さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

インド放浪 本能の空腹40 ただいま!

2022-03-14 | インド放浪 本能の空腹

イメージ 令和4年撮影

30年前、インドを一人旅した時のこと、当時つけていた日記を元にお送りしてきました『インド放浪 本能の空腹』いよいよ帰国、最終回です

前回、カルカッタのダムダム空港で、話しかけてきたバングラディシュ人の男、同じ便に乗ると言っていたので油断していたらフライト時刻が迫り、すったもんだの末、無事に離陸、悠久の大地に空から別れを告げた、というところまででした。

では、最後です

**********************

 ダッカに到着、来た時と同じように長いこと待たされ、来た時と同じように扉の締まらないオンボロリムジンに乗り、来た時と同じホテルに着いた。来た時には汚いホテル、と思っていたが、こうしてインドを旅した後に来てみると、随分高級感のあるホテルだったんだな、と感じられた。
 これからインドを旅する予定だという韓国人がホテルに泊まっていた。韓国語で『こんにちは』ってなんだっけっかな、覚えてたはずだが、思い出せない、今のような韓流ブームなんて時代でもない、英語で一言二言会話をして別れた。
 
 翌日、食堂で朝食にチキンカレーを食っていると、テーブルの上に新聞が置いてあるのが目に入った。一面にデカデカとゴルバチョフの顔が出ている。そう言えば、カルカッタで帰りの便がとれてからの一週間くらい、町の売店の新聞にはやたらとゴルバチョフの顔が出ていた。ソ連で何か起きているのか…。

 カレーを食い終えるとすぐにリムジンが迎えに来た。ダッカ空港に向かう。

 空港では相変わらず、トランジットのチェックイン作業はノロマで、時間が掛かった。同じように長時間待たされていたドイツ人カップル、彼女の方がおれに突然話しかけて来て言った。

Biman Bangladesh Airlinesは、世界で一番素晴らしい航空会社だわ! あなたもそう思いませんか!?』

 まだこの辺りの国に旅慣れていないのだろう、おれは苦笑するように相槌をうち、同感だ、というようなことを言った。まあ、おれはこんなことにはすっかり慣れていたので、いずれ飛行機には乗れるだろう、くらいの感覚で離陸の時を待っていた。

 ダッカ⇔成田便は、週に一便、採算のとれるような路線でもないのだろう、途中、バンコクとシンガポールを経由して乗客を大勢乗せて、直行なら6時間くらいのところ、10時間以上の時間をかけて成田まで飛んでいた。

 バンコクで機内の座席が半分以上埋った。さらにシンガポールでは日本人乗客がたくさん乗り込み、ほぼ満席となった。

 シンガポールからは日本の航空会社(JALだったかな)との共同運航なのだろうか、日本の航空会社の制服を着たCAも乗り込んできた。ちなみに、BimanのCAの制服はサリー姿である。

 JALのCAさんの、きめ細かく丁寧で行き届いたその仕事ぶりを見て、おれは日本に確実に近づいていることを実感した。こういうサービスが当たり前なのだ、と思っていたが、インドの旅でそれは全く当たり前のことなどではない、日本人らしい心づくしなのだと実感した。

 機内で上映していた『ホームアローン』も終わり、暫くして飛行機は着陸態勢に入る、機体が早朝の雲を引き裂く、眼下には『枯れ木も山の賑わい』と言った山々、真冬の枯れた田園風景が広がった。

『日本だ!!』

 あああ、帰って来たのだ。日本に…。

 無事に着陸し、入国審査の列に並んでいると、一人の警備官がおれに近づき、『こちらで荷物検査を受けて下さい』と、別室へ連れて行かれた。別室で若い警備官は、おれのバッグを開け、中身を入念にチェックしながら言った。

『随分、長くインドへ行かれていたのですね、目的は?』
『旅行ですよ』
『旅行ねぇ、サダルストリートなんか行ったんでしょ?』
『ええ……』
『色々と、誘われたりしたんじゃないんですか? 例えばぁー、タバコじゃないモノ、とか』

 カルカッタに着いた早々、詐欺師のラームにまんまと乗せられ、仲良くなった証の物々交換で、お気に入りの春物コートを偽カシミヤのセーターに換えられ、時計やバッグもインド製のボロに変わっていた。靴も、プリーでロメオに意味の分からない礼を言われ取られてしまった。

 だからこの時のおれの格好と言えば、頭には紺色のバンダナを被るように巻き、上半身はTシャツの上に、彼女のK子から誕生日にもらった紺色のパジャマ1枚、シンプルで洒落たパジャマではあったが、パジャマはパジャマだ。そしてくたびれたGパンに黒いサンダル、無精ひげが雑に頬を覆っていた。

 そうか! この格好でインドから日本へ! おれは疑われているのだ! つまりは見た目で怪しいヤツと判断されているのだ!

 真冬に、パジャマにサンダルで飛行機に乗ってインドから帰ってくるヤツ、このあともその恰好のまま、公共交通機関に乗って移動するようなヤツ、外は無茶苦茶寒いのに…。まあ、疑われても仕方なかったのだろう。

 このころのおれは、自慢じゃないが結構イケメンだった。おれが自分でそう言っていたのではなく、周りの女性からそう言われていたのだ。K子の女友達は、『彼氏、ジャニーズ系でカッコいいよね』と言っていたそうだし、学生時代には、彼女でもない女友達から、自慢したいので一緒にキャンパスを並んで歩いて欲しい、と言われたり、洒落たバーで一緒に飲んで欲しいとか、そういう話には枚挙にいとまがなかった。

 そんなおれだったから、まあ、真面目な方でもあったし、人から外見で悪く判断されるような経験は一切無かったのだ。だが今、おれは外見で悪く判断されているのだ、高校時代の不良たち、さぞ悔しかったろうなぁ、今ならその気持ちがわかる。

『そういったモノは、マリファナとか、僕は全て断っていましたのでやってもいないし、持ってもいません』
『一切断っていた… ねぇ… へえ… 』

 あああ、悔しい!! 外見で判断されるのはこんなにも悔しいのか!

 警備官が、画きかけのガネーシャの絵を取り出した。未完成のまま持って帰って来ていた。かなり精神状態の良くない時に描いていたそれは、ガネーシャにはとても見えず、ピンク色の他、極彩色の未知の生物がのたうち回っているような絵になっていた。

ガネーシャ・イメージ


『ええっと…、これは?』
『ガネーシャです…。。』

『……』

 若い警備官はまじまじとその絵を眺め、ため息をつくように大きく息をしてそれをしまった。

 当然おれは何も疚しいことはない、時間はかかったが無事にゲートを出た。そして成田エクスプレスの切符を買い、新宿へ向かった。朝が早かったから駄目だろう、とは思っていたが、もし、K子とよく行っていた、新宿の地下街、サブナードの寿司屋が開いていたら、まず寿司が食いたかったのだ。

 新宿へ向かう列車の中、おれのはす向かいに4人家族が向かい合って座っていた。聞こえてくる話から、どうやらバンコクからの帰りらしい。バンコクのスラム街の話をしている。

『いや、本当にあの路地の光景は、お父さんショックを受けたよ、きっと忘れられないな』

 息子らしい小学生くらいの男の子が言う。

『ボクもショックだった、一番ショックだったのは、あの中に日本人みたいな人がいて、とても汚くて、なんか危ない感じがしたのが怖かった』

 その時、はす向かいの母親とおれの目が合う、瞬間、母親は男の子の口を塞ぎ…

『シッ!!』

 ああ、また見た目で判断されたようだ。

 やがて新宿に着く、案の定サブナードの寿司屋はまだ開いていない、おれは諦めて小田急線乗り場の方へ向かう、どうしてもロマンスカーで帰りたかったのだ。
 江の島方面へのロマンスカーの出発まではまだ時間があった。パジャマ姿のおれは寒さを凌ぐため、地下街に戻り端の方でうずくまった。

 前方から一人の浮浪者がゆっくりと歩いてくる、おれの近くまで来ると、見慣れないヤツがうずくまっているのを見つけ、じっと見つめて来た、そしておれと目が合う、すぐに浮浪者が目を逸らし、おれの視界から逃るように別の方向へ消えて行った。

 あいつもおれを見た目で判断したようだ。

 暫くしてようやくロマンスカーに乗り込む、おれの実家のある街へと帰る、そして実家の玄関の前に立つ、勢いよく扉を開けた。

『ただいま! 今帰りました!!』



おわり


************************

長く続けてきたインド放浪、本能の空腹、今回で終了です。多くの人たちからコメントを頂き、励まされ、自分の人生の最大級のイベントをこうして文章に残すことができました。今後、過去の文章などを少しずつ手直しし、読み物としてもより良い物にしていきたいと思います。

実家に帰ってから父から聞いたのですが、私がインドへ行っているとき、ある日の夜中突然母が飛び起きて、『今、小平次が死んだよ、』とわけのわからないことを言ったそうです。当てにもならない虫の知らせがあったようです。

ちなみに、カルカッタで騙され買わされたシルクなど15万円分の商品は、無事に届いておりました。そういう意味では、詐欺と言うより悪質な物売り、だったのでしょう。

私はこの6年後、再びインドを訪れています。その時の珍道中も、また書きたいと思います。

皆様、本当にありがとうございました!

毎回コメントを下さったカワムラさん、本当にありがとうございました!

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インド放浪 本能の空腹 39 さらば、インド

2022-02-21 | インド放浪 本能の空腹


30年前、私がインドを一人旅した時の日記を元にお送りいたしてきました

『インド放浪 本能の空腹』

いよいよ帰国の日が近づいてきました

出国もかなりドタバタしました、一気にお読み頂きたく、少し長くなるかもしれませんが、何卒お付き合いくださいませ

では、続きをどうぞ


**************************

 マザー・テレサの病院、『死を待つ人々の家』に入る事すらできず、己の弱さや醜さを自覚し涙まで流したというのに、そんなことはすっかり忘れたかのように、『Biman Bangladesh Airlines』のぐうたらな対応で気を揉んだものの、帰国便の予約が取れて、おれは随分と晴々とした気分になっていた。

 このカルカッタにやって来てからは、気持ちの沈む日々であったが、ようやく初めて、『観光客』のような気分になっておれは街を歩いた。

 

 インド博物館前の大通り、歩道にはたくさんの物売りが地べたに土産物を置いて売っている。これまでそんなものを買う気など全くなかったが、インドへ来て早々に詐欺に合って買わされたシルクなどの土産が、無事に日本に着いているかどうか分からない、おれは何やら宝石の原石のような石をゴロゴロと並べて売っている男の前にしゃがんでその石を眺めた。

 キャッツアイのような石があった。

『それは一ついくらだ?』

と指を差し尋ねる。

『200Rupee…』

 おれは話にならない、という顔をして立ち上がる、すると男がすぐにおれを引き留め言う。

『待て待て待て待て、では、150Rupeeに負けるよ…』

 おれはすぐに立ち上がろうとする。

『待て待て待て待て、では、いくらなら買う?…』

『5個で200ルピーなら買う』

『それは話にならない、それならば、もう一つ加えて、6個で500Rupeeならばどうだ…』

『いいだろう、6個もらうよ』

 この街に初めてやって来た日の夜、喧騒と混沌の入り乱れたその圧倒的な街のパワーに気圧され、ビビりまくったあの日を思えば、こんな買い物の交渉も上手になったものだ。



 ゴミだらけの街をおれは歩く。世界で一番汚い、と言われる街を歩く、都市文明化の失敗作、と言われる街を歩く、歩いて歩いて、やがてインドを発つ日を迎えた。

 ホテルでタクシーを呼び、荷物を持って外へでる。カルカッタに戻って来た日に、ホテルの前の路地で腐りかけていた猫の死骸は、少し毛玉のようなものを残しながらも白骨化し、ついに帰国の日まで片付けられることはなかった。

 タクシーに乗り込む。

『ダムダム空港まで』

 運転手が、プイッと顎を横に振り走り出す。



 街の喧騒を眺める、少し寂しい気もする、やがて空港に着く、メーターは『60Rupee』、来た時と同じだ。そして、どうせボッタクられるのだろう……。運転手が言った…。

『60Rupee…』

『えっ!』

 もう一度

『60Rupee』

『えっ! ホントに!?  いいの!?』

 運転手が怪訝そうな顔をしている。
 インドで、公的機関を通さずに乗ったタクシーが正規料金!! おれにはとても信じられなかったのだ。

『ありがとう!ありがとう!』

 おれはとても嬉しくなり、『釣りはいらない』と言って、ガンディーの肖像入りの100ルピー紙幣を運転手の手に包むようにして渡した。

『良い旅を…』

 運転手の言葉を聞きながらおれは車を降り、空港内に入った。
 すぐにチェックインカウンターへ行き、チェックインを済ませた。出発まではだいぶ時間があり、出国ゲートにはまだ入ることができなかった。

 ロビーで時間を潰していると、一人の男がおれに近づき、声を掛けてきた。

『日本人か?』

『ああ、日本人だよ』

『どこへいくんだい?』

『これからダッカ経由で日本に帰るんだ』

『何時の便だ?』

 おれがチケットを見せると男は言った。

『ボクと同じ便だ、ボクはバングラディシュ人でダッカへ帰るところだ、出発まで時間がある、暫く話さないか』

 それからおれは、そのやけに陽気な男としばらく談笑していた。

『なあ、ボクの友人が日本で働いているんだ、ぜひその友人に会いに行ってくれないか、そして、カルカッタの空港でこの男に会った、と伝えてほしい』

 男はそう言って、自分の名をメモに書いておれによこした。

『どこに住んでいるんだい? 住所は?』

『トチギだ』

『栃木? 栃木のどこ?』

『トチギしか分からない…』

『いやいや、それじゃ、無理だよ』

『いや、トチギに行って、もし会えたら伝えてほしい』

『わかったよ…。もし栃木に行くことがあって、もし会えたら伝えるよ…。』

 男は嬉しそうに笑った。

『Koheiji 〇ב**Sawada ▲!#$…Your …』

 空港内にアナウンスが流れた。んん? なんだか今、おれの名前が呼ばれたような気がする…。

『Koheiji 〇ב**Sawada ▲!#$…Your …』


 やはりおれの名が呼ばれている、よく聞き取れないが、おれの乗るダッカ行きの便が間もなく離陸するので急げ、と言っている…。 … ん? んんん!?

『エエエエエエエエーーーーーーー!!!』


 時計を見ると、確かにフライト時刻が迫っている、というか過ぎている!!!!!

『おい! ボク達の乗る便がもう離陸するぞ!! 急がないと!!!!』

 おれは一緒に走ろうと、男の手を取った。だが、男は慌てるでもなくゆっくりと時計を眺め、そして言った。

『ボクのは、この後の便だ』

『おい!!』

 まったくなんてヤツだ! 悪いヤツではなかったが、ルーズすぎる…、でもまあ仕方ない…、この国に来てキチンとしていたのはバブーだけだったな…。

 出国ゲートの入口の前に、サリーをまとった大柄の、出国審査官らしきオバサンが立っていた。そのオバサンがおれを見つけ、急げ!急げ! と手を振っている。おれは息を切らせてオバサンのもとへ走った。

『あなたのせいで離陸が遅れている、急いで荷物をここに乗せて!』

 おれは言われるがままにバッグをX線の機械のベルトコンベアの上に置いた。ベルトコンベアが動き出し、そして止まる、出国審査官のオバサンがモニターを睨みつける、睨みつける、睨みつける…。

 早くしろよ! 怪しい物なんか入っていないから! そう、怪しい物などあるはずはないのだ。だが…、出国審査官のオバサンは、飛び上がるように、勢いよく立ち上がり、モニターを指さし、そして大声で叫んだ。

『Pistol!! Pistol!! Pistol!! Pistol!!------!!』

 えっと…、なんだって…?  『ピストル……?』 ん…?

『はぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!??』

 オバサンの『ピストル』という叫び声を聞いて、近くにいた、自動小銃を肩からかけた空港警備官らしきイカツイ男が3人、おれに向かって駆け寄ってきた。そしてオバサンと共におれのバッグを開けガサゴソと調べ始めた。

『いや、だから、入ってねえって!』

 やがてオバサンがおれのバッグからある物を取り出し、おれの目の前に突き付け言った。

『これはナニ!?』

『えっと、それは…、蚊除けのスプレーです…。』

『ん? Mosquito repellent?』

『はい…、多分そんな感じのものです…。』

『そう、だったらここを通ってもいいよ、いいけどね、いいけど、Indian Money pay♡

 そう言ってオバサンはニッコリ笑って手を出した。

 え? 金を払えってか? ほとほと呆れた、だが悠長なことは言ってられない、おれは財布から100ルピー紙幣を取り出しオバサンに渡した。オバサンがまたニッコリと笑う、すると、さきほど駆け寄ってきた空港警備官の男たちが一斉におれに向かって言った。

Indian Money pay
Indian Money pay
Indian Money pay

 もう滅茶苦茶だ、ほんとに最後までハチャメチャだ、おれは男たち一人ずつに100ルピー紙幣を渡し、どうにかダッカ行きの便に乗り込んだ。

 機内に入ると、他の乗客の視線が痛かった…。

『君のせいで離陸が遅れた』

 おれの座席に向かう途中、何人かにそう言われた。

 おれの隣は日本人だった。ダッカとカルカッタを行ったり来たりしている大使館職員らしい、ベンガル語ができるので雇われた、と言っていた。

 おれを待ってようやく出発、エンジンが唸りを上げて飛行機が加速、そして離陸、たちまち眼下にインドの大地、悠久の大地が広がる、こうして空からあらためて見ると、本当にインドは湿地やら沼やらがあちこちにあるのがわかる、水は豊富なのだろう、おれは眼下の大地を見つめ、そして心でつぶやく。

『さらば、インド! インドよ、さらば!』



***************************************つづく

長らく書いてきましたインド放浪・本能の空腹、どうにか帰国まで来ることができました。皆様の、いいね!や、コメントに励まされ、自分自身も日記と記憶と格闘しながら楽しく書かせて頂きました。帰国した日、日本でも思い出深いことがありましたので、家に着くまでを書きたいと思います。あと、多分1回、最後までお付き合い下されば幸いです



 
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インド放浪 本能の空腹38 Biman Bangladesh Airlines

2022-01-24 | インド放浪 本能の空腹



30年前、私がインドを一人旅した時につけていた日記をもとにお送りしています。前回、マザーテレサの病院、『死を待つ人々の家』の前まで行きながら何もできず、自分の無力さ、弱さに打ちのめされ、危なくこの街に同化しそうになる自分に気づき、日本に帰る決心をした、というところまででした。

では、続きをどうぞ


*******************************

 Biman Bangladesh Airlinesのカルカッタオフィスは、インド博物館と同じ大通りに面し、博物館からはほど近いところにあった。

 せまいオフィスの中は、そこそこ混雑していた。特に、予約カウンターの前には数人の男たちが、カウンターを乗り越えんばかりに詰め寄り、時折大声を出すヤツがいたりと騒がしかった。

 長いインド一人旅でわかっていることがあった。おれが、あのカウンターに詰め寄る男たちの群れの後ろに普通に並んだとしても、永遠におれの予約は取れない、ということだ。

 インド人は、おれの知る限りこういった場所で並ぶ、ということをしない。ああやって皆で詰め寄り、それぞれが用件を告げ、自分の手続きを我先にやらせようとするのだ。だからおれが日本に帰るためには、あの群れの中に多少でも割って入り、カウンターの向こうにいるであろう係の者に自分の存在を知らせ、用件を聞いてもらわねばならないのだ。

 おれは、群れの背後から忍び寄り、少しずつ中へ割って入る。だが中々進まない。群れの先頭の誰かが自分の予約を済ませ群れから離れるタイミングを見て少しでも中へ進む、この間、おれが少しでも油断をして前のやつとの間に隙間などを作れば、たちまちその間に誰かが割って入ってくる、おれの背後も無論同様だ。皆で体を密着させ、隙あらば自分の予約を告げようと押し合いへし合いをしているのだ。

 密着状態のまま、一時間ほどでようやくカウンターの向こうに座る係の男の顔を確認できるところまで進んだ。
 カウンターの男は、この辺りの国々、インドやバングラディシュ、パキスタンやネパールの人間らしい、浅黒い肌の色であったが、顔立ちはどことなく『ハリソン・フォード』に似ていた。インド人は、肌の色を除けば顔立ちは白人に近いヤツも多いのだ。

 おれは何とか自分の用を告げようと、1年オープンのチケットを掲げ

『今週の、成田行きの便に乗りたい!』

と、ハリソン・フォードに何度か言ってみたが無視された。

『今週の、成田行きの便に乗りたい!』
『今週の、成田行きの便に乗りたい!』

 繰り返し言っていると、ようやくハリソン・フォードがおれに目を向けた。だが、返事はこうだ。

『順番だ』

 は? この無秩序な群れに順番があるのか!

 さらに一時間が経ち、ようやくハリソン・フォードがおれにチケットを見せろ、という仕草をした。そして、でかいコンピューターの画面を見ながら、ゆっくりとキーボードを叩き、そして言った。

『満席だ』

 … … … ここへ来てすでに3時間以上が経過、その間ずっとスパイシーな香りのする男たちと体を密着させていた… … どっと疲労感に襲われた。

『では、来週の便を予約したい…』

 ハリソン・フォードはまたゆっくりとキーボードを叩き、そして言った。

『来週の便も満席だ』

 … … …

『では、キャンセル待ちをしたい』

『明日また来い』

 Biman Bangladesh Airlinesの『ダッカ⇔成田』便は、毎週金曜日、週に1便しか飛んでいない、今週がだめなら一週間待つことになる、その来週の便も取れなければ…。

 おれはこのチケットを手配してくれた、親友Tの彼女で、旅行会社に勤めるNちゃんの言葉を思い出した。

『小平次さん、小平次さんなら大丈夫だと思うんですけど、Biman Bangladesh Airlinesは、安いんですけど、その分ちょっとルーズで、それこそ、普通にやっているとチケットが取れなかったりするので、帰ろう、と思ったら、家族が病気だ、くらいのことを言って取って下さいね…』

 おれはその時、今一つ、Nちゃんの言葉にピンと来なかったが、今目の前で起きていることがそうなのか?

 今日は火曜日、明後日のカルカッタ➡ダッカ便に乗り、ダッカで1泊、早ければ4日後には日本だ、そういうつもりで来ていたので、おれの脱力感は相当なものであった。

 翌日、午後、おれはまたオフィスを訪れる、同じように群れに入り2時間、ようやくおれの番だ、だが返事は…

『空席は出ていない』

 脱力、酷い脱力…

 もはや今週の便は間に合わない、来週の便にかける、翌日、おれはオフィスのオープン30分前に行き、締まっているシャッターの前に立ち身構えた。他にも数人が同じようにシャッターが開くのを待っている。

 ガラガラとシャッターが開く、一斉に数人の男たちが中へ走る、何人かに押しのけられ、後手を踏んだがどうにか先頭集団でカウンターに張り付いた。

 おれの順番まで1時間ほどがかかった。ようやくおれの番になり、おれはハリソン・フォードに、キャンセル待ちと併せて最短で取れる便の予約を頼んだ。

 ハリソン・フォードはいつも通りゆっくりとキーボードを叩く、そして暫く無言、この間約30分、そしてようやく口を開き言った。

Computer、system down

はあああああ!!!??

 なんだなんだなんだ、なんだこの事態は!ここに通い3日目、満員電車のように男たちと体を密着させ待たされた時間は一体どれほどだ!

Computer、system down

のまま、待たされること2時間、この間、自分の順番を飛ばされたりしないように、皆で仲良く体を密着させたままである…。普通に整列して並べばお互いこんなつらい思いをしなくて済むし、その方がきっと早いだろうに…

 さらに1時間が経過し、ようやく奥から上席のような男が出て来たと思ったら、言った言葉はこうだ。

『本日は復旧しない、みんな明日また来てくれ』

 おおおおおおおおおおおおおおおおおお、

『おい!』

 あしらわれるように皆オフィスから追い出された。

 なんてことだ、おれ、帰れるのか?

 翌日、おれは前日同様、オープン前にシャッター前に立つ、シャッターが開くと同時にオフィス内に駆け込む、うまく先頭に立ち、真っ先にカウンターに張り付いた。

 ゆっくりとハリソン・フォードと女性職員が談笑しながら奥から出て来る、ハリソン・フォードは小脇に何か大きな箱を抱えている、箱にはオモチャの飛行機が描かれている、女性職員との会話を聞いていると、どうやらハリソン・フォードは間もなく休暇でダッカへ帰るらしい、飛行機のオモチャは子供へのお土産らしい…、 こっちの気も知らないで、のんきな奴だ、日本へ帰ろう! そう決意したら、1分1秒でも早く帰りたい、にもかかわらず帰るに帰れない、なんともどかしいことか!

 幸いこの日、ハリソン・フォードは一番におれに声を掛けてくれた。おれは引き続き来週のキャンセル待ちと最短で取れる便の予約を頼んだ。
 
ハリソン・フォードがキーボードを叩く…

『頼む! 頼む! キャンセル! 出て!!』

 待つこと30分、ハリソン・フォードが口を開く。

Computer、system down

 おれはその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。そして相変わらず密着満員電車状態で3時間、やがて昼になった。一人、二人、群れから離れる、おれもカウンターから離れる、カウンターからは離れても外へ出るわけにはいかない、腹が減ったからと外へ出てしまって、その間にコンピューターが復旧したら、また群れができて1からやり直さなければならなくなる、だからこのオフィスを出るわけには行かないのだ。

 『Computer、system down
 
 のまま、15時、諦めて脱落する者がちらほらと帰り始める、おれはひたすら待つ、待つ 待つ。だがやがて17時、閉店の時刻だ。残っているのはおれともう1人、2人だけだ

 奥から上席の男がまた出て来る、そして非情にもこう言った。

『今日はもう閉店の時間だ、来週また来てくれ』

 おれの頭にNちゃんの言葉が浮かぶ…。

 おれは椅子から立ち上がり、その上席の男に向かって言った。

『ハイ、ミスター、ボクはもう4日もここへ来ている、でもチケットが取れない、ボクのvacationはもう終わる、来週の便に乗れなければ会社をクビになる、何とかして欲しい 』

 上席の男はおれの顔を見つめ言った。

『オープンチケットとパスポートを見せろ』

 男は、おれからそれを受け取ると奥へ消えた。いったいどうなるのだろう… 10分程で男が戻る、そして言った。

『来週の便が取れた、これがチケットだ、予約のreconfirmは必要ない、良かったな!』

… … …

 なんだなんだなんだ… なんなんだ! この4日間の苦行は一体何だったんだ!? やればできるじゃないか! 満席だ、と言っていたじゃないか! 始めからボロコンピューターなんか使わず手作業でやっていればできたんじゃないのか!

 
 ともあれ… 来週末、おれは日本の地を踏んでいる。 良かった。



**************************つづく

色々なことがあって、それから帰る決断をしましたので、そう思ったらいてもたってもいられず、一刻も早く日本へ帰りたい、そんな思いの中でのこの4日間、本当に辛かったですね。数年掛かりで書いてきたこの日記もいよいよ終わりです。後2回かな、最後まで是非お付き合いの程、宜しくお願いします。






 
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インド放浪 本能の空腹37 帰ろう! 日本へ!

2021-12-08 | インド放浪 本能の空腹
Biman Bangladesh Airlines

30年近く前、私がインドを一人旅した時の日記を元にお送りしております。

前回、クリスチャンとして、神に命ぜられたと思い込み、3度もマザーテレサの死を待つ人々の家で奉仕をしようと、目の前まで行きながらも扉を叩く勇気がなく、痙攣して倒れる老人を見てホテルへ逃げ帰った、と言うところまででした。

続きをどうぞ


*****************************************

 マザーテレサの病院へ行かなくてはならない、そして死を待つ人々に神の愛をもって奉仕をしなくてはならない、まるで強迫観念のような感情の中、1日目は場所がわからぬと引き返し、2日目は心の準備が整わない、と引き返し、意を決し行った3日目、目の前で痙攣しながら泡を吹いて倒れ込んだジイサンにビビり、結局病院内に入ることすらできず、ホテルへ逃げ帰った。

 ホテルへ逃げ帰り、おれは泣いた。声を出して泣いた。

 情けない!情けない!情けない!

 なんと弱い人間なのだ!

 イエス・キリストの無償の愛を学び、それを実践する者として『死を待つ人々の家』の前まで行った。

 だが、おれは逃げ帰った。

 結局自分さえ良ければいいのだ!

 他人なんかどうなろうとかまわないのだ!

 何がクリスチャンだ!

 おれは泣いた。泣きながらガネーシャの絵を描きなぐった。

 やがて、ひどく心をざわつかせながらバッグから聖書を取り出し、無造作に開いた。

 たまたま開いたページにはこう書かれていた。

『あなた方はそれぞれ、神から賜物を授かっている、その与えられた賜物に従ってたがいに仕えなさい………』

 それはどういうことだ。おれにはおれに与えられた役目があり、おれ自身にできることをしろ、ということか?

 であれば、『死を待つ人々の家』から逃げ帰ったおれも、それは神から命をもらったおれ自身であり、おれにできることをすれば良い、そういうことでいいのか?

 おれは、東大の大学院卒の肩書を捨て、ダッカで貧困に立ち向かっているMさんのことを思い出した。

 ある時、Mさんがダッカから一時帰国をしたことがあった。そして、ダッカの貧困の状況や、自身の活動を報告する、そういう会がおれの通う教会で催された。久しぶりにあったMさんは、過酷な環境下にあったなどとはとても思えない、変わらぬ明るい笑顔と美貌で、ダッカの現状を語ってくれた。

 講演後、簡単な茶話会が催され、おれはMさんと話をする機会に恵まれた。おれは言った。

『Mさん、おれ、Mさんのように自分を捧げるみたいにして人のために奉仕するなんて、とてもできません、それどころか、普段から自分勝手で、酒もたばこもやるし、合コンしたり、遊んでばかり…、教会ではとても言えないようなこともしています、神の教えとはほど遠いような人間です…』

 この頃、教会に通うほとんどの人は酒やたばこなどとは無縁であった。聖書の言葉を守り、結婚するまで童貞や処女、大多数の人がそうだったろう。おれのような不届き者はごくわずかであった。

 そんなおれに、Mさんは変わらない、明るい笑顔を向け言った。

『小平次クン、それは違うよ、小平次クンには小平次クンに与えられたものがあるんだよ、だって、私には小平次クンの真似はできないし、小平次クンが知り合えるような人たちとも、きっと知り合えない、だから小平次クンは、私や他の教会の人たちが伝えることのできない人たちに、神様の言葉を伝えることができるんだよ! 小平次クンらしくすればいいんだよ!』

 ああ…、本当に、本当にそれでいいんですか?

 泡吹くジイサンを見て逃げ帰ったおれも、この先、生きて行くことが許されるのですか?

 Mさんの言葉を思い出し、また泣いた。そしてガネーシャを描きなぐった。

 それから数日間、おれは呆けたようになっていた。Mさんの言葉と、逃げ帰ったおれ自身の罪悪感、無力感、それがおれの心の中を交錯し続けた。

 罪悪感、無力感が勝ると、もう何もかもがどうでもよくなった。おれがこの先生きて行ったとしても、その人生は利己的で自己中心的で、心から人を愛する、そんなことはできないに違いない、であれば生きる意味はんだ?

 この部屋を一歩出れば、人からわずかな金を恵んでもらい、目標もなく、ただその日をやり過ごすためだけに生きている人間が大勢いるではないか。
 そいつらだって、いつ、ゴミに埋もれ、朽ち果て、この悠久の大地と同化してしまうかなんてわからないのだ。

 おれのこれからの人生と何が違うんだ?

 おれがこの街で、金を使い切り、やがて金持ちそうな日本人観光客相手に、虚ろな目をして手を差出し、『Money…』とやって、物乞いとして生きて行く。そしていつかこの街に同化していく。

 やがてこのような考えが支配的となり、気力、体力、その他、すべての生きる力が全身から抜けていくような気がした。そして、それがなぜか心地よく感じられるようになり始めていた。

『この街と、インドと、悠久の大地と、おれは同化してしまおう…』

 本気でそう思った瞬間であった。

 おれは寝そべっていたベッドから飛び起きた。そして、一瞬でも本気で『同化してしまおう』と考えたことに恐怖を覚えた。

『ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだ!!!!!』

『何を考えているんだ!ダメだ!ダメだ!』

『帰るんだ! 日本へ! これから送るべきであろうおれの人生、おれにはおれの人生がきっとある! 帰ろう! 日本へ!』
 

 『危ない…、本当に危ないところだった…』

 それから、Biman Bangladesh Airlinesの1年オープンチケットを握りしめ、部屋を飛び出し、インド博物館の並びにある Biman Bangladesh Airlinesのカルカッタオフィスへ向かって走り出した。


*************つづく

この時は本当に『危なかった』と心からそう思いました。まさに魔の潜む街、カルカッタ、そう思いました。今思い出しても、あの時飛び上がっていなければ一体どうなっていただろう、そんなことを思います。インド、特にあの街カルカッタ、圧倒的な人間の本能と、渦巻く混沌、弱い心で向かうと飲み込まれてしまう、そんな感じだったですかね~ 


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インド放浪本能の空腹 36 死を待つ人々の家

2021-11-10 | インド放浪 本能の空腹


30年近く前、私のインド一人旅、当時の日記をもとにお送りしています。

前回、カルカッタと言う、まさにあからさまな人間の生きる原点が渦巻いているような街で、クリスチャンであった私が、唯一絶対、全知全能の神のためにボランティアとしてマザーテレサの『死を待つ人々の家』に行かなくてはならい、そういう思いに駆られ、少しばかり心が病みはじめてきた、というところまででした


*****************

『強迫観念』

 おれがマザーテレサの『死を待つ人々の家』に行かなくてはならない、そう強く思ったのは、クリスチャンであったおれが、唯一絶対、全知全能の神からそう言われような気がした、まさに『強迫観念』からの思いであった。

 貧しい子供や、病に倒れ、なす術もないような人々のために、東大大学院卒の肩書などかなぐり捨ててダッカへ向かった憧れのお姉さん、Mさん、彼女とおれは根本的に違っている、Mさんは、ダッカの貧困のために、自身の身を捧げることを喜びと感じている。

 おれは違う。ただの強迫観念だ。

 良いことをした、そんな自己満足の偽善にもならない、ただの強迫観念だ。

 『死を待つ人々の家』で長く働いていたと言う人が、おれの通っていた教会に来て講演をした。

『理由は関係ありません、自己満足でもなんでもかまわない、一日でも半日でも、テレサの病院に来て手伝ってもらえればとても助かります』

 おれがそこへ向かおうと言う理由は偽善にも満たない…。そんなおれが、『苦しむ人々のために力になりたい』そういう思いでボランティアに向かっていく人たちと共に、仕事なんかできるわけもない。

 カルカッタと言う街にもすっかり慣れ、手足のない人、指の溶けた人、4本足の男、死んでいるのか生きているのかわからずゴミために埋もれている人、そういう光景には確かに慣れた。だが、『死を待つ人々』の身体に触れ、何かを手伝う、そんなことをする自信は全くなかったのだ。強迫観念に駆られ、偽善以下の、ややもすれば、身勝手な自己満足以下のおれの振る舞いは…、おれの醜い心持ちは、きっと『死を待つ人々』や、そこで働く人々に見透かされるに違いない…。

『偽善者め! 偽善者め! ここはお前のような自分のことしか考えていないようなヤツの来るところではない!』

 相当に、いつの間にか心身が参っていたのかもしれない。

 おれは、とても勝ち目のない決闘、死地に向かうような思いでホテルを出て、インド博物館前の地下鉄の入口へと向かった。

 カルカッタ、世界で最も汚い街と揶揄される街、だが、地下鉄の構内はとても綺麗だ。物乞いもポン引きもいない。おれは切符を買い、テレサの病院の最寄駅であるカーリガートへと向かった。
 カーリガートに着き外へ出る。地球の歩き方を開き、テレサの病院へ向かう。途中、腐りかけて、骨と内臓があらわになった大きなネズミの死体をまたぐ。サダルストリート付近ほどではないが、このあたりもかなり汚い。
 
 地図どおりに歩き、おそらくはすぐ近く、というとこまで来た。ところが、それらしき建物が見当たらない、地図では目の前にあるはずだがわからない、日本の病院のようなものを想像していたわけではないが、わからない。看板のようなものも出ていない。この時、おれの心の誰かがつぶやく。

『場所が…、場所がわからないのであれば仕方ないじゃないか…、今日はここまで来ただけでも十分だよ、また明日出直そう…』

 おれは、その誰かの声に従い、踵を返し地下鉄の駅に向かう。

『仕方ないじゃないか、場所がわからないのだから、今日はこれで十分だ、明日、もう一度来よう、そして、わからなかったら明日は誰かに聞いてみよう…、今日のところはこれで十分だ…』

 ホテルに戻ったおれは、ウイスキーの小瓶をあおり、ピンクの頭のガネーシャを描きなぐった。

 翌日、同じようにおれはテレサの病院へ向かう。そしてやはり場所がわからない。だが、場所がわからないから帰る、という手はもう使えない、おれはあたりを見廻す、するとそこへ一人の少年が近寄って来て言った。

『テレサのホスピタルへ来たの?』

『えっ…、いや、その…、』

『ボクが連れて行ってあげるよ! テレサのホスピタルには大勢のボランティアの人が来ているよ! アメリカ人、イギリス人、カナダ人、もちろんジャパニーもいるよ! さあ、行こう!』

『いや、いや…、違うんだ…、テレサのホスピタルに来たんじゃないんだ…、これから地下鉄で帰るところなんだ…』

『ああ、そうなんだ…』

 自分で吐いた言葉に自分で愕然とした。何を言っているんだ! なんで嘘をつくのだ! それほどまでに、今、目の前で苦しんでいる人たちのために働くことが嫌なのか!

 今思えば、おれのようなド素人に、死ぬ間際の人間の面倒を診させる、それこそ命に関わる難しいことなどさせるはずもないのだ、おれのようなド素人に手伝えること、ものを運んだり、食事の補助の補助をしたり、できることしかさせないはずなのだ。だが、おれは街中に溢れかえる手足のない人、指の溶けた人、生きながらにして腐りかけているかのような人、その人たちと直接に深く関わることを想像しビビりまくっていたのだ。

 また、おれの心の中で誰かがつぶやく…。

『いや、今のは仕方ない、十分に心の準備ができていなかった…、不意を突かれ、ああ言うしかなかった…。また、明日来よう…。』

 明日だ! 明日だ! 明日こそ! 今日は仕方ない!

 ホテルへ戻り、同じように酒をあおり、ガネーシャを描く。

 翌日、おれは心を強く持ち、病院へ向かう。そして同じ場所に辿り着く。



マザーテレサの病院(毎日新聞・私が行った時は、道はゴミだらけでしたが、だいぶ綺麗になっています)


 心を落ち着けようと、屋台のチャイ屋で甘いチャイを飲む。屋台のチャイは、土器でできた御猪口のような器に注がれる。皆飲み終えるとその器を地面に叩きつけ粉々にするので、チャイ屋の周りは土器の破片で一杯だ。

 誰かに聞こうと辺りを見回す、そして意を決し、一人の男に声を掛けようとした瞬間、目の前の建物(上記画像)の入り口の前に座っていた薄汚れたれたじいさんが、突然うめき声をあげ、ブルブルと震えだし、やがて泡を吹き、痙攣したまま倒れ込んだのだ。周りにいた男たち、中から出てきた女性たちがじいさんを支え、建物の中へ運んだ。

 呆然と立ち尽くしそれを見ていたおれ。

『ダメだ、ダメだ、ダメだ! 無理だ! おれには無理だ! あんなじいさん、泡吹いてたぞ! 無理に決まっている!』

 情けない!情けない!情けない!情けない!情けない!

 おれは心でそう叫びながら早足でカーリガート駅へと向かった。

 地下鉄のホームに立つ。壁にテレビが取り付けてある。プロレスをやっているようだ。客はインド人のようだから、インド人のプロレスなのだろう、… … ん?  よく見ると、選手の一人は日本人のようだ、黒いトランクスに黒いリングシューズ…。

『藤波だ!! 藤波辰巳だ!!!』

『藤波!! やっつけろ!! インド人なんかぶっ殺せ!!』

 おれは酷い自己嫌悪に苛まれながら、地下鉄に乗り込みホテルへと戻った。



*************つづく

この時、何がそんなにも怖かったのだろうと思い返してみますと、おそらくは、マザーテレサの病院でボランティアをするような人たちは、きっとこの時の私からはあまりにも眩しすぎるような純粋な行動力を持った人たち、そう思えたのだろうと思います。そんな人たちの中に入って行き、自分の弱さや情けなさ、不純さ、そういうものをさらけ出されることを恐れていたように思います。

結果、行っても行かなくてもそれを思い知らされることになりました。







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インド放浪 本能の空腹35 神から与えられし使命

2021-09-16 | インド放浪 本能の空腹



30年近く前、私のインド放浪、当時つけていた日記をもとにお送りいたしております。


**********************


 おれがインドでしたかったこと、どこか海辺の街で腰を据え、友人や顔見知りを作り、その街の住人の一人のようになってしばらく過ごしたい、という夢はかなった。その一方、インドの全てが凝縮しているような街、喧騒と混沌の極みのような街、都市文明化の失敗作の街、世界で最も汚い街、物乞いとポン引きのあふれる街、カルカッタ、この街で普通に過ごせるようにならなければインドを旅したなどと言えない、そう思っていた。そして今、おれはもはやこの街に随分と溶け込んでいる、もう十分だ、いつ日本へ帰ってもいいはずだった。

 街中にいる物乞い、もしおれがあの中の一人になったとしても、日々生きて行くだけならば、おそらくは生きて行けるだろう、もちろん本気でそうなりたいなどとは思っていなかったが、そんな考えが度々頭をよぎるようになっていた。

 『死』

 についても考えることが多くなった。なにせ、街には死んでいるのか生きているのかわからないような奴がそこらに横たわっているのだ、一人でそんな街を毎日歩いていれば、死、を意識しないわけにも行かない。

 『死』

 は、怖いと思わなくなっていた。だが、万一パスポートなどを失い、自分の身分を証明できるものが無い状態で死ぬ、そうなれば、家族、結婚を誓っていたK子、おれが死んでいるのか生きているのかさえわからない、自分の死を、自分を想う人たちに知らせられない、それはとても恐ろしいことだ、そう思うようになっていた。それが、ちょっと気を抜けばこの街と同化してしまいそうな自分を押さえていた。

 飯を手で口に入れる、食ったものを排泄した後は、また手で直接洗う、人間の生きる基本、食うこと、出すこと、を自らの手でする、なんとあからさまな行為なのだろう、そう、ここにいる連中は皆あからさまだ、人の生きる原点がここにあるのだ。

 そして、そういった人の生きる原点のような街に、自分が飲み込まれそうになっていることに、おれはまだ気づいてはいないようだった。

 おれはこの頃クリスチャンであった。通っていた教会は割と大きな教会だった。その教会に、Mさんという、東大の大学院に通う美しい女性がいた。5つほど年下だったおれや、おれの仲間の高校生の男どもの憧れの女性だった。
 東大の大学院を卒業したMさん、その高学歴であれば就職の選択肢も、おれなどに比べればはるかに多かっただろう、だが、Mさんの選択した道は、一流企業でも高級官僚でもなかった、バングラデシュのダッカで、貧しい人々、子どもたちのための施設で働く、というものだった。
 Mさんは、そんなとても人には真似のできないようなことをしようというのに、何か大きな覚悟を持って、などという様子は微塵も見せず、これこそが自分が神から与えられた使命だ、神のため、貧しい人たちのために働くことが心底幸せだ、Mさんがそれをおれたちに話してくれた時の明るい笑顔は忘れられない。

 また、その時より少し前、マザー・テレサの病院、『死を待つ人々の家』で長く働いていたという日本人男性が、おれの通う教会に講演に来たことがあった。

 
『街には行き倒れている人がたくさんいます、定期的にテレサの病院スタッフで巡回し、うつ伏せで寝ているような人の胸の下に手を入れ、起こそうとすると…』

『グシャッ、と胸が崩れるんです、もう腐っているんですね…』

 信じられないような話だ、おれは正直

『気持ちが悪い』

と、クリスチャンとしてはあるまじき思いを抱いた。

『テレサの病院はいつも人手が足りません、もし、皆さんがカルカッタに行くようなことがあれば…』

『一日でもいい、半日でもかまわない、何かしらできることがあります。ぜひ立ち寄って助けてください』

 そう、そしておれは今、その『死を待つ人々の家』のすぐ近くにいる。

『行かなくてはならない』

 半ば強迫観念のようにそれを感じていた。日本でぬくぬくと育ち、東京で3年仕事をしてすっかり俗にまみれた。このカルカッタには馴染んではいる、だが、あの薄汚れた布を纏い、生きていても腐っているかと錯覚するような連中の身体に触れ、手助けをする、そんなことは考えられなかったのだ。無理に決まっている、そう思っていた。
 大体、同じインド人でありながら、金のありそうな奴ほど物乞いや行き倒れの連中を汚らしいものを見るような目で見ているではないか、それを日本人のおれが…

『言い訳をするな、行け、テレサの病院へ行け、死を待つ人々の家へ行け、それが全知全能の神から与えられたお前の使命だ…』

『行かなくてはならない… 行かなくてはならない…』

 おれは遂に、派手なピンクの絵具をパレットに作り、真っ白なキャンパスに叩きつけるようにしてガネーシャの象の頭を描き始めた。



***********************************  つづく

今思うと記事でご紹介したMさん、笑顔で旅立って行きましたが、本当はたくさんの不安を抱えていたのだろうな、とも思います。そして自分、まあ、そうですね、結構病みはじめていたかもしれません。この後、さらに重くなって行きます。長らくお送りしてきた『本能の空腹』、そろそろ終盤にさしかかりました。


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インド放浪 本能の空腹 34  『物乞い』

2021-08-20 | インド放浪 本能の空腹

イメージ


30年近く前の私のインド放浪、当時つけていた日記をもとにお送りしております

今回は

インド放浪 本能の空腹 34  『物乞い』

カルカッタにもだいぶ慣れ、そんな中での日常です



******************************

 ある日のこと、おれはいつものように街歩きをしようとホテルを出た。
 おれが根城にしていたホテルは、サダルストリートから路地に入り、さらに奥まったところにあった。プリーから戻って来た日、このホテルの前で一匹の猫が死んでいた。あれからそれなりの日が経っていたが、猫の死骸はずっと放置されたままで、腐乱も一通り進み、全体的に白骨化が始まっていた。

 サダルストリートへ出ると、すぐに物乞いとポン引きが寄ってくる。この頃のおれは、最初の頃とはその様相もかなり変わっていたのだろう。
 プリーで一度だけ髭を剃ったが、それきりだった。随分と無精髭も伸び、『インド旅行者』らしい出で立ちになっていたのだろう。そのせいか、声をかけて来るのは物乞いが中心で、ポン引きの方は割と少なくなっていた。

 サダルストリートは大した規模の通りではない。人は大勢いたし、店も立ち並んではいたが、端から端まで、おそらくは数百メートルしかない。それでも、外国人旅行者が集まる場所でもあったので、ポン引きや物乞いは他の場所よりもひときわ多いように思えた。

 物乞いとポン引きを交わし、少し歩くと、赤ん坊を抱いた女の物乞いと目が合った。女はおれに近づいてくると、何やらわからぬ言語で、必死に何かを訴え始めた。
 こういう物乞いの全てに施しをしていたら、もちろんキリがない、気まぐれでそっと1ルピーコインを握らせるようなことは、随分と上手にできるようになってはいたが、この時、おれの気まぐれな気分は芽生えることもなく、おれは女を無視して歩き続けた。

 それでも女は、おれの左ななめ前を必死に何かを訴えながら付いて来る。
 

『▲✖〇$$#+!! $#+ Milk ✖〇◆■@!!! 』

Milk?

 そう、女は

『この子のために、どうかミルクを!!』

と、必死に訴えているのだ。

 街のいたるところにある雑貨屋、赤い缶入りの粉ミルクを売っている店は多かった。

『▲✖〇$$#+!! $#+ Milk ✖〇◆■@!!! 』
『▲✖〇$$#+!! $#+ Milk ✖〇◆■@!!! 』

 なかなかにしつこい、と言うより根性がある、女の熱意?、にほだされ、おれの気まぐれが頭をもたげた。

(次の路地を右に折れると、確か、雑貨屋があったはずだ、もし、そこまで付いて来る根性があったらミルクを買ってやろう…)

 通りを右に折れる。

『▲✖〇$$#+!! $#+ Milk ✖〇◆■@!!! 』

 女は付いて来る。

 雑貨屋はもう目の前だ、おれは店の前で立ち止まる、女も立ち止り、ようやく黙る。

 おれは店のオヤジに『あそこのミルクをくれ』と言って金を払う、そして女の方に向き、粉ミルクの缶を手渡す。女は、赤ん坊とミルクを両腕に抱え、どうにか胸の前で手を合わせ

『ナマステ―、ナマステ―』

と何度もおれに頭を下げた。

 街歩きを再開しようと、おれは振り返る。すると、振り返った先には…

赤ん坊を抱いたオレンジ色のサリーを纏った別の女が、潤んだ瞳と笑顔で、まるでおれを救世主様でも見るかのような目をして立っていた。

 そう、施しは上手くやらないとキリが無くなるのだ、おれはあたりを見廻し、他にも赤ん坊を抱いた女がいないことを確認し、店のオヤジに言ってもう一缶粉ミルクを買ってその女に渡した。

 この街で、このような施しをしたからと言って、何か自分が良いことをしたなどとは到底思わない、むしろ逆だ、無力さや、訳のわからぬ虚脱感、諦観、そんなものが心に少し残るだけなのだ。それとて決して大げさな感情ではなく、ただの日常に過ぎないのだ。


 また別のある日のこと、おれはインド博物館に面した大通りの歩道を歩いていた。すると前方に、何かを取り囲むようにして人だかりができていた。取り囲んでいるのは、ほとんどが地元のインド人のようであった。

『何だろう…?』

 インド、特にこのカルカッタ、着いた当初は、本当に驚かされることばかりであった。手のない人、足のない人、両目がくぼみ、白目だけで見つめる少年、指が全て溶けて蝋のようになっている物乞い、極めつけは暗闇で現れた、両足を付け根から失い、上半身だけで手製のスケートボードのような板に乗り、船を漕ぐようにして迫って来た老人、あれから随分と日も経ち、そのような人々と出会ってもおれはもう驚くようなことはなかった。そんな人たちにもタイミングよく施しができるようになっていたくらいなのだ。

 一体あそこには何があるのだろう、日本人のおれですら、もはや大抵のものに驚くようなことはない、にもかかわらず、取り囲んでいるのはインド人が大半、どんな珍しい物でもあるのか、想像もつかない、おれはその人だかりの輪に入り、背伸びをするようにして、人々が見ている『珍しいもの』があるであろう、人だかりの輪の中心に目を向けた。

 そこにあったもの、否、居たもの、否、居た男、普通のインド男のように布をスカートのように腰に巻き、薄汚れたシャツを着て、右腕を枕に寝そべっている…、ごく普通の男…?、ではなかった。おれの頭が、その男の姿を、その姿どおりに認識するのには、少々の時間を要した。

 男は薄汚れたシャツを胸のあたりまで捲り上げていた。捲り上げたその腹から、三歳児くらいの足が二本、出ていた。男が子どもをシャツにくるんで抱いている、のではない、その二本の足は、男の腹から生えているのだ。つまり、その男には足が四本あるのだ。男は、その二本の足が、紛れもなく自分のものであることを示すために、腹を出し、付け根を見せているのだ。

 男の周りには小銭が散らばっている、つまりこの男は、自分の姿を晒し、物乞いをしているのだ。

 物乞いの母親が、自分の子どもが将来物乞いとして憐れみを買い、少しでも多く稼げるようにと幼い内にその子の腕を切り落とす、普通に考えれば、そんな愛情なんかあるものか、と、怒りの感情すら湧き上がるだろう、だが、この頃、おれはそうは思わなかった。プリーのシメンチャロ―、どれだけ足掻いても足掻いても這い上がれない、将来の夢、それを思い浮かべることすら無意味、数千年の歴史の中で培われたこの地の土壌には、どうしようもなく、我が子の腕を切り落とさざるを得ない『愛情』が存在するのだ。

 ホテルに戻り真っ白なキャンバスに向かう。描こうと思うものは決まっていた、ヒンドゥの神々の一人、象の頭を持つ神、ガネーシャを描こうと思っていた。

 だがまだ描く気は起らないようだ。いつものようにウイスキーの小瓶を呷り、フォーサイスの『悪魔の選択・上』を手に取りベッドに横たわる。

『ペイパー、ペイパー、ペイパー、ドゥン』

 そしてまた、いつものようにトイレットペーパー売りの声が外に響く。


**************つづく

この時は、インド人でさえ、男を取り囲み見ていたくらいなので、日本人の私も、さすがに少し驚きましたが、ああ、でもインドだから…、とすぐに受け入れました。

※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。引用元のない画像はフリー画像で、本文とは関係のないイメージ画像の場合もあります。



 


 
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インド放浪 本能の空腹33 インド博物館

2021-07-05 | インド放浪 本能の空腹


30年近く前、私のインド一人旅、当時つけていた日記を元にお送りしております。

前回バブーやロメオ、K君、とともに充実した時間を過ごしたプリーを後にし、再びカルカッタ、サダルストリートへ戻ってきた、というところまででした。

つづきをどうぞ


********************************

 おれがプリーからカルカッタへ戻ってから数日が経っていた。最初に来た時の衝撃、手のない人、足のない人、指が全部溶けてなくなっている人、目がくぼんで小さな白目だけの少年、両足を根元から失い、手製のスケートボードに乗り『マネー、』と手を出してきた老人、その他多くのポン引き、そんな凄まじい衝撃、夜のサダルストリートでビビりまくり、動けなくなり、詐欺師のラームに引っかかり、15万円もの高い買い物をする羽目になった。そして逃げるようにプリーへ旅立った。
 

 相変わらずポン引きも物乞いもたくさんいる。ホテルを出てサダルストリートに出ればすぐにワラワラと数人に囲まれる。物乞いは前と変わらず、手のない人足のない人が大勢いたが、声をかけて来るポン引きは来たばかりの時とは違う類のやつらに変わっていた。

 当初は、お上りさん感丸出しのおれに寄ってくるのは『ホテルの案内』か、『高級品の買い物』といった連中が中心だったが、おれの風貌も発するオーラも、インドに旅慣れてきた空気を醸していたのか…、

Hi、Japanee、drug? ガーンチャ?(マリファナ)
Hi、Japanee、オンナ? オンナ?
Hi、Japanee、US Dollrs change? Japanese Yen change?

と、少しばかりいかがわしげな奴らばかりから声をかけられるようになっていた。

No thank you!!
 

 おれは強い口調でその一点張り、それでもつきまとってくる奴には…、

うるせーな!! しつこいぞ! あっちに行け!!

と日本語でどやしつける、そうすると大概は…、

Ooooh…

と言って去って行く。プリーでバップーのような不良と渡り合った成果だ。

『インド博物館』

 は、サダルストリートが大通りとぶつかる角にある大きな博物館だ。
 
 ある日のこと、おれはインド博物館を訪れた。この日で3度目だ。

 インド博物館はなにしろ大きい、一度には見つくせない、膨大な展示物が置いてあるのだ。インドに生息する動植物、昆虫類の化石、骨格像、はく製、ホルマリン漬け、その他古代遺跡の神々の彫刻だとか壁の装飾、絵画、だの、その物量に圧倒される。そしてそれらが決して見やすいようには展示されていない、雑然と並んでいるのだ。建設されたのは19世紀初頭、いずれにせよ、その物量は、まさに植民地時代、イギリスがこの大地でどれだけ好き勝手に振る舞っていたか、それを物語っているように思えた。

 この博物館を訪れ、もっとも『インドらしい』と思えるのは、アンモナイトの化石のようなものが、ベランダ状の廊下にゴロゴロと転がっていることだ。古い遺跡の柱のようなものも転がっている、そう、転がっているのだ、展示されされているのではない。それがいかにも『インドらしい』のだ。

インド博物館中庭

 おれはインド博物館を出て、歩く。サダルストリートとぶつかる大通りと反対側の通りは、せまいながらも大変な人、人、人、車、車、車、リクシャ、リクシャ、リクシャ、けたたましいクラクション、大音量のインド音楽、むせ返るように薫るスパイスと油を中心に、人や犬の息、車の排気ガス、それらの全てが入り混じり、ごったがえしているような通りだ。

 一件の古本屋を見つけ、中へ入る。隅の方の棚に日本語の本が数冊置いてある、日本人旅行者がおいていったのであろう。

 その中にあった3冊の文庫本を手に取る。

 サン・テグジュペリの
『夜間飛行』

 フレデリック・フォーサイスの
『悪魔の選択・上、下』

 この大都会では、プリーの時のように友達はなかなかできないだろう、こういったお供がなければ長くはいられない、おれはその3冊を買ってホテルに戻った。

 部屋に入り、バッグから油絵用の小さなキャンバスと絵具、その他、筆などの画材道具を取り出し、絵を描く準備を始める。

『油絵』

 を描いたことなど、ただの一度もないのだが。

 水彩画については、少年のころ、行きたくもなかったが、絵画教室に『通わされて』いたことはあった。ある時、その教室の子どもたちの絵を、二科展に出品するために、皆一様にダイヤル式の黒電話の絵を描かされたことがあった。同じ小学校に通う友人たちは明らかにおれよりも上手にそれを描いた。そのせいだったのか、皆が黒電話の絵を出品したのに、おれだけが野外写生の時に描いた新築アパートの絵が出品された。そして、なぜかおれのその絵が入選、賞状をもらった。

 その絵が新宿のデパートに飾られることになり、母親と近所の子供数名とその母親たち、で、ロマンスカーに乗り見に行った。このことをもって、おれに絵心があったのかどうかはわからない。

 音楽はずっとやって来たが、絵画は中学卒業後まったくやっていない、マンガ程度のものは好きでよく描いていたが、もちろん油絵などやったことがない。にもかかわらず、おれはインドへ旅立つ直前、友人の画家の卵に付き合ってもらい、最低限の画材道具を揃え、インドへ持って来ていた。

 わからない、わからない、何がそうさせたのかはわからない。

 ただ、インドを旅することで、何か漠然と、おれの内にある何か、きっと溜まって溜まって破裂しそうになっているであろう何か、それを吐き出さざるを得なくなるだろう、そんなことを考えていたかもしれない、いや、感じていたのかもしれない、やったことのない油絵、無垢だからこそ、余計なことに惑わされず、小さなキャンバスに叩きつけられるかもしれない、きっとそんな風に思っていたのだろう。

 せまい部屋で小さなキャンバスと向き合う。

『ペイパー、ペイパー、ペイパー、ドゥン』
『ペイパー、ペイパー、ペイパー、ドゥン』

 薄っぺらいドアの向こうにトイレットペーパー売りの声が響く。

 しばらくキャンバスと向き合ったが、何か描く気は起らない。

 今のところ、何も吐き出せるものはないようだ。

 おれは、角の酒屋で買ったウイスキーの小瓶を呷り、『夜間飛行』を手に取り横になる。

 何も吐き出せるものはない、それでもカルカッタへ戻り数日、おれの中で何かが変わり始めていた、だが、それにおれが気づくのはまだ先のことである。


つづく****************************

記事本文にもあるように、このころから私の中で何かが変わりはじめます。それを日記からの文章で表現し切れるかどうかわかりませんが、お付き合いいただければ幸いです。

※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。引用元のない画像はフリー画像で、本文とは関係のないイメージ画像の場合もあります。


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インド放浪 本能の空腹32 サダルストリート再び

2021-06-28 | インド放浪 本能の空腹
画像引用元 そうだ、世界に行こう インド旅行は危険!?観光時の注意点とリアルな治安状況について

30年近く前、私のインド旅行、当時つけていた日記を元にお送りしています。
前回は、長く過ごしたプリーから、インドへ来て初めて訪れた街、カルカッタ。
喧騒と混沌の極みのような街、そのパワーに圧倒され、たった二日で逃げるように、カルカッタとは真逆のような街、プリーへ旅立ち、再び戻ってきた、というところまででした

では、続きをどうぞ

************************


 駅の外はもう滅茶苦茶だった。人、人、人、車、車、車、リクシャ、リクシャ、リクシャ、けたたましいクラクション、インド音階の音楽、喧騒と混沌の極みだ、プリーとここではまさに天国と地獄だ…。

 おれは腰を落ち着けよう、と思っているホテルは決めていた。最初にここに来たとき、K君と待ち合わせ場所にしながら会うことができなかったSホテルだ。Sホテルはあのサダルストリートにある。

 サダルストリートまではタクシーで行くつもりであった。あの、人がはみ出して傾きながら走るバスに乗る気はなかった。
 しかし、タクシー乗り場を見ると、もうすでに大荷物を持った人たちで長い列ができていた。長い時間列車に揺られ疲れていたし、まして不慣れなこの街でああいう列に並ぶのは避けたかった。
 

Hi President… Taxi?
 
 一人のタクシーポン引きが声をかけて来た。

『ああ、サダルストリートまでだ』
『OK、それならば80ルピーで行ってやるけどどうだ?』

 80ルピー、日本円で400円、どれくらいボッタクられた金額なのかはわからないが、東京でタクシーに乗ればワンメーター520円だ、慣れるまでは多少金を使うのも仕方ない、おれは『OK、行ってくれ』、その条件を飲んだ。

 ポン引きの男が助手席に乗り、タクシーは走り出した。
 大河、フーグリ川を渡る。

ハウラー橋 イメージ

 世界で最も往来の多い橋だそうだ。
 ほどなくして、タクシーはサダルストリート、インド博物館脇に停まる。

 助手席のポン引きが後ろを向いて言う。

『80ルピーだ』

 これは駅で乗る前に、口頭とは言え成立した契約だ、当然おれに払う義務がある、だが、実際のメーターはその10分の1、8ルピーだ、この先この街にしばらくいようと思ったら少しおれも強くならなくてはいけない、試しにおれは言ってみた。

『メーターは8ルピーじゃないか…』
ア゛!? 何を言ってるんだ! お前は駅で80ルピーでOKと言った!』
『そうだけど…、まさか10倍とは思わなかった…』
『10倍だろうが何だろうが、お前は80ルピーでOKと言った!』

 しばらく押し問答を続けたが、ポン引きの顏が怒りに満ち、今にもとびかかってきそうな様子になったので止めにした。これはおれが全面的に悪いのだ、そもそもおれは払う気でいるのだから。

 おれは財布からガンディーの肖像入りの100ルピー札を取り出し

『釣りはいらない』

 そう言って金を払い車を降りた。すぐにポン引きと物乞いが寄ってくる。だが、おれはあの日のおれではない、毅然として歩を進める。堂々と地図を出して。

 インド博物館の壁を右手にサダルストリートを歩く、少し行って右に折れ路地に入る、路地は相変わらずゴミだらけだ、地面も黒くおおわれている、泥なのか埃なのか、良くわからないが何かが積って湿ってぬかるんでいる。

 Sホテルはその路地から更に奥まった路地の奥にあった。一度、ラームに連れて来てもらっている。

 Sホテルへの路地の入口に、湿った泥だか埃だかにまみれ、一匹の猫が半目を開いたまま死んで横たわっている。日本であれば、保健所やら役所やら、電話一本で片付けに来てくれるであろう、だが、ここはインド、しかもカルカッタだ。

 Sホテルには、ひとまず一週間分の金を払い、フロント、と言っても机が出ているだけだが、そのフロントのすぐ左手にある部屋へ通され、カギを受け取った。
 プリーで滞在した、バブーの伯父の経営するホテルに比べれば、ホテルの外観も汚いし、部屋は、汚くはなかったが、まあ狭い。シャワー、トイレを除いたプライベートスペースは畳三帖ほどだろうか、まあそれでもこの辺りの安宿の中ではいい方だ。
 おれは夜行列車の疲れもあり、荷物を乱暴に床に投げると、そのままベッドに横になり、静かに眠りに落ちた。



つづく***************

いよいよ地獄のような街、カルカッタ到着です。このあとしばらくこの街にいます。
ここではだれか友達ができる、ようなことはありませんでしたが、色々な衝撃を受けます。
次回以降で少しずつご紹介して参ります。
※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。それ以外の「イメージ」としている画像はフリー画像で、あくまでも自分の記憶に近いイメージであり、場所も撮影時期も無関係です。

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インド放浪 本能の空腹31 カルカッタ!!

2021-06-03 | インド放浪 本能の空腹

画像引用元 そうだ、世界に行こう。バックパッカーの登竜門!インドの寝台列車あるある10選

30年近く前の私のインド一人旅
その時につけていた日記を元にお送りいたしております

長く滞在し、とてもゆっくりと過ごした美しい海のある街、プリー、をいよいよ後にし、『都市文明化の失敗作の街』と謳われるカルカッタへ向けて旅立った、というところまででした

では、続きをどうぞ


***********************

 インドのどこか海辺の小さな街、それはどことも決めず、行き当たりばったりで気に入った街があれば、そこに長く滞在し、住民のようになって過ごしたい、おれは3年間のサラリーマン生活をしていた間、漠然とそんなことを思い描いていた。
 その街で友達を作り、街を歩けば顔見知りとあいさつを交わす、できれば自転車も買いたい、それに乗って街を走りたい、そしてその街を去る時、自転車を貧しい子供に譲りたい、そんなことも考えていた。
 自転車のことを除けば、他のことは全てかなった、それはつまりおれのインド旅行の目的を達した、ということだ、さらに言えばもう日本に帰っても良いのだ。それくらいにプリーで過ごした日々は充実していた。

 だが、それはインドと言う国の片一方しか見ていない、あの喧騒と混沌の極みのような街、カルカッタ、凄まじい数のポン引き、手のない人、足のない人、目がつぶれたようになっている人、両足が無く、上半身だけで手製のスケートボードに乗ってやって来た老人、指が全て溶けて無くなっている人、そんな物乞いがひしめく街、カルカッタ、ゴミだらけの街、カルカッタ、プリーとは真逆の、もう一方のインドの象徴のような街、カルカッタ、おれはその街にただただ圧倒され、ビビりまくり、逃げるようにプリーへ旅立った。詐欺で15万円もボッタクられた上で…。

 カルカッタでどれだけの時間をすごそうか、それは決めていなかった。ただ、あの街で、普通に、日常を過ごせるようになるまで、もう十分だ、そう思えるまではいようと思っていた。


『コヘイジ、なんで一等車でカルカッタへ行くんだ?』

 プリーを旅立つ直前、ロメオがそう言った。金がもったいない、ということだ。ガイドブックにも、インドの列車の旅は二等が良い、ごく普通のインド人と触れ合える、などと出ていた。
 だが、プリーに向かう時乗った二等車、まるでラッシュアワー並みのぎゅうぎゅう詰めの座席、そこで押し合いへし合い窮屈な格好で何とか寝るスペースを確保し、そのままの姿勢で夜の闇を走る列車に随分と長い時間揺られた、もうこりごりだったのだ。『インド人と触れ合える』、いや、『肌まで触れ合える』、そんなのはまっぴらごめんだったのだ。もはやトラウマだ。金がもったいない、と言っても、同じ距離を日本で新幹線に乗れば10倍はするだろう、ケチる理由はなかった。

 一等車は快適だった。一度だけ大男が乗って来たが、すぐに降りた。その時以外はずっと広い空間を独り占めできた。インドの列車旅行は『一等に限る』、そう思った。

『さ、さ、寒い…』

 どこか、高地に入ったのだろうか、プリーでは半そで一枚で全く問題なかったが、車内は突然震えるほどに寒くなった。おれは、カルカッタで、詐欺師『ラーム』と友達になった証の物々交換で、お気に入りの春物ハーフコートと交換した『ナイロン』糸があちこちからむき出しになっている、ラーム曰く『カシミヤのセーター』、をバッグから取り出した。サイズも合わず、ピチピチキツキツのセーターを着る、気のせい、と言われれば否定はできない程度に少しばかり体が温まる。

 やがて列車は高地を抜けたのか、寒さが和らいでいく。それに合わせおれも眠りに就く。

 気づけば朝になっていた。インドの列車の車窓はとにかく緑だ。密林のようなところ、湿地のようなところ、赤茶けた荒涼とした地面が広がる時もあるが、基本的には瑞々しい緑だ。


画像引用元 そうだ、世界に行こう。バックパッカーの登竜門!インドの寝台列車あるある10選

 しばらく走ると、やがてその緑が消えて行く。煤けて朽ち果てそうな建物が徐々に増えていく。さらに走ると、煤けたビルの密集度も増し、線路が幅広く扇状に何本もにも広がり、明らかに大きなターミナル駅が近づいてきたことがわかる。



 遂に戻ってきてしまった。

 おれは気を引き締めて列車を降り、駅の外へ出る。けたたましく鳴り響く車やオートリクシャのクラクション。

 人、人、人、車、車、車、リクシャ、リクシャ、リクシャ!!

 人がはみ出すほどにつめ込まれ、傾きながら走るバス、たちまちおれはその喧騒と混沌に引き摺り込まれていく。

 だが、おれはもうあの時のおれではない!

 『カルカッタ!!!』

 さあ、いざ行かん!!


************************************つづく

カルカッタ、まあ、すごい街でした。日本人旅行者が、やって来たはいいけど、ホテルから一歩も外へ出られなかった、などということが良くある、とガイドブックには出ていました。インドを旅するならば、いきなりカルカッタではなく、まずは少しでもヨーロッパナイズされたデリーから入った方が衝撃が少ない、とも。どんな衝撃が待ち受けているか、次回から少しずつご紹介して参ります。
※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。それ以外の「イメージ」としている画像はフリー画像で、あくまでも自分の記憶に近いイメージであり、場所も撮影時期も無関係です。



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