岡田さんのYOUTUBEでの
「教育エンタメトーク」?をみた。
かなり、ためになり、「イギリス 教育」でアマゾンで
検索して、刈谷先生の本を購入。
岡田さんいわく、
ヨーロッパの19世紀ごろの教育は、家業をつぐ
ために、『家内』で行われていた、と。
しかし、家業をつぐ人が減ってきたので(産業革命の影響か?)
家内で教育を行われていたのが、「外部化」されて、公教育がうまれた、と。
(しかし、外部化には相当反発もあったらしい)
日本も、ヨーロッパの影響があったのだろうが、教育が外部化されると、
家の中での「しつけ」までも、外に押し付けるようになってしまっている、と。
すると、教育する以前に、「椅子に座って、黙って聞いてもらうことすら、困難」
になって、「教育」できない状態になってしまう。
いきなり飛ぶが、現状、「本当に、心の底から、座学で勉強したい人って、
何人いるのだろうか?」
「本当に、心の底から、高等教育を受けたいと本人も思っていたのだろうか?
そして、周りも、高等教育を受けさせたいと思っているのだろうか?」
自分自身を振り返っても、「みんなが行くから」ぐらいしか動機がなかったし、
高校時代・大学時代に出会ったヒトの大半も、そのような感じだった。
結論:ミスマッチは、どのタイミングで判断すべきか?
そして、ミスマッチは、何が原因なのか?
ミスマッチは、大きな構造上の問題ではないか?