11月14日、朝日新聞・土曜日版beから
(歴史のダイヤグラム)起点は日本橋から東京駅へ 原武史(政治学者)
東京都中央区にある日本橋が架けられたのは、徳川家康が江戸に幕府を開いたのと同じ
慶長8(1603)年とされている。翌年には早くも幕府直轄の主要な五街道の起点として
定められ、沿道に日本橋からの距離を示す一里塚が築かれた。
つまり江戸時代には、日本橋を中心とした全国的な交通システムがすでに確立されていた
わけだ。この点で日本橋という名称は象徴的だった。文政9(1826)年に江戸に参府
したドイツ人医師のシーボルトは、「日本という大きな島国では距離はみな日本橋という
江戸の大きな橋から測る」(『江戸参府紀行』)と述べている。
しかし将軍が江戸城の外に出ることはあっても、日本橋を渡ることはなかった。人々の
往来が激しいこの橋を避けたというのが主な理由だが、別の理由も考えられる。武蔵野台地
の東端に当たる地形を利用して建てられた江戸城は、標高が周囲より高く、濠の外側から
本丸御殿などが見えたはずだ。将軍にとって、全国の中心は日本橋ではなく江戸城本丸で
なければならなかった。日本橋はやや離れており、将軍がわざわざ渡る必要はなかったのだ。
幕末には本丸御殿と二の丸御殿がともに焼失した。明治天皇は明治元(1868)年10月、
東海道を経由して西の丸御殿に入ったが、このときはわざわざ日本橋の南詰を左折している。
江戸城の中心性が失われたのに伴い、日本橋が本来もっていた中心性が浮上したのだ。この
迂回ルートをとることで、支配者の交代が印象づけられた。
だが明治以降、街道に代わって鉄道が発達する。当初は官設鉄道の新橋のほか、日本鉄道
の上野や甲武鉄道の新宿(後に飯田町)など、ターミナルが分かれていた。第8代東京府
知事となった芳川顕正は市区改正意見書のなかで、新橋や上野に代わる中央停車場の設置を
唱えた。中央停車場は日本橋とは異なり、旧江戸城西の丸に建つ皇居(明治宮殿)と道路を
通してつながることで、天皇のための駅として位置付けられた。
日本橋
道路の中央に道路元標
日本国道路元標、車の通行量が多いので注意して撮影
日本橋北詰にある元標の広場
広場の中央に
道路元標の複製がある
正月の恒例行事「箱根駅伝」のスタート直後、ゴール近くに日本橋を通る。
いつも道路元標が映らないか気になっている。