(2023年4月23日)万葉の古代、人は夜には出歩かない。夜に訪問する風習なり儀礼を庶民は持たない。あえて語れば夜の合戦が中世絵巻物に伝わるが、庶民とは別の事情。唯一の例外が「妻問い」。
闇夜に人は野を渡れない。月夜には足元が見えるから通い慣れた道ならば、邑落の目指す一屋に辿り着ける。男も女も月を読み逢瀬の頼りの月明かり待つ。月読みは色恋の習いでした。
♪照る月を闇に見なして泣く涙
衣濡らしつ干す人なしに♪(同690)
拙訳:月が照っている、妻問いには最高の明かりなのに私には人が通わぬ闇の夜。何故って、かのお方はやってこない、涙で濡れた衣を乾かすあの方はもう来ないのよ。
蝋燭灯した提灯が足元を照らせば闇夜も安心、これは正しい。
万葉の古代は夜の明かりは蜜蝋である。国内生産はなく唐宋からの輸入頼りで高価であった。皇室付属の主殿寮が管理する舶来物として「燈、燭」などの記載が残る。この燭とは蝋燭だった(Wikipedia仕入れ)。ハゼ木から蝋を採取したと聞くがそれは江戸中期以降、そのハゼ蝋にしても、高価だったと聞く。松明。篝火に適した生松枝を手に入れた処で、松明をめらめら焚いて妻問いをかける無作法者はいません。そんな妻問いしたら断られてしまう。
高貴諸雑を問わず妻問いは灯りなし、人に知られず月夜に通うが作法です。
舶来の蜜蝋ロウソク端超高価、江戸初期から普及したハゼ蝋のロウソクは光芒も大きく実用に耐えるが、こちらも高価(写真はネットから)
古事記に起源が記述されている。
>美しい乙女活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに夜になるとたいそう麗しい若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、どれほども経たないうちに姫は身ごもります。姫の両親は素性のわからない若者を不審に思い、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺せと教えます。翌朝になると糸は鍵穴を出て、後に残っていた糸巻きは三勾(みわ)だけでした。糸を辿ってゆくと三輪山にたどり着きました。これによって若者の正体大物主大神であり<
(大神神社HPから転載)神社縁起は妻問いでした)
それでも月夜は巡る ;
十八夜:居待ち。闇は昨夜よりは長いから立つままは疲れる、門脇から先に出て道端石に腰掛ける。月が無いうちには来ないと知るが、ここで待てば来る人の急ぐ影が真っ先に分かる。
十九夜:寝待ち、臥しても寝ずに待つ。外に出たとて長待ちになるから気が急くだけ、布団にくるまるか。「寝待の月の山の端出ずるほどに男のいでむとする気色あり」(かげろふ日記、岩波古語辞典から)この夜の月の出は十一時近く(兵庫県、4月)男が月の出を待ち望んで出立する様をまさに綴ってある、わざわざ「男の」とあるから目的は女、妻問いと決まっている。
二十夜:更け待ち、夜が更けた。待ちくたびれて寝入ってしまい、夜更けにはね起きたけれど、まだ月は出ていない。これが20夜の辛い更け待ち。
一方、さらなる疑問が湧く、
「月の出は天体現象、前もって今夜は何時にと予測出来る。一夜で一時間ほどのズレ、昨夜の月の出の時間から、今夜の出を類推できる。古代人だって天文現象に気付いているから、日没から幾時間の後とすればどっしり構えて、時を待つ。うろつき、立ち歩きやふて寝、居直りは考えられない」。
定時法時間に浸かった現代人の感想であろう。
古代から江戸時代まで、日本では不定時法が生活に根ざしていた。夕を暮れ六(ムツ)、明けを暁(あけ)六として、昼夜を六等分していた。春分秋分であれば昼夜は均等。冬は夜の刻(トキ)が長く昼のそれは短い。夏は正反対である。
江戸中期には一日を十二等分(二十四等分)する定時法も併用されていたとも聞くが、天文方など絶対時間を必要とする機関での利用と推察する。そもそも定時法の基準となる時計など日本中、誰も持ち合わせていない、和時計なるは刻(トキ)、すなわち不定時を刻む特殊な時計である。時間を刻と書くこちらが相対時間を表す。今のヒトが慣れている定時法の「時」と区別した。
(不定時法の用語は江戸期に確定したとネットで知る。古代に人々がどのように刻を刻んで、呼んでいたか、不定時法ではあろうが部族民には、不明。定時法への移行を命ずる太政官令が発布されたのは明治6年、1873年)
昔の人は刻の長さに見当をつけられるであろうが、それと時間、待ちの絶対時間、の概念はない。計ろうとも計れない。何時に月が出てくるか、夜空の闇の濃淡で読むしか無い。
妻問いは月を読む、万葉集に探る色恋 中の了(4月23日)
闇夜に人は野を渡れない。月夜には足元が見えるから通い慣れた道ならば、邑落の目指す一屋に辿り着ける。男も女も月を読み逢瀬の頼りの月明かり待つ。月読みは色恋の習いでした。
♪照る月を闇に見なして泣く涙
衣濡らしつ干す人なしに♪(同690)
拙訳:月が照っている、妻問いには最高の明かりなのに私には人が通わぬ闇の夜。何故って、かのお方はやってこない、涙で濡れた衣を乾かすあの方はもう来ないのよ。
蝋燭灯した提灯が足元を照らせば闇夜も安心、これは正しい。
万葉の古代は夜の明かりは蜜蝋である。国内生産はなく唐宋からの輸入頼りで高価であった。皇室付属の主殿寮が管理する舶来物として「燈、燭」などの記載が残る。この燭とは蝋燭だった(Wikipedia仕入れ)。ハゼ木から蝋を採取したと聞くがそれは江戸中期以降、そのハゼ蝋にしても、高価だったと聞く。松明。篝火に適した生松枝を手に入れた処で、松明をめらめら焚いて妻問いをかける無作法者はいません。そんな妻問いしたら断られてしまう。
高貴諸雑を問わず妻問いは灯りなし、人に知られず月夜に通うが作法です。
舶来の蜜蝋ロウソク端超高価、江戸初期から普及したハゼ蝋のロウソクは光芒も大きく実用に耐えるが、こちらも高価(写真はネットから)
古事記に起源が記述されている。
>美しい乙女活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに夜になるとたいそう麗しい若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、どれほども経たないうちに姫は身ごもります。姫の両親は素性のわからない若者を不審に思い、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺せと教えます。翌朝になると糸は鍵穴を出て、後に残っていた糸巻きは三勾(みわ)だけでした。糸を辿ってゆくと三輪山にたどり着きました。これによって若者の正体大物主大神であり<
(大神神社HPから転載)神社縁起は妻問いでした)
それでも月夜は巡る ;
十八夜:居待ち。闇は昨夜よりは長いから立つままは疲れる、門脇から先に出て道端石に腰掛ける。月が無いうちには来ないと知るが、ここで待てば来る人の急ぐ影が真っ先に分かる。
十九夜:寝待ち、臥しても寝ずに待つ。外に出たとて長待ちになるから気が急くだけ、布団にくるまるか。「寝待の月の山の端出ずるほどに男のいでむとする気色あり」(かげろふ日記、岩波古語辞典から)この夜の月の出は十一時近く(兵庫県、4月)男が月の出を待ち望んで出立する様をまさに綴ってある、わざわざ「男の」とあるから目的は女、妻問いと決まっている。
二十夜:更け待ち、夜が更けた。待ちくたびれて寝入ってしまい、夜更けにはね起きたけれど、まだ月は出ていない。これが20夜の辛い更け待ち。
一方、さらなる疑問が湧く、
「月の出は天体現象、前もって今夜は何時にと予測出来る。一夜で一時間ほどのズレ、昨夜の月の出の時間から、今夜の出を類推できる。古代人だって天文現象に気付いているから、日没から幾時間の後とすればどっしり構えて、時を待つ。うろつき、立ち歩きやふて寝、居直りは考えられない」。
定時法時間に浸かった現代人の感想であろう。
古代から江戸時代まで、日本では不定時法が生活に根ざしていた。夕を暮れ六(ムツ)、明けを暁(あけ)六として、昼夜を六等分していた。春分秋分であれば昼夜は均等。冬は夜の刻(トキ)が長く昼のそれは短い。夏は正反対である。
江戸中期には一日を十二等分(二十四等分)する定時法も併用されていたとも聞くが、天文方など絶対時間を必要とする機関での利用と推察する。そもそも定時法の基準となる時計など日本中、誰も持ち合わせていない、和時計なるは刻(トキ)、すなわち不定時を刻む特殊な時計である。時間を刻と書くこちらが相対時間を表す。今のヒトが慣れている定時法の「時」と区別した。
(不定時法の用語は江戸期に確定したとネットで知る。古代に人々がどのように刻を刻んで、呼んでいたか、不定時法ではあろうが部族民には、不明。定時法への移行を命ずる太政官令が発布されたのは明治6年、1873年)
昔の人は刻の長さに見当をつけられるであろうが、それと時間、待ちの絶対時間、の概念はない。計ろうとも計れない。何時に月が出てくるか、夜空の闇の濃淡で読むしか無い。
妻問いは月を読む、万葉集に探る色恋 中の了(4月23日)