているわけです


これはですね

小平次が思うところ、つきつめて考えてみますと

「約束とは破られるもの」

という考え、価値観が前提になっていると思うのです

大袈裟に言えば、「文字」とは

「約束とは破られるものである」

ということを前提とした

「相互不信社会の象徴である」

と思うのです

翻って「文字」を必要としない社会はその真逆

「約束とは守られるもの」

という考え、価値観が前提になっている

「高度に信頼し合う社会」

である、と思うわけです

しかし、いくら「約束とは守られるもの」という前提に立った社会であっても、時に勘違いや早とちり、約束を破る気はなくてもやむなく約束を反古にしてしまった、なんてこともあったでしょう

そのような時には争いも起きたかもしれません

しかしそれでも最終的には互いに譲歩し、許容し、受け入れ合う、そういう価値観でなくては「約束とは守られるもの」を前提とした「高度に信頼し合う社会」は成り立たないでしょう

このように考えて来ますと、なにか少しわかったような気がします

私たちの先人たちが「漢字の流入を阻止」してきた理由

「約束とは破られるもの」を前提とした「相互不信社会」の価値観を、「約束とは守られるもの」を前提とした「高度に信頼し合う社会」としてその流入を阻止していた、禁じていた、取り締まってもいた

そんな風に見えるのです


その昔、不安遺伝子を抱えた臆病で恥ずかしがりの人たちがこの列島付近に移り住み、やがて縄文の奇跡をも呼べる長き平和な時を過ごしていた

そこへ、支那付近の戦乱と大規模な統一と時を同じくするように、大陸から人とともに「弱肉強食」の価値観が持ち込まれ、我が先人たちはそれと戦い、相互不信社会の象徴であるところの「漢字」の流入を阻止した

魏志倭人伝には、弥生時代後期の日本の様子とともに、日本人の特徴が書かれています

「風俗はみだらではない」

「盗みをせず争い事は少ない」

脈々と、そのような感性と価値観が受け継がれ、歴史が連続していることを感じることができるのです


「漢字流入を阻止せよ」


まさにこれも「国防」そのものです



御免!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする