(2021年12月28日)投稿は友人K君から先月15日に受け取った報せについてです。新年を迎えるに無言の報せが必ず舞い込む。これが歳に相応かも知れないし、寂しさは慣れるまでの辛抱。いや、こっちが出すまでの我慢と己に言い聞かす。さっそくメールを入れてK君を励ました。返信はその夕べに届いた。逝去の有様、通夜の特異が書き込まれていた。それは令和3年でしか起こりえ無いなかった流れだった。そうした人の心を亡者を切り離す状況にだって、それぞれが規制の内で動いただけと自身に言い聞かせた。1月に開け12月に至ったこの年の、月日のすべてが特異だと感じ入った。
不祝儀顛末であるから年内に留めおきたい。また皆様にはこんな葬祭もあったのだとこの先、行く年月のいずこかに思い出せばそれも救い、記憶が蒸発し思いだすまでもなければそれでなお良し。顛末話だけをサイバー空間の何処かにとどめたいと念じ、個人名、住所などを書き換えて、K君からのメールを本ブログに投稿した(渡来部須麻男)。

葉書は無言、喪中葉書も無言

「糖尿を患っていたと聞いた。伺候に行かなければと気がはやるも、住まいは東京を挟んで西と東。この遠さがあっては足が遠のく。結局、ここ数年が会わずじまいだった今年の春、義姉からの電話は「入院になった」。都心の病院の名を書き留めた。
「さっそく見舞いと」焦るが、どのよう行動すべきかが一切、分からない。病院に電話を入れると「お見舞いはごく近い近親の方にしてもらっている」と冷たくあしらわれた。
これら義姉からの電話、病院への問い合わせの流れは6月の初だった。一日500ほどの新規陽性者数が朝昼、夕まで姦しく報道されていた。
ごく「近い近親」とは同居の家族と言いたいのだ。兄弟なら本来は近い親類であると信じるけれど、令和3年の年の特異が「遠い」と追いやった。同居ならば連れ合い親子、入院となって相談事も色々立ち上がる。運び込まれの経緯、病状の進行ぶりなどからして、今回の入院の旅程は片道と見当がつくとあればなおさらだ。明日にも昏睡に陥るかもしれない患者病床に「近くもない親類」が、果物籠でもぶら提げてのエヘラ見舞い呑気は歓迎されない、まして複数が訪院するのを病院は好まない。これが年の特異だろう。
新型コロナ蔓延の影は東京の街角を暗く漂っていた。
非常事態宣言が発令されていた。知事は「不要不急の外出は避ける」と指針を出した。顔の殆どをマスクが覆い、目玉だけが異様に瞬く知事はお願いなど広めていない、これは「命じ」だ。事実、マスクの訴えを都民多くが命令と感じ取った。
近い遠い問答に戻る。
近い近親なれば見舞い外出は必要で、病床に寄り添うは急がれる。死に向かう弱者には支えが必要であるから。近親の見舞いに気が和らぎ、痛みも一時、忘れるかもしれぬ。しかし幾十年か、生活の離れた兄へ差し迫った「必要」を弟が持つのか。急ぎもせず求められもなければただの見舞い。兄の見舞いに行かなかった私の後ろ風景はただ一つの白黒。不要不急の悠長を令和3年が否定したのだ。
これだけは実行したい、ある願望がそれでも私には残った。
今はまだ生きている兄、最後の居住まい姿を見届けたかった。兄と弟であればこの気持は自然ではなかろうか。最期の様を見届けたいは要であるけど、緊急事態がそれを「不要」と命じたのだろうか。答えに行き着かないまま、病院案内者の「その方にはご子息がよくお見舞いに来院しています」が心に引っかかり、その意は「近い近親ではない方は遠慮」を言外に仄めかしていると受け止め、マスク命令とも重なって「緊急事態の解除を待つ」と決め、ひたすら待った。
東京五輪が始まると「不要不急の差し控え」はなおさら執拗。五輪が終わりまもなく検査陽性者の数が急増し、宣言解除はどんどん遠ざかる。陽性者が2000人から3000に増加する頃に義姉から電話があって兄の死を告げられた(8月6日)。葬式の段取りが決まったら知らせてほしい旨を伝え、義姉は口調を曇らせ電話は切れた。葬式は出されなかった。
義姉と長男が病院についたのは訃報電を受けて3時間のあと。病床から下ろされすでに白木に納棺されていた。病院の事務者が亡者の名を伝え、縁者かと確認して診断書を渡した。「会計を済まして引き取ってくれ」と。棺に窓はない、中に一体誰が入っているのは分からない。蓋を開けようとする義姉の手が止められた。院内でも院外でも開けてはならないと叩く手が命じた。すでに釘が打ち込んであるから開けようにも開かない。
棺を引き取ってその夕べからが通夜。一夜明けて葬儀、出棺。焼き場と進行するのがこれまでのコロナ前の儀礼次第。2年もそうであったし、令和3年はなおさら、通夜から焼き場に直行する件数が多くなった。人を集めたくないに尽きる。棺をK兄の居宅に入れる作業にしても、門を開け霊柩車の後ろ扉を玄関にぎりと寄せて、車鼻が門を抜くか抜かぬかを気に揉んで一気に棺を滑りおろし、故人の気に入り居間に運んだ。車はすぐさま発進して、門回りと玄関を浄めてすぐに戸を締めた。
義姉と長男でいささか揉めた。
義姉は、
「葬式を出さないと決めたけれど、ご時世だから受け入れる。黒服を纏った幾人かが門を出入りしたら、ご近所から非常事態を破っていると後ろ指をさされる」
長男が返した、
「叔父貴は盛んに葬儀を気にしていたけれど、それが持てないことは理解してもらう。だから誰にも案内は出さずに、通夜も内々で過ごしたと事がすべて開けたら言ってください」
分かれたのはここから、
「棺の木蓋は家族が閉めるものなのだよ。葬式の最後には帷子を掛け、白木の蓋の四隅に釘を立て、コツコツと順に丸石を掌に握りしめる家族が打つのだよ、それが亡者とのこの世の分かれ。
病院に置かれていたときにすでに釘打ちされていたのだ。いくらコロナが蔓延していようと、大事な段取りをアカの他人が取り上げた、あの仕打ちに涙が出たよ」
甥は一息置いて、
「こんな時勢さ、病院の空気に亡者の息が散乱するのを防いだのだよ。気持ちは分かるけど、一体どうしろと」
「蓋を開ける」
白木の四隅と長辺に10を超す三寸釘がしっかりと打ち込まれていた。釘頭が鈍く光る。
令和3年葬式仕様 上の了(2021年12月28日)次回下は30日
不祝儀顛末であるから年内に留めおきたい。また皆様にはこんな葬祭もあったのだとこの先、行く年月のいずこかに思い出せばそれも救い、記憶が蒸発し思いだすまでもなければそれでなお良し。顛末話だけをサイバー空間の何処かにとどめたいと念じ、個人名、住所などを書き換えて、K君からのメールを本ブログに投稿した(渡来部須麻男)。

葉書は無言、喪中葉書も無言

「糖尿を患っていたと聞いた。伺候に行かなければと気がはやるも、住まいは東京を挟んで西と東。この遠さがあっては足が遠のく。結局、ここ数年が会わずじまいだった今年の春、義姉からの電話は「入院になった」。都心の病院の名を書き留めた。
「さっそく見舞いと」焦るが、どのよう行動すべきかが一切、分からない。病院に電話を入れると「お見舞いはごく近い近親の方にしてもらっている」と冷たくあしらわれた。
これら義姉からの電話、病院への問い合わせの流れは6月の初だった。一日500ほどの新規陽性者数が朝昼、夕まで姦しく報道されていた。
ごく「近い近親」とは同居の家族と言いたいのだ。兄弟なら本来は近い親類であると信じるけれど、令和3年の年の特異が「遠い」と追いやった。同居ならば連れ合い親子、入院となって相談事も色々立ち上がる。運び込まれの経緯、病状の進行ぶりなどからして、今回の入院の旅程は片道と見当がつくとあればなおさらだ。明日にも昏睡に陥るかもしれない患者病床に「近くもない親類」が、果物籠でもぶら提げてのエヘラ見舞い呑気は歓迎されない、まして複数が訪院するのを病院は好まない。これが年の特異だろう。
新型コロナ蔓延の影は東京の街角を暗く漂っていた。
非常事態宣言が発令されていた。知事は「不要不急の外出は避ける」と指針を出した。顔の殆どをマスクが覆い、目玉だけが異様に瞬く知事はお願いなど広めていない、これは「命じ」だ。事実、マスクの訴えを都民多くが命令と感じ取った。
近い遠い問答に戻る。
近い近親なれば見舞い外出は必要で、病床に寄り添うは急がれる。死に向かう弱者には支えが必要であるから。近親の見舞いに気が和らぎ、痛みも一時、忘れるかもしれぬ。しかし幾十年か、生活の離れた兄へ差し迫った「必要」を弟が持つのか。急ぎもせず求められもなければただの見舞い。兄の見舞いに行かなかった私の後ろ風景はただ一つの白黒。不要不急の悠長を令和3年が否定したのだ。
これだけは実行したい、ある願望がそれでも私には残った。
今はまだ生きている兄、最後の居住まい姿を見届けたかった。兄と弟であればこの気持は自然ではなかろうか。最期の様を見届けたいは要であるけど、緊急事態がそれを「不要」と命じたのだろうか。答えに行き着かないまま、病院案内者の「その方にはご子息がよくお見舞いに来院しています」が心に引っかかり、その意は「近い近親ではない方は遠慮」を言外に仄めかしていると受け止め、マスク命令とも重なって「緊急事態の解除を待つ」と決め、ひたすら待った。
東京五輪が始まると「不要不急の差し控え」はなおさら執拗。五輪が終わりまもなく検査陽性者の数が急増し、宣言解除はどんどん遠ざかる。陽性者が2000人から3000に増加する頃に義姉から電話があって兄の死を告げられた(8月6日)。葬式の段取りが決まったら知らせてほしい旨を伝え、義姉は口調を曇らせ電話は切れた。葬式は出されなかった。
義姉と長男が病院についたのは訃報電を受けて3時間のあと。病床から下ろされすでに白木に納棺されていた。病院の事務者が亡者の名を伝え、縁者かと確認して診断書を渡した。「会計を済まして引き取ってくれ」と。棺に窓はない、中に一体誰が入っているのは分からない。蓋を開けようとする義姉の手が止められた。院内でも院外でも開けてはならないと叩く手が命じた。すでに釘が打ち込んであるから開けようにも開かない。
棺を引き取ってその夕べからが通夜。一夜明けて葬儀、出棺。焼き場と進行するのがこれまでのコロナ前の儀礼次第。2年もそうであったし、令和3年はなおさら、通夜から焼き場に直行する件数が多くなった。人を集めたくないに尽きる。棺をK兄の居宅に入れる作業にしても、門を開け霊柩車の後ろ扉を玄関にぎりと寄せて、車鼻が門を抜くか抜かぬかを気に揉んで一気に棺を滑りおろし、故人の気に入り居間に運んだ。車はすぐさま発進して、門回りと玄関を浄めてすぐに戸を締めた。
義姉と長男でいささか揉めた。
義姉は、
「葬式を出さないと決めたけれど、ご時世だから受け入れる。黒服を纏った幾人かが門を出入りしたら、ご近所から非常事態を破っていると後ろ指をさされる」
長男が返した、
「叔父貴は盛んに葬儀を気にしていたけれど、それが持てないことは理解してもらう。だから誰にも案内は出さずに、通夜も内々で過ごしたと事がすべて開けたら言ってください」
分かれたのはここから、
「棺の木蓋は家族が閉めるものなのだよ。葬式の最後には帷子を掛け、白木の蓋の四隅に釘を立て、コツコツと順に丸石を掌に握りしめる家族が打つのだよ、それが亡者とのこの世の分かれ。
病院に置かれていたときにすでに釘打ちされていたのだ。いくらコロナが蔓延していようと、大事な段取りをアカの他人が取り上げた、あの仕打ちに涙が出たよ」
甥は一息置いて、
「こんな時勢さ、病院の空気に亡者の息が散乱するのを防いだのだよ。気持ちは分かるけど、一体どうしろと」
「蓋を開ける」
白木の四隅と長辺に10を超す三寸釘がしっかりと打ち込まれていた。釘頭が鈍く光る。
令和3年葬式仕様 上の了(2021年12月28日)次回下は30日
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