こんにちは、小野派一刀流免許皆伝小平次です
小平次は、今の生業に就く直前、タクシードライバーを4年半ほどやっていたんです
その時のことを、インド放浪記風、日記調、私小説っぽい感じで記事にしていきます
本日は「おとうさんったらね!」です
乗車地 目黒区碑文谷付近
降車地 川崎労災病院
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タクシーは、やみくもにただ走ってもそう客を乗せられるものではない、時折タイミングを見て、駅や、病院、ホテルなどの乗り場などに並んでみたり、客の出てきそうな交差点付近で待ってみたり、そういうことも大事なのである。だが、場合によっては自分の順番までやたら時間のかかることもあり、少しギャンブル的なこともあるので、うまくタイミングをみないといけない。
ある日の事、目黒駅の乗り場が比較的空いていたので、ちょっと並んでみた。目黒駅の乗り場の順番待ちは少し変わっている。普通の駅などの乗り場のように、列を作って並ぶのではない。駅前のロータリーに碁盤のマス目のような停車場があるのだ。
マス目?
マス目にどうやって並ぶのか、最後に入った車がハザードを焚き、自分が最後尾であることを示す、その次の車は、ハザードを焚いている車の次が自分の順番であること覚えておき、今度は自分がハザードを焚く、そうして順繰りに、道路を挟んだ駅前の乗り場に客が来たらマス目から出て行くのである。
『碑文谷まで』
『かしこまりました、ではこのまま目黒通りを下ります』
昼間の時間、しかも目黒駅の乗り場からそう高額案件は出ない、待った時間と釣り合いが取れればまあ良しである。おれは客に告げた通り、目黒通りに入り、そのまま南下していく、碑文谷付近、目黒通り沿いの某大手スーパーの前で客は降りた。
さて、この夕刻前のこの時間帯、何処を目指して走るか、基本的には得意エリアに戻りながら客を拾えるのが一番だ、このまま環七へ出て、左折、中原街道を北上しよう、そんなことを考えながら走り始めると、直ぐに道路脇の女二人が手を上げた。
一人は、初老の、ちょっと上品そうなオバサマ、もう一人は、その付き添いのような若い女、車を停め、ドアを開ける。
『お待ちどおさまでした』
若い方の女がオバサマを促すように車内に乗せ、自分は乗らずに行先を告げる。
『この方を川崎の労災病院までお願いします』
川崎!
越境案件だ、だが川崎はここからだとそう遠くはない、それでも5,000円は出るだろう。
『かしこまりました』
若い女に告げ、ドアを閉め、営業区域外のため、ナビを入れる、やはりそれほど遠くはない、まずは中原街道に入り、多摩川を超えたらそのまま綱島街道、この時間にしたらスマッシュヒットだ、おれはメーターを入れ走り出す。
オバサマはやけに明るく、そして饒舌だった。
『川崎の病院にね、ウチのおとうさ…、あ、主人が入院してるんですよ、おとうさ…、いや、主人ったらね、入院してるんだから大人しくしていればいいのに、あれ持って来い、これ持って来い、って、ほんとうるさくて』
「ほんと、うるさくて」
と言いながら、オバサマはどこか嬉しそうだ、入院していながらも、旦那が元気なことが嬉しいのかもしれない。
『ウチのおとうさ…、あ、主人が…』
何度か「おとうさん」と言いそうなところ、「主人」と言いなおしていたが、話をする内、
『ウチのおとうさんったらね!』
訂正することもなくなった。
『ウチのおとうさんったらね! 家族でレストランに行ったときにね、ステーキ頼んで…』
『ステーキだと店員さんがほらっ…』
『焼き方はいかがしますか?って聞かれるでしょ? そしたらおとうさん…』
『一生懸命焼いて下さいって言ったのよ! もう娘も私も恥ずかしくて』
そう言いながらオバサマは笑っている、本当に「おとうさん」が大好きなのだろう、おれの心まで何だか和らいで行くようだ。
その後も「おとうさん」の話が続く中多摩川を渡る、もう目的地までほど近い、そして川崎労災病院まであと2キロ、というあたりまで来ると、それまでずっと話し続けていたオバサマが急に押し黙った。さすがに話し疲れたのだろう、おれは気にせずナビに従い綱島街道を下る、あと1キロ、オバサマが再び口を開く。
『あの、運転手さん…?
あれっ…?、ウチのおとうさん……、?
あれっ…?、ウチのおとうさん……、あの、運転手さん…、ウチのおとうさんって……、
亡くなったんでしたっけ?』
『えっ!?』
おれは思わず後部座席の方へ少し振り返る。
『ねえ、運転手さん…、ウチのおとうさん…、亡くなったんでしたっけ?』
『いや、あの…』
車内が静まり返る、やがて労災病院の車寄せに到着、料金は予想通り5,000円を少し超えている、オバサマはどこかうつろな様子で財布を取り出し、料金を支払うと先ほどまでとは打って変わって、静かに車を降り、病院の中へ入って行った。
営業区域外であるため、おれは表示を『回送』にして、綱島街道に出て、都内に向けて北上する。
それにしても、あんなに明るく「おとうさん」の話をしていたのに…、認知症? 何にせよおれは何だか胸が締め付けられるようであった。
『切ないな…』
おれは、今、離れて暮らさなければならなくなっている妻と娘のことを思い出す、やはり切ないな…。
夕陽を後ろに多摩川を渡る、表示を『空車』に戻す。とにかく、銀座へ戻ろう。できれば客を乗せながら。
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この話は実話ですが、実は出の車内での話の内容はあまり覚えていないので、少し創作しています。ただ、ずっと『おとうさんったらね』と仰っていたことは良く覚えています