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『ユキとかぶとむし』
初夏、と言うには強めの陽射しが、カーテンの隙間をすり抜けてから少しだけやさしさを取り戻し、左の頬を枕にうずめて眠っていたユキの右の頬をおだやかに撫でていた。そんな陽射しに呼び覚まされゆっくりと目を開けたユキは、窓ガラスに映る見覚えのない黒い染みを見つけ、左の頬を枕にうずめたまま、夢心地の余韻の中、しばらくそれを見つめていた。
(なんだろう…、)
昨日までは間違いなくそこにはなかった黒い染み、それでもさほど気にするでもなく、まんじりとそれを見つめていたユキであったが、ある瞬間、飛び上がるように上半身を起こし、じっと目を凝らした。視線は黒い染みに向けたまま、左手は枕元の眼鏡を探した。左手が眼鏡を探し当てると、急いでそれを掛けてからベッドを降り、そっと窓に近づいた。
(動いた…? 虫…?)
染み、と思っていたものが、確かに動いたように見えたのだ。それが虫なのであれば、かなり大きな虫だ。 ユキはロックをはずし、おそるおそるかすみ模様の窓を開いた。
網戸にあった黒い染みは、やはり虫のようであった。
(かぶとむし…?)
その身体の裏側からでも、立派な『つの』を備えているのが見えた。
ユキはとっさに今日が何月何日であるかを思い起こそうとした。
(五月三十日…、)
子どものころでさえも、もちろん女の子であったこともあるが、ユキがかぶとむしなどに興味を魅かれていた時間など、決して長くはなかった。弟が捕まえてきたかぶとむしを、腐葉土を敷いた水槽に入れ、一緒に真綿に染み込ませた砂糖水を吸わせたりしたこともあったが、特別その生態に興味があったわけでもなければ、詳しいわけでもなかった。それでも、今、かぶとむしがここにいるのはあまりに早い、ということぐらいはユキにもわかった。
ユキは静かに、少しだけ網戸を開け、そっと外から手を伸ばし、網戸にしがみつくかぶとむしの短い方のつのをつまんだ。それからできるだけやさしく、網戸からかぶとむしを引き離そうと引っ張ってみた。かぶとむしの方はなんとか連れ去られまいとして鉤爪を網目に引っかけ、それぞれの足をピンと伸ばして抵抗していたが、やがて観念して網戸から離れた。 かぶとむしの六本の足が、それぞれに生命がやどっているかのような複雑な動きを見せユキの手で暴れていた。
(ちょっと前なら、こんなの、絶対にさわれなかった…、)
思いもしなかった自分の行動に少し驚きながらも、ユキはそのままキッチンに向かい、毎朝、手作りの野菜ジュースを飲むときに使う丸い大きめのグラスを手に取った。そしてそのグラスにそっとかぶとむしを入れ、下に敷くはずだったコースターを上にかぶせた。それから冷蔵庫を開け、オレンジ色の液体が入ったグラスポットを取りだし、かぶとむしを入れたものよりはちょっと小さめのグラスにたっぷりと注いだ。
右手にかぶとむし、左手に手作り野菜ジュース、ユキはリビングへ移り、静かにテーブルの上に二つのグラスを置いた。今日は一日、それを聞きながら本を読んで過ごそうと思い、前の晩からデッキにセットしておいた、自分のお気に入りのJAZZばかりを集めたCDを回した。
最初に流れたのは、John・Coltraneの“Giant・Steps”、艶やかなサックスの音色を聴きながら、ユキは立ったままジュースを少し口に含み、丸みをおびたラタン椅子を引いて浅く腰かけた。両腕をテーブルの上に伏せるように置き、その腕を枕にして左の頬を乗せ、グラスの中でシャカシャカと足を滑らせているかぶとむしを、しばらくの間眺めた。
(こんなに早く土の中から出てきてしまったのに…、キミはとても元気だね…、でも、仲間たちが恋に落ちる真夏の日まで、元気でいられるの…?、)
リビングに流れる曲はMiles・Davisの“My・funny・valentine”に変わっていた。Valentineとは言いながら、マイルスの狂おしく陶酔的なトランペットは、この季節にとても心地よい、ユキは常々そう思っていた。
ユキは顔を上げ、またすこしだけジュースを口に含んでから立ち上がり、部屋の窓を思い切り開けた。
(そうだ、今日は読書はやめにして、駅前のホームセンターで水槽を買ってこよう、あ、園芸用品売り場で、土も買ってこよう…、)
開け放たれた窓から、夏になりかけた若い風が舞い込み、先週切ったばかりのユキの髪をさらりと跳ね上げた。