蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

妻問いは月を読む、万葉集に探る色恋 下

2023年04月24日 | 小説
(2023年4月24日)十六夜から更待月までが妻問いの好機―と前述した。満月前となれば三日月は光量が少ないから無理だろうが、上弦の月なら妻問いできるかを考察すると;
行きは月明かりで路も踏める。久々の逢瀬だから用が済んだらさよならは無情。積もる話もあるだろうから、幾刻か居残ると帰りは未明となる。しかし月すでに落ちている。月齢7夜の上弦の入は零時30分ほど。まだきは暗いからって朝帰りでは近在に見つかってしまう。十夜月の入は3時、13夜は4時半、後朝別れは、帰りの道のりもあるから2時、3時。もっと居続けしたい、させたいの未練は残る。欲に絡む情けが色恋、愛が果ててもしがらみは消えない。
やはり、満月前は妻問いに適さない。

満月では日没と同時に月が出る。夕が昼の明るさのまま続く。人々の戸外活動もそれなりに頻繁。うっかり「月の明かりもいい塩梅」と満月の妻問いを敢行しようものなら、物見高い近在に見つかってしまう。一旦の闇にとぎれて人が皆、屋にこもる夕べの端か夜半に出れば、老婆詮索の目から避けられる。


写真は寝待ちの月(ネットから)


♪ぬばたまのその夜の月夜今日までに
        我は忘れず問いなくし思えば♪(702 河内百枝娘子)
拙訳:あなたが来た(問いに訪れた)あの月夜を忘れていません、もうあなたは来ないのですから。
ぬばたまは月の枕詞、この語に煌々とした月を小筆は思い浮かべる。となればイザヨイか立ち待ちの月であろう。月明かりの晴れ晴れしさと、もはや妻問いされない女の寂しさを対比させている。

♪夕闇は道たずたずし月まちて行(いで)ませ
我が背子その間にも見む♪(709 豊前国娘子大宅女)
拙訳:夕になった途端はまだ闇ですから道は難儀します。月の出を待って「出でませ」(私、門に出て大事なあなたを)待ちますわ。 
立ち待ちの月か。「その間」は、あのあたりで見えてくるとの意。岩波の文学大系では「帰るのは月が出てからにしてね」と注釈するが、すると「背子殿あなたは昼来て夜帰る」になる。妻問いは夜這いの源流なのでこれはない。行ませを「いでませ」と読めば、月が出てから来てねとの意味合いがついて、妻問いの正統、夜の問いから外れない。

♪み空行く月の光にただ一目
相みし人の夢にし見ゆる♪(710 安都扉娘子)
拙訳:読んでの通りの意なので解釈しないが、「月の光」が効いている。妻問いがあったのだ、しかし一回だけだった、その後、幾月幾年、今でもあの月あのお方を思い出しているのよ。「月の光」の意がずばり逢い引きに喩えられている、換喩の修辞。

もう一首、
♪この月のここに至れば今かとも
          妹が出で立ち待ちつつあらむ♪(1078)
拙訳:月があの高さになっているから私が道のり途中だと分かっている、妹(イモ、妻問い相手)は門脇に立って今か今かと待っているだろうな。
男は月の出に合わせて出立した。月の登り具合が男の歩みの時間の経過、待ちつつ月の高さも気になる立ち待ちの心境を歌にした感があります。
月の呼称を女の待ち姿に例える風雅、万葉集が伝える妻問いの恋愛景色は今も変わりません。女は今も男を待つ、

♪~あぁ~日本の何処かに私を待ってる人がいる~♪(山口百恵歌) 

妻問いは月を読む、万葉集に探る色恋 了(4月24日)
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