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前回から始めました20ン年前のインド放浪、当時つけていた日記をもとに書き綴ります
インド放浪 本能の空腹 ② 『市街へ!Ⅰ』
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カルカッタダムダム空港の空港ビル内に入ったおれは、さほど混んではいない入国審査の列に並んだ。
天井を見上げると、大きいばかりでまるでのろまな扇風機が、そよ風とすら呼べない弱々しい風を審査を待つ人へ向けて送っていた。
床には、間もなく命尽き果てるだろうと思われる大きなゴキブリがヨタヨタと這いつくばっていた。
風呂桶を高くしたような木製の枠の中にいる白い制服を着た入国審査官は、おれのパスポートをなげやりに見ながらすぐに入国のスタンプを押し、下を向いたままアゴをぷいっ、と横に振った。日本人からすると小バカにされたようにも思えるこの仕草は、インドでは『OKだ』という意味であることを知るのはもう少し後のことだ。
おざなりな入国審査を終えたおれは、空港ロビーへ向かう通路へと出た…
『☆※◆✖▼△¥%★ーーーーー!』
『なんだ!なんだ!』
おれが通路に出た途端、腰ほどの高さでカギ状に仕切られた木製の柵の向こうから、身を乗り出すようにして大勢の男たちがおれに向かって一斉に叫び出したのだ!
『☆※◆✖▼△¥%★ーーーーー!』
『☆※◆✖▼△¥%★ーーーーー!』
男たちの目には、何だか怒りが込められているようにも見えた。
『なんだ!なんだ!おれが何かしたのか!』
おれは大いに怯んでしまった。
『☆※◆✖▼△ TAXI ¥%★ーーーーー!』
ん?
『Taxi、タクシー?』
確かにそう聞こえた。そうか、こいつらはみんなタクシードライバーなのだ。今着いたばかりの日本人観光客であるおれを見つけ、『オレのタクシーに乗れ!』と、そう叫んでいるのだ。下から何かを掬い上げるように、勢いのついた手招きをしているやつもいる。
おれは少し落ち着きを取り戻した。まだ両替も済んでいないのにタクシーなんか乗れるわけがないだろう…、まず両替が先だ。
『☆※◆✖▼△ TAXI ¥%★ーーーーー!』
おれは男たちの怒鳴り声のような大声を後ろに聞きながら空港ロビーへと向かった。
両替カウンターはすぐに見つかった。カウンターの上にテレビモニターのようなものが取り付けられていた。そこには
『Welcome to Calcutta』
とだけ書かれた文字が、モノクロ画面の中で今にも消え入りそうに小刻みに震えながら浮かんでいた。歓迎されているようには思えない…
さて、いくら両替するか。大金を持ち歩くわけには当然いかない。一週間程度過ごせる金、インドのホテルはピンからキリまであるが、トイレやシャワーが共同、簡易ベッドだけの大部屋のようなところなら日本円で一泊25円くらいからある。だがこの時おれはもう泊まるホテルは決めていた。一泊70ルピー、日本円で350円程度だ。飯に関しては、地球の歩き方を見る限り、一食50円も出せば普通に食えるようだ。3食150円+宿代350円、500円で一日が過ごせる。一週間なら3500円、少し多めに5000円、1ルピー約5円だから1000ルピー、何かあった時のために倍の2000ルピーも持っていれば十分だろう。街にはたくさんの物乞いの人たちがいるのは間違いのないことだから、おれは念のため少し小銭を多めに、米ドルのトラベラーズチェックをインドルピーに替えた。
さて、市街まではタクシーを使わなければ仕方ない。バスもあるのだろうが、不慣れな地で、どこ行きのバスに乗り、どこで降り、そこから地図を見ながら目的のホテルまで行くというのは、この時のおれには少し難しいことだった。しかし、タクシーで行くといっても、インドでは正規料金でタクシーに乗れたらラッキーだと本には書いてある。おれを獲物でも見るような目で睨みながら大声を出しているあの大勢の男たちの中から、ボッタクリなんかしなさそうなやつを選ぶ、というのもハードルの高いことのように思えた。
ふと両替カウンターの横に目をやると、『Taxi Booking』と書かれた紙を貼った机に、一人の男が座っているのが見えた。
おお! ここでタクシーを予約できるのか! 公的な場所でタクシーを予約できるのであればボッタクられる心配もないだろう、ありがたいことだ。
さてここで、日記を3日ばかり過去に戻す。おれがこのカルカッタへ来る前に、トランジットで立ち寄ったダッカでのできごとを話しておかなければならない。
おれが週に1便だけ成田から飛んでいたBiman・Bangladesh航空の飛行機に乗り、ダッカに到着したのは現地時刻で午後の10時頃であった。その便に乗っていた日本人は、途中経由したシンガポールやバンコクでほとんど降りており、ダッカまで来たのは10人にも満たなかった。そこからヒマラヤ観光のためにカトマンドゥへ向かう人と、カルカッタへ向かう人がさらに別れた。
トランジットの手続きにはひどく時間がかかった。日本人全員のパスポートを預かったまま、カウンターの男は、乗客名簿か何かなのだろうか、分厚い紙の資料をゆっくりめくりながら作業をしていた。
野良猫も走り回るトランジットカウンターの前で、おれたちは結局4時間も待たされ、ようやくホテルへ向かう送迎バス、扉も閉まらない、今にも分解しそうなオンボロバス、に乗ったのは午前2時を回っていた。
バスの出発前、おれが座った座席の窓を、誰かが外からコンコン、と叩いた。
窓に目を向け、おれは大いに驚いた。
そこに立ち、おれを見上げていたのは、年端もいかぬうつろな目をした少年だったのだ。
こんな夜中になぜ少年が!おれは反射的に、思わず窓を開けた。
『Money…、』
うつろな目のまま、少年は手を差し出した。
この先、インドを旅していれば、こうして『Money…、』と手を差し出されることは何度もあるだろう、と覚悟はしていたが、この時は完全に不意をつかれてしまった。心の準備が全くできていなかったのだ。この夜中に、こんな少年が、想像すらしいていなかったのだ。どうしていいのかわからなかったおれは、心を相当にざわつかせながらも、無視を決め込むしかなかったのだった。
同じ便でやって来た日本人で、カルカッタ組の中に、K君というおれより2つ下の青年がいた。K君はさわやかな顔立ちで、明るくとても元気な青年だった。
『おれ、海外旅行初めてなんですよ! でも中学しか出てないから英語なんてさっぱりわからないっす!でぃすいずあぺん、くらいしかほんと、わからないっす!』
K君はそう言って陽気に笑った。
当時、初めての海外一人旅でインドを選ぶやつもあまりいなかったが、K君がおれを驚かせたのはそのことではない。
インドという国は、アジア大陸から突き出た巨大な半島である。
カルカッタはその半島の東側の付け根付近に位置している。K君は、なんとこの付け根から半島最南端の町、カーニャクマリまでおよそ2300キロ、これを自転車で走破するために来た、と言うのだ。
初めての海外がインド!
英語もさっぱりわからない、と言いながら、2300キロもの距離を自転車で!
自転車で、となれば、当然ガイドブックなどには出ていない街や道を走ることになるだろう…、不安はないのか
『何とかなりますよ!』
そう言ってK君はやはり陽気に笑う。
ダッカでの2日目、おれはK君と共に街へ出てみた。すさまじい喧騒と混沌におれたちはかなりの衝撃を受けた。『何とかなりますよ!』と言っていたK君が、ホテルへ帰ると不安そうにおれに言った。
『カルカッタって、ここよりもっとすごいらしいですよね、小平次さん、海外一人旅、初めてじゃないって言ってましたよね? おれ、なんか不安になっちゃって、良ければなんスけど、慣れるまでの間、一週間くらいでいいんで、一緒に行動してくれませんか?』
海外一人旅と言っても、おれが行ったのはヨーロッパ、あまりに勝手が違う。それに、3年間の社会人生活で、冒険心などすっかり失い臆病になっていたおれにとっても、その提案はありがたいことだった。
だが一つだけ問題があった。おれとK君のカルカッタへの便が違うのだ。先にK君が出発、数時間遅れでおれが出発、どこで落ち合うか…。空港で待っていてくれるのが一番良いのだが、カルカッタの空港がどんな造りで何があるのかもわからない、待ち合わせるにも空港のどこですれば良いのかわからない、今思えばいくつか空港で待ち合わせる方法もあったのだが、その時は思いつかない。結局、地球の歩き方に出ていたホテル、一泊70ルピー、Sホテルで落ち合うことに決めたのだった。
『Taxi Booking』
の机の前で、おれは地球の歩き方に出ているSホテル付近の地図を食い入るように見つめ、どこで降りるのが良いか、慎重に慎重に考えてから、予約所の男に行き先を告げた。
『Indian museum まで!』
************************************ つづく
※注Calcutta(カルカッタ) → 現Kolkata(コルカタ) 記事は20数年前のできごとです。また、画像はイメージです