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30年前、私がインドを一人旅した時につけていた日記をもとにお送りしています。前回、マザーテレサの病院、『死を待つ人々の家』の前まで行きながら何もできず、自分の無力さ、弱さに打ちのめされ、危なくこの街に同化しそうになる自分に気づき、日本に帰る決心をした、というところまででした。
では、続きをどうぞ
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Biman Bangladesh Airlinesのカルカッタオフィスは、インド博物館と同じ大通りに面し、博物館からはほど近いところにあった。
せまいオフィスの中は、そこそこ混雑していた。特に、予約カウンターの前には数人の男たちが、カウンターを乗り越えんばかりに詰め寄り、時折大声を出すヤツがいたりと騒がしかった。
長いインド一人旅でわかっていることがあった。おれが、あのカウンターに詰め寄る男たちの群れの後ろに普通に並んだとしても、永遠におれの予約は取れない、ということだ。
インド人は、おれの知る限りこういった場所で並ぶ、ということをしない。ああやって皆で詰め寄り、それぞれが用件を告げ、自分の手続きを我先にやらせようとするのだ。だからおれが日本に帰るためには、あの群れの中に多少でも割って入り、カウンターの向こうにいるであろう係の者に自分の存在を知らせ、用件を聞いてもらわねばならないのだ。
おれは、群れの背後から忍び寄り、少しずつ中へ割って入る。だが中々進まない。群れの先頭の誰かが自分の予約を済ませ群れから離れるタイミングを見て少しでも中へ進む、この間、おれが少しでも油断をして前のやつとの間に隙間などを作れば、たちまちその間に誰かが割って入ってくる、おれの背後も無論同様だ。皆で体を密着させ、隙あらば自分の予約を告げようと押し合いへし合いをしているのだ。
密着状態のまま、一時間ほどでようやくカウンターの向こうに座る係の男の顔を確認できるところまで進んだ。
カウンターの男は、この辺りの国々、インドやバングラディシュ、パキスタンやネパールの人間らしい、浅黒い肌の色であったが、顔立ちはどことなく『ハリソン・フォード』に似ていた。インド人は、肌の色を除けば顔立ちは白人に近いヤツも多いのだ。
おれは何とか自分の用を告げようと、1年オープンのチケットを掲げ
『今週の、成田行きの便に乗りたい!』
と、ハリソン・フォードに何度か言ってみたが無視された。
『今週の、成田行きの便に乗りたい!』
『今週の、成田行きの便に乗りたい!』
繰り返し言っていると、ようやくハリソン・フォードがおれに目を向けた。だが、返事はこうだ。
『順番だ』
は? この無秩序な群れに順番があるのか!
さらに一時間が経ち、ようやくハリソン・フォードがおれにチケットを見せろ、という仕草をした。そして、でかいコンピューターの画面を見ながら、ゆっくりとキーボードを叩き、そして言った。
『満席だ』
… … … ここへ来てすでに3時間以上が経過、その間ずっとスパイシーな香りのする男たちと体を密着させていた… … どっと疲労感に襲われた。
『では、来週の便を予約したい…』
ハリソン・フォードはまたゆっくりとキーボードを叩き、そして言った。
『来週の便も満席だ』
… … …
『では、キャンセル待ちをしたい』
『明日また来い』
Biman Bangladesh Airlinesの『ダッカ⇔成田』便は、毎週金曜日、週に1便しか飛んでいない、今週がだめなら一週間待つことになる、その来週の便も取れなければ…。
おれはこのチケットを手配してくれた、親友Tの彼女で、旅行会社に勤めるNちゃんの言葉を思い出した。
『小平次さん、小平次さんなら大丈夫だと思うんですけど、
Biman Bangladesh Airlinesは、安いんですけど、その分ちょっとルーズで、それこそ、普通にやっているとチケットが取れなかったりするので、帰ろう、と思ったら、家族が病気だ、くらいのことを言って取って下さいね…』
おれはその時、今一つ、Nちゃんの言葉にピンと来なかったが、今目の前で起きていることがそうなのか?
今日は火曜日、明後日のカルカッタ➡ダッカ便に乗り、ダッカで1泊、早ければ4日後には日本だ、そういうつもりで来ていたので、おれの脱力感は相当なものであった。
翌日、午後、おれはまたオフィスを訪れる、同じように群れに入り2時間、ようやくおれの番だ、だが返事は…
『空席は出ていない』
脱力、酷い脱力…
もはや今週の便は間に合わない、来週の便にかける、翌日、おれはオフィスのオープン30分前に行き、締まっているシャッターの前に立ち身構えた。他にも数人が同じようにシャッターが開くのを待っている。
ガラガラとシャッターが開く、一斉に数人の男たちが中へ走る、何人かに押しのけられ、後手を踏んだがどうにか先頭集団でカウンターに張り付いた。
おれの順番まで1時間ほどがかかった。ようやくおれの番になり、おれはハリソン・フォードに、キャンセル待ちと併せて最短で取れる便の予約を頼んだ。
ハリソン・フォードはいつも通りゆっくりとキーボードを叩く、そして暫く無言、この間約30分、そしてようやく口を開き言った。
『
Computer、system down』
はあああああ!!!??
なんだなんだなんだ、なんだこの事態は!ここに通い3日目、満員電車のように男たちと体を密着させ待たされた時間は一体どれほどだ!
『
Computer、system down』
のまま、待たされること2時間、この間、自分の順番を飛ばされたりしないように、皆で仲良く体を密着させたままである…。普通に整列して並べばお互いこんなつらい思いをしなくて済むし、その方がきっと早いだろうに…
さらに1時間が経過し、ようやく奥から上席のような男が出て来たと思ったら、言った言葉はこうだ。
『本日は復旧しない、みんな明日また来てくれ』
おおおおおおおおおおおおおおおおおお、
『おい!』
あしらわれるように皆オフィスから追い出された。
なんてことだ、おれ、帰れるのか?
翌日、おれは前日同様、オープン前にシャッター前に立つ、シャッターが開くと同時にオフィス内に駆け込む、うまく先頭に立ち、真っ先にカウンターに張り付いた。
ゆっくりとハリソン・フォードと女性職員が談笑しながら奥から出て来る、ハリソン・フォードは小脇に何か大きな箱を抱えている、箱にはオモチャの飛行機が描かれている、女性職員との会話を聞いていると、どうやらハリソン・フォードは間もなく休暇でダッカへ帰るらしい、飛行機のオモチャは子供へのお土産らしい…、 こっちの気も知らないで、のんきな奴だ、日本へ帰ろう! そう決意したら、1分1秒でも早く帰りたい、にもかかわらず帰るに帰れない、なんともどかしいことか!
幸いこの日、ハリソン・フォードは一番におれに声を掛けてくれた。おれは引き続き来週のキャンセル待ちと最短で取れる便の予約を頼んだ。
ハリソン・フォードがキーボードを叩く…
『頼む! 頼む! キャンセル! 出て!!』
待つこと30分、ハリソン・フォードが口を開く。
『
Computer、system down』
おれはその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。そして相変わらず密着満員電車状態で3時間、やがて昼になった。一人、二人、群れから離れる、おれもカウンターから離れる、カウンターからは離れても外へ出るわけにはいかない、腹が減ったからと外へ出てしまって、その間にコンピューターが復旧したら、また群れができて1からやり直さなければならなくなる、だからこのオフィスを出るわけには行かないのだ。
『
Computer、system down』
のまま、15時、諦めて脱落する者がちらほらと帰り始める、おれはひたすら待つ、待つ 待つ。だがやがて17時、閉店の時刻だ。残っているのはおれともう1人、2人だけだ
奥から上席の男がまた出て来る、そして非情にもこう言った。
『今日はもう閉店の時間だ、来週また来てくれ』
おれの頭にNちゃんの言葉が浮かぶ…。
おれは椅子から立ち上がり、その上席の男に向かって言った。
『ハイ、ミスター、ボクはもう4日もここへ来ている、でもチケットが取れない、ボクの
vacationはもう終わる、来週の便に乗れなければ会社をクビになる、何とかして欲しい 』
上席の男はおれの顔を見つめ言った。
『オープンチケットとパスポートを見せろ』
男は、おれからそれを受け取ると奥へ消えた。いったいどうなるのだろう… 10分程で男が戻る、そして言った。
『来週の便が取れた、これがチケットだ、予約の
reconfirmは必要ない、良かったな!』
… … …
なんだなんだなんだ… なんなんだ! この4日間の苦行は一体何だったんだ!? やればできるじゃないか! 満席だ、と言っていたじゃないか! 始めからボロコンピューターなんか使わず手作業でやっていればできたんじゃないのか!
ともあれ… 来週末、おれは日本の地を踏んでいる。 良かった。
**************************つづく
色々なことがあって、それから帰る決断をしましたので、そう思ったらいてもたってもいられず、一刻も早く日本へ帰りたい、そんな思いの中でのこの4日間、本当に辛かったですね。数年掛かりで書いてきたこの日記もいよいよ終わりです。後2回かな、最後まで是非お付き合いの程、宜しくお願いします。