蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 6 最終

2022年07月18日 | 小説
(2022年7月18日)最終にあたりキルケゴールが今、哲学思潮の中でどのように評価されているか、実存主義との関連から小筆の理解を述べたい。


写真はDictionnaire de Philosophie (Nathan社版)の実存主義説明ページから拝借した図です。


中央 «Existence » の意味を「実存」とせず「存在」としたい。説明ページの趣旨を受けて「個の存在」と理解する。個はたしかに存在し活動を見せる。その生き様とはどのようにあるか、それぞれの思想家が成り立ち、理想を追求した。彼らが追求した主題を簡潔に一語にまとめ、展開図に収めている。
ニーチェ(右上)は « Volonté de puissance » 個が内に秘める「力漲る決意」を追求した。その通りかと。ショーペンハウアーには « Vouloir Vivre » が被される「生きる意志」となる。以下ハイデッカー「時間性」、ヘーゲル「歴史」、キルケゴール「概念」。サルトルには「実存主義、自由」が紐づけされ、彼にのみ « -isme » が付与される。
キルケゴールに冠される « concept »「概念」の意味合いが、本辞書が実存主義に向きあう立場を理解する鍵語となります。個の存在、キルケゴール定義は;他のいかなる主体(主義主張)とは独立して存在し、個の主体は存在そのものとなります。「主体としての個」を初めてキルケゴールが打ち出した所以です。すると図中、サルトルを除く他の思想家は「個の存在」を別の主体(思想)とつなぎ合わせて、思想の客体となる存在としての個、その生き様を語ったと受け止める(ハイデッガーなどの異論は承知のうえ)。
ニーチェでは意志の力が主体、ショーペンハウアーは生きる意志が主体となります。思想が主体、個の存在は客体となります。なお両の引用に於いては「存在する個の志向」がそれでも濃いので、生き様が主体と考える解釈はあるかもしれない。ヘーゲルを採り上げると、この主体・客体の関係はより分かりやすい。彼が唱える弁証法は思想であり、思弁に支配される。主体は思弁でありこれを内包する頭は単なる入れ物であり、客体です。主体は思考、デカルト以来、西洋思想の主流です。
キルケゴールは知を形成する理性(当時19世紀半ば、デンマークにあってはヘーゲルを旗手とする理性主義)を否定し、(教会が押し付ける教条に枠を嵌められる)信仰を排除した。理性と信心が剥ぎ取られた個は空虚となる。空虚な個が俗世を徘徊する様を綴ったのが著作「あれかこれか」での生き様です。教会教条を否定してもキルケゴールはキリスト者としての信仰を抱く。徘徊の果て個の本質は罪にあるとの真理にたどり着いた。彼の生き様の旅路をたどれば、第一舞台が耽美生活。瞬間に生きる個は罪を自覚しない。この第一の舞台をして « le monde païen » 異教徒の世界とラカンが定義した。異教徒ならば耶蘇根本原理の罪など自覚しない。これ以降の段階(2,3と続く)では空虚の個が罪を自覚し昇天するまでの旅路が控える。過去の投稿(1~5)で昇天に対峙するキルケゴールの姿勢を説明しました(彼は罪を自己の存在に取り込むことを拒んだ、故に昇天 « ascension » にはたどり着けなかったとラカンは分析した)。
この「空虚の個」の概念を借り入れたのがサルトルです。しかしサルトルは無神論者。本質が罪、信仰はそれを覚知する道、こんな有神論はサルトルに似つかわしくない。そこで空虚とは「実存」する、経験を経ない、無の個、外部世界での経験の果てに獲得する本質が「自由」と組み替えた。
この論理展開のおかげか、図で « existentialisme » をつけられるのはサルトルのみ。
キルケゴール含め他思想家は個の存在、すなわち個の生き様に思索を巡らせたが(個を主体として大系、すなわち主義に引き上げたのはサルトルが初にして(今のところ)終わり。それだけに彼の思想は遥かな地平に躍る。
この図を目にしての(部族民)解釈が以上です。本辞典から実存主義の説明、その幾文節かを引用する。
<C’est radicalement le fait d’être, de l’existence en soi, indépendamment de toute connaissance possible, et de l’existence dans l’expérience par opposition au néant. それは(存在は)詰まるところ生きている事実であり、個の存在であり、経験を貫いての存在で、それに対比する側(自由を獲得できない個)は無である。
<Déjà Kierckegaard remarque, en tant que tel, il (le sujet humain) est irréductibles à toute approche systématique. Pour Heidegger, cette existence est propre à la subjectivité, comme être dans le monde et projet d’un monde. Sartre en déduira que, pour l’homme, « existence précède l’essence » : indéfinissable a priori. L’être humain n’est rien d’autre que ce qu’il devient…>キルケゴールはすでにそれ(主体としての個)はかくあるべきと指摘していた。個はいかなる思想、大系的な取り組みに曝されても分解できないと。ハイデッガーにしても個の存在とは主体性そのもの、世界に生き世界の投影であるとした。サルトルは後に、人とは「存在が本質に先立つ」と個の位置を決めつけた。個はその存在のまま規定できないし、人とは、成るべくして成りうる存在そのものでしかない…>
(...はこの後はサルトルの実存主義に忠実な解説が続くとの意味)
<Dans ce sens large, c’est Kierckegaard qui est l’initiateur dans la philosophie moderne (même si on peut en trouver l’origine chez Pascal), par son insistance sur la subjectivité.
この意味の幅を広げると、パスカルにその濫觴は認められるけれど、主体性に対しての考察からして、キルケゴールが近代哲学の創始といえる。
実存主義を「近代哲学」としその核にサルトルを置く。幾分サルトルへの偏りは大きいが哲学者側からの解釈で実存主義が語られ、キルケゴールの立ち位置もそれに沿って説明されています。サルトルに重きをおきすぎるきらいはある、これが一般的解釈と見られる。
前の投稿(1~5)でラカンのキルケゴール論を紹介した。ラカンは精神分析の「現実原理」を応用してキルケゴールを解体した。サルトルがキルケゴールに向き合った姿勢と比べると、あまりにも大きな差に驚きます。哲学と精神分析の解析の差―と片付ければ簡単です。部族民はラカンとサルトルの距離と考えたい。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 6最終の了(2022年7月18日)


ラカン先生のセミナーは続きます。次回は「オオカミ少年ロベール」についての御高説を伺う予定です(8月初旬に投稿開始)


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