酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

接点 ふたりの科学者。それから・・・津浪の記憶

2012-04-25 12:19:40 | 東日本大震災
「波」と「浪」には現在特別な使い分けは無いようです。
ですが、似て非なる部分も多少なりともあろうかと考えました。
「波」は「なみ」の総称。
「浪」は「さざなみ」の意が強いそうです。
「さんずい」が「けもの」になりますと「狼」。
「津波」は「津浪」の方がその恐ろしさが伝わるのかと思いました。

寺田寅彦は、論文、論説全て「津浪」と表記しております。
おそらく、深い意味はなく、学術的にも「津浪」が当時の言葉だったのだろうと推察するところです。ですが、その脅威はどちらが直接伝わるでしょうか。

昭和八年三月三日の早朝に、東日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片隅から薙ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起こったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。

上記は寺田寅彦「津浪と人間」昭和八年「鉄塔」への寄稿からです。
この書き出しで始まる「同論説文」ですが、八十年経った現在でもその言葉が重いことに気づきます。
「くだまき」は寺田寅彦を、振り返っております。
その自然観、哲学は現代も決して新鮮さを失っておりません。
むしろ、現代に生きる私たちにとっても貴重な言葉を残しております。

こんなに度々繰り返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然の防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそうそう思う事であろうが、それば実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起こるのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかし、また罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日の予報できないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それを注意しなからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えていられない」という。これはどちらの伝い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。


福島原発の事故、問題は、いつ解決するのか。酔漢は「責任問題は後回しではないだろうか」という違和感に囚われながらこの問題を注視しております。
どうやら、「責任の所在を明らかにする」事で、事故の収束が着いたと勘違いされておられる方々が多々いらっしゃる。
今は問題の内容を精査し、事故の原因を明確にし、それを筋道立てて、全知全能をもって解決させるべくベクトルを模索するべき時間ではないのかと。こう考えます。
しかるに、その報道を垣間見すれば「責任が・・・」「あのときあの人のジャッジが・・・」と言った報道や発言が多いのです。
上記寺田は、その論争に似た状況を指摘し、それを「人間界の現象」といたしております。

災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆け付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
さて、それから更に三十七年経ったとする、その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵も故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。(中略)三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば、一万三千五百五日である。(中略)津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終わりの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津波はもう天変でも地異でもなくなるであろう。


丹治さんとの会話です。
「十勝沖地震、津波の記憶が残っていて、津波警報が流れたとき『見に行こう』と言ったら親父からこっぴどく叱られた。親父はチリ地震の記憶と経験があったから・・今にして思えばなんて無謀な発想だったんんだろうと思う。酔漢はどうだ?」
「やっぱし、親父から聞いたっちゃ。チリ地震津波の話は何度もしけたけっど、親父は吉田浜で釣りの最中だったっちゃ。こいづは波の引きがおかしいって思ったらしぐてっしゃ。したらみるみる波が引いたんだどや。あぶねぇって思って、バイクば走らせて君が岡公園まで行って・・津波にあわねぐて済んだのっしゃ」
海岸通りのそば屋(看板だけ今もありますが・・)の二階には、津波の跡がありました。
「あそこまで波きたんだど!」
昔、仙石線本塩釜の踏切(青木金物屋のところ)を通るたび、親父が波の跡(丁度青いトタンの壁に線が残っておりました)を指さして、その高さを教えてくれました。
そうは、言われましても、実際見たこともないわけですから、想像する他なかったわけです。
その想像にも限界があります。
「ひーさんの散歩道 塩釜を襲った津波・・・TUNAMI2009年10月09日」より
「同様です」
親父からは、荒浜の海岸を通った際に「津波が来たら・・?」と尋ねたことがございます。
「荒浜は・・三陸が震源だったら大丈夫でねぇか」との答え。
親父は貞観津波は知らなかったのです。これは、当然、酔漢も同様でした。
七郷からは海岸が見えません。
「津浪が来ると想像することは難しかったのです」
との答えは多くの人が語るところですが、もし、貞観津浪の記憶と記録がはっきりしておりましたら、それは定かではないのです。
(こう語っておりますのは、先の震災を経験したから口から出るのです。否定出来ません)

今、語っております「津浪と人間」ですが、この論説には「貞観津浪」を寺田は記載しておりません。
これとは別「地震に伴う光の現象(日本消防新聞論説 昭和六年一月一日)」に語られております。
もっとも、地震についての論説文であり津浪を論じたものではございません。

地震の時に、何か光るものを見たということがある。以前から変だなと思っていた。(中略)古い記録にも相当沢山あって、地震研究所嘱託の武者君にちょっと調べてもらった所でも五十件くらいもある。(発光という現象は寺田が生涯研究していたものです)日本で一番古いのは貞観十一年(千六十二年前)陸奥の大地震のときに見えたというので「三大実録」に「流光如昼隠映」と、うまい言葉でいっている。(日本三大実録には、「廿六日一癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映」と記されております)

寺田寅彦も貞観地震とその津浪の被害は知っております。
陸奥国が甚大なる被害を被った。これは寺田をはじめ、今村(明恒)等も知っておることなのでした。
ですが、僕らはその地に住みながら、その歴史すら知らされておりませんでした。
先の震災で原子力発電所の事故があって初めて知ったところなのです。
三陸、チリと・・被害に逢いながら、最も規模の大きかった「貞観津浪」についての知識はなかった。
これは千年という莫大なる時間の経過と共に失われた記憶だったのです。
古文書研究家、歴史学者(他、それに准ずる研究者→地震学者等も)が知るだけの知識となっておった訳です。


歌枕の地を訪ねて・多賀城 1 末の松山・沖の石
ひーさんの散歩道2007年08月18日 | 多賀城の散歩道

「ひーさんの散歩道」より拝借致しました。
皆様「末の松山」はご存知かと思います。詳細は上記「ひーさんの散歩道」をご覧下さい。
百人一首、清原元輔の歌にございます。
この「末」。その奥の意味。
これも、久しく私共が忘れていたことなのです。
「財団法人日本消防設備安全センター理事長 長澤純一」先生の論文を紐解きます。
先の「三大実録」を長澤先生は解りやすく解説をなさっております。

「貞観11年(869)5月26日、陸奥の国で大地震が起きた。流光が昼のように光り、暫くの間、人々は叫び、立っていることができなかった。ある者は倒れた家の下敷きとなり、ある者は地割れに呑み込まれた。牛や馬が驚いて走り出し、互いに踏みつけあった。城郭、倉、門櫓や牆壁が無数に崩れた。海は、雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧きあがり、川が逆流し津波が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。海から数十百里の先まで涯も知れず水となり、野原も道もすべて大海原となった。船に乗る暇もなく、山に登ることもできず、千人ほどが溺れ死に、後には資産も田畑も、ほとんど何もなくなった。」
この三代実録に見える「城郭」とは陸奥国国府としての多賀城のことといわれ、逆流した川は、七北田川(現在の砂押川)といわれています。


そして、多賀城市史では次のように言い伝えとして記載されております。
(上記、長澤先生要約文より抜粋)

「昔本村八幡には上千軒、下千軒と云って澤山の商家が軒を並べて繁昌していたが、何時の頃のことであったか、大津浪に全部押流されて砂原と化してしまった、と云う伝説が今でも残っている。又、末の松山に関係のある小佐治物語も大津浪と八幡(ヤハタ)の繁昌とを伝へている。」
【要 旨】
 昔一軒の居酒屋があり、小佐治という19歳の娘盛りの女が働いていた。ある日この店に猩々が現れ、小佐治が酒を与えると喜んで、盃に少々の鮮血をそそいで、頭を下げて出て行った。この鮮血は、唐紅で、幾世を経ても変わらないことから酒代の数倍の値で売れた。店の主人の女房である玉芝が、主人に、今度猩々が来たら刺殺して多くの血を取り黄金に替えようと話していたのを聞いた小佐治は、猩々に忠告したが、仮に命をとられても甘露の味が忘れられないと酒を要求し、もしも我が身がここで死んだら三日のうちに必ず東方から大津波が起こる。その時、あなたは西の方、末の松山に難を避けなさいと教えてくれた。
 欲深い玉芝が猩々を酔いつぶれさせて、殺し、鮮血を全身から搾り取った。
死体を袋に入れて、小池に投げ入れた。その後、小佐治が猩々の話を思い出し、はっと思って東方を見ると、真っ暗になったので、津波が押し寄せて来るであろうと、一目散に末の松山目指して走り、やっと松の根に取り付いた
時、天地鳴動して二千戸の市街、船舶、人畜共に天に巻き上げられ、怒涛に飲まれ、阿鼻叫喚の声ものすごく、いうべき言葉がなかった。きのうまで上千軒、下千軒と栄えた八幡の町も、とうとう一朝にして砂原と化した。猩々の屍を投げ入れた小池は「猩々ヶ池」と呼ばれている。
 

「小佐治」とは「越さじ」であろうという事です。
「ひーさんの散歩道」より清原元輔の一首をご紹介いたします。

契なきかた身に袖をしばりつつ末の松山浪越さじとは

末の松山」を波が越すことを起こり得ないことの比喩に用いています。つまり、869年の貞観地震の大津波ですら波が越えなかったという意味で歌われていますから、よほど印象深い場所だったのに違いありません。

実際に浸水地域を見てみます。


言い伝え通り、「末の松山」直前で津波が止まっていることが解ります。
これは、新聞報道にも紹介されており「今さら」と言った感もございますが、今一度、この事実を検証いたしております。
寺田寅彦が言わんとしておるところがまさしくここにあるのです。
再び「津浪と人間」を紐解きます。

困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。(中略)自然ほど伝統に忠実なものはないのである。(中略)こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の周期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。(中略)しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。(中略)宝永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大掛りなものが、いつかはまた繰り返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。

平成十七年三月
総務省消防庁防災課によるレポート。
「災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)」
この目次をご紹介いたします。

1.調査概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
2.都道府県において、現在までに語り継がれる『災害』について 7
3.防災に係る『言い伝え』に関する情報について ・・・・・・・・・・・・ 14
4.個人・組織による『防災に係る取り組み』に関する伝承情報・・ 16
5.防災に関する展示施設等での『災害伝承情報』の普及・啓発 19
6 自由意見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20

そして、その一部をご紹介いたします。

表1 現在に語り継がれる災害一覧(災害種別、発生年順)
災害名発生年発生年月日(表記のまま)
【地震・津波(01zi)】
南海地震津波0684 天武13年(684年)の津波(昭和21年(1946年)の南海地震津波まで)
貞観11年地震・津波0869 貞観11年(869年)7月13日
明応地震1498 1498年9月20日
文禄別府湾岸地震(瓜生島地震) 1596 1596年9月
慶長南海大地震1604 1604年(慶長9年)1月31日
慶長地震1605 1605年2月3日
慶長16年地震・津波1611 慶長16年(1611年)12月20日
慶長の高田大地震1614 慶長19(1614)年10月25日
寛永十年の小田原地震1633 寛永10年(1633年)1月21日
寛文2年日向灘大地震・津波(外所(とんところ)地震) 1662 寛文2年(1662年)9月19日夜(陰暦)
寛文の高田大地震1665 寛文5(1665)年12月27日
延宝四年・五年の大津波1676 1676年、1677年
天和3年5月日光地震1683 天和3年(1683年)5月23・24日、 9月1日
天和3年9月日光地震1683 天和3年(1683年)9月1日、享保8年(1723年)
元禄地震1703 元禄16年(1703年)11月23日
宝永4年地震・津波1707 宝永4年10月4日(1707年)
寛保津波1741 寛保元年(1741年)7月19日
寛延4年の高田大地震1751 寛延4(1751)年4月25日
「名立崩れ」(宝暦の高田大地震) 1751 宝暦元年(寛延4年、1751年)4月26日
明和地震1766 明和3年(1766年)1月28日(新暦3月8日)
明和の大津波1771 明和8年(1771年)4月24日
寛政大津波1792 寛政4年(1792年)4月1日
(以下地震津波の最後は「阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震) 1995 平成7年(1995年)1月17日」です)


貞観津浪は、明らかに伝承され、記録も公式に残されている最古のもと分かります。
しかし情報として、我々には伝わっていない。

しかし、少数の学者や自分(略しております)がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然の法則であるように見える。(中略)一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるとことにする外はないという捨て鉢の哲学も可能である。
しかし(中略)人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫(寺田は、昆虫の生活を持ち出しながら語っております)とで違うようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、そのときに初めて天災の予防が可能になるであろうと思われる。


伝承の記憶と記録。
この大切な事を寺田が一番に伝えたかったことなのです。
しかし、寺田のこの論説の追記が一番重く伸し掛かってまいります。

追記
三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。
ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍らで通行人の最も眼につく処に建てておいたが、その新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。(略)


多賀城、「末の松山の碑」拝読します。
「津浪襲来」の文、謂れが記載されていない事が分かります。

続きます。


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4 コメント

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トム様へ (酔漢です)
2012-05-08 08:30:44
地震の話から原発の話に変わって行きます。ですが、行きつく先は同じという感じがします。
寺田の言葉の重さが伝わってまいります。
コメント遅れました。
申し訳ございません。
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ひーさんへ (酔漢です)
2012-05-08 08:28:32
コメント遅れました。
申し訳ございません。
術後とは言え、お元気な様子に安心しました。
この話し。結構長く続きます。
宜しくお願いします。
返信する
歴史は繰り返す (トムくん)
2012-04-26 06:05:02
それから更に三十七年経ったとする、その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵も故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。

まさに、これが「歴史は繰り返す」という現象の原因ですね。戦争経験者のほとんどが故人となり、戦争を知る人が世間から隠退している状況。これが現在の状況ですね。
今回の大震災、原発事故の経験も、時が経てば、忘れ去られ、結局同じことになるのか、と考えさせられます。
返信する
ご無沙汰重ねております (ひー)
2012-04-25 22:03:20
実は先日白内障の手術をしましてPCから離れていました。
先を越されてしまいました。
自分も纏めようかと考えていたところです。
いずれ違った視点から纏めたいと思います。
今、携帯なので後でじっくり読ませて頂きます。再度コメントします。
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