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女児死亡 アンケートを父親に 市への抗議など800件余
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190202/k10011800591000.html
なんと痛ましい事件でしょうか
まずは亡くなった心愛ちゃんのご冥福を心よりお祈りします
安らかでありますように…
これからは安心して天国でいっぱい遊んでください…
小平次は妻とこの事件の報道を見て思わず泣きました
どれほど辛かったろう、怖かったろう…
どうして自分よりはるかに弱いものに対し、こんな仕打ちができるのだろう…
そのひどい虐待が事実ならば、この父親は即刻死刑にすべきだとも思いました
同時に女の子のSOSであったアンケート用紙を、虐待していた張本人である父親に渡した野田市教育委員会に対し、怒りの気持ちを抑えることができませんでした
多くの人たちもそうだったのでしょう
だから抗議の声がこれほどに野田市教委へよせられているのでしょう
報道番組などでも
『なぜ、事件を未然に防げなかったのか』
などと、野田市教委の対応の拙さについて取り上げているものを多く見かけます
これまでもこういった事が起きると、警察、教師、児童相談所等の対応に
『なぜ…』
と、報道も私たちも問うてきたのではないでしょうか
にもかかわらず、そういった反省は生かされることもなく、こういった事件そのものもそうですし、役所や警察の拙い対応が指摘されるケースは一向に減りません
ちょっと考えてみたいと思います
もし、自分がこの市教委の職員であったらどういった対応ができたであろうか
妻と話し合ってみました(妻は、地域の乳幼児から高齢者まで全年齢対応の福祉施設で仕事をしています)
仕事である無しを問わず、子供を守ることは大人の務めであり、それを信念として自覚していられたならば、決してこの父親にアンケート用紙を渡したりはしなかったと思います
しかしながら、渡さなかったら渡さなかったでこの男は、『何を書いたのだ!』と心愛ちゃんに詰め寄ったかもしれません
であれば、SOSを確認した時点で別な対応をしただろうと思います
これは何も小平次だったらこんなことにはさせなかった、などと偉そうなことが言いたいのではありません
世のほとんどの人は、自分だったらアンケートを渡さなかった、別な対応を急いだ、そう考えるのではないでしょうか
それがごく普通の、人として当たり前の考えであるからこそ、これほど抗議の声が上がっているのでしょう
ではなぜ、野田市教委の職員は渡してしまったのでしょう
だれもがそう思う『ごく普通』の対応がなぜできなかったのでしょう
『恫喝されて怖かった』
というようなことを言っていたそうですが、それはそれで本当なのかも知れません
ですが、この職員、中学校の校長まで務めたことがあるそうです
そうであれば、従来から子供を守ることに信念も覚悟もあった人でしょう
でも渡してしまった
なぜなんでしょう
もう一つ疑問
この父親の恫喝の現場に、他の職員や監督責任のある人はだれもいなかったんでしょうか
密室で恫喝されたんでもなければ、誰かしらそこにいたのではないでしょうか
誰かいたのだとすれば、野田市教委は組織だって今回のことを見過ごしてしまったことになります
そろいもそろってこの父親に恐怖を感じたってことになります
それは尋常なことではありません
この父親の顔の画像はニュースなどで出回ってましたが、どうですか、怖いと思いましたかこの男
思うに、この職員が怖かったのは、父親ではなく、間違った対応をした時の『周りの反応』、だったのではないでしょうか
今の世の中、なにかことあるごとに『人権屋』が『人権がー!人権がー!』と騒ぎ立て、多少理不尽だってなんだって、日本の風土に合わなくたって、声のデカい人権屋の意見がまかり通り、警察はじめ教育の現場なんかを委縮させてしまっている
下手なことすれば『人権がー!人権がー!』と騒ぎ立てられる
教育の現場なんて、ちょっとしたことで我が子だけ良ければいいみたいな親が学校まで乗り込んでくる、対応一つ間違えればマスコミまで出てきて騒ぎ立てる
単純ないじめ一つ、対応一つ間違えれば、いじめる側の子供の『人権がー!』って大騒ぎになる
こんなことが繰り返されるうち、警察も教育現場も、『とりあえずその場が収まればいい』って、『何事もなかった』って、ことになるべくしたい、そんな『事なかれ主義』に陥っていく
それが結果、いじめに遭った子供の自殺などにつながっていく
野田市教育委員会は、組織として『事なかれ主義』に陥っていた
何かにつけ面倒なことにならないようにすることが最優先、そんな空気が組織全体に蔓延していた
面倒を避けることが最優先となり、子供の命に危険が及ぶことに対する想像力すら失っていた
この父親、最初にアンケートを見せろって、学校に行ったそうです
学校側は、個人情報の保護を盾に『本人の同意なくてはたとえ親でもわたすわけにはいかない』と拒否したそうです
その後父親が、今度は教育委員会へ『本人の同意をとった』とする書類をもって訪れ、『一時保護といって子どもを引き離された者の気持ちがわかるか!』と恫喝したそうです
おそらく、このたびの担当職員は、子供の命の危険よりも、同意をとったとする父親の恫喝に対し『渡さないと法的にマズイのだろうか、それでも拒否したらどうなるのだろうか、保護者の人権はどうなるのだ、とかまた騒がれるのだろうか…、』といったことに心を奪われ、もはや冷静な判断もできず、どうしていいかわからなくなってしまったのかもしれません
その後の対応を見ても、報告などを怠り、事を曖昧、うやむやにしようとしたようにも見え、やはり事なかれ主義が蔓延していたと感じるわけです
それでも、もちろん庇うつもりは毛頭ありませんが、時に教育の現場っていうのは『人権屋』と、本来あるべき教育の姿勢との狭間にある矛盾で、それだけ追い込まれているのかもしれません
『責任は自分がとる!』と、法律も何もへったくれもなく、覚悟を決めて拒否してほしかったとは思いますが…
こういったことっていうのは、もはや今回の野田市教育委員会の問題だけではないと思うのです
無責任、無関心、事なかれは日本中に蔓延しているように見えます
今回の事件、ご近所ではどうも虐待らしきことが起きているっていうことには気づいていたみたいです
で、ここで小平次自身も自戒の念をこめて、再び考えたいと思います
『自分がそのご近所の住人だったらどうしたか』
面倒なことには巻き込まれたくない、と知らぬふりをしなかったか
今回の野田市教委の対応に怒りを覚え、抗議の声を上げている人たちは、小平次自身も含め、そのことを自身に問うて見なくてはならないと思います
『教育委員会は子供を守るのが仕事だろう…、我々とは違う…、』 そんなことは関係ありません
こういう世の中を作っているのは私たち自身であるからです
昨今、我々は何でもかんでも行政にやってもらうのが当たり前、みたいな風潮に陥ってませんか
本来自分たちでやるべきだったことまでが行政がやるのが当たり前、そして、それができなければ抗議の嵐
そんな風潮になっているように見えます
一方で行政等に対し、もはや反権力的観点から『人権を守れ』と騒ぎ立て、それが行き過ぎたものであっても護られるのが当然という風潮になり、反権力を謳うもう一方でその権力に何もかもやってもらおうとする、それが行き届かなければまた騒ぎ立てる
保育所や児童相談所の建設を巡って住民が対立、自分たちの生活を守るとだけに腐心し、地域の事、日本の子供たちの将来の事なんてなにも考えずに、冷静に話し合うことも譲り合うこともせず、ひたすら役所や警察に向かってわめき散らす
確かに、役所や警察の対応がひどいと思うこともあります
今回の野田市教委の対応なんてやはり怒りしか湧いてきません
ですが、我々一人一人、何もかも行政がやるのが当たり前だと考える前に
自分の子供だけ良ければよいと考える前に
時に行政と連携し
地域のことは地域で守る
後生に恥じることない世の中を残すことを目指す
そして何より
『一人の子供の命を守るのは、全ての大人の責任である』
そう自覚しない限りは、この度のような悲しい事件はなくならないと思うのです
つい四、五十年前までは、日本中にそういう空気が残っていたように思います
小平次が今住む東京下町では、今だに、人んちの子だろうが、悪いことすれば叱ってやれる大人がまだまだ残っておりますが、それも徐々に変わり、互いに無関心な住民が増えつつあるように感じております
私たちは生きている間に何度かは、自分のことを差し置いてでも勇気を奮い立たせ行動しなくてはならない時もある、そう思っております