2007年08月06日06時04分
1945年8月、日本政府のポツダム宣言受諾を連合国側へ打電した長野県軽井沢町の旧スイス公使館が、近く壊されることになった。大学の厚生施設に利用
されてきたが、老朽化と利用者の減少で維持が難しくなったため最近売却され、更地にされるという。建物の譲渡を打診された町も移築経費の多大さなどから保
存を見送った。
ポツダム宣言受諾が打電された旧スイス公使館の深山荘。土地の転売で解体される=長野県軽井沢町で |
壊されるのは、東京電機大学(東京都千代田区)が67年に買い取り、夏季の宿泊施設として利用してきた「深山(みやま)荘」。日本が太平洋戦争へ突入し
た翌42(昭和17)年、民間の貸別荘として建てられた。三笠通りに面した約1900平方メートルの敷地にあり、木造一部3階建ての洋風建築だ。
軽井沢は、太平洋戦争が始まると外国人の強制疎開地に指定され、43年にはソ連、トルコの各大使館が万平ホテルへ移るなど、各国の大公
使館が疎開した。中でも44年8月、貸別荘だった「深山荘」に疎開した中立国のスイス公使館は、日本の終戦や和平交渉で重要な役目を果たした、と軽井沢町
誌は書いている。
45年3月、深山荘と道を挟んで向かい合う三笠ホテルに日本政府が外務省軽井沢出張所を開設。常駐した特命全権公使の大久保利隆が、深山荘のスイス公使ゴルジェと折衝、ポツダム宣言受諾に関する交渉が行われた。
受諾の電報が深山荘から打電されたのは8月10日。町誌には「家主であった前田栄次郎は十五日以前に終戦を知り、フランス・チェコスロバ
キア(旧)・オーストラリアの公使館では、盛んなパーティーをはじめた。軽井沢の住民たちは、だれよりも先に敗戦が事実であることを知らされていた」とつ
づられている。
東京電機大は、この歴史的建物にほとんど手を加えなかった。10年前までは学生らに人気で、夏場は定員約40人がほぼ満室だったが、最
近は8月でも半分は空きの状態。町は引き取りを打診されたが、保存の必要な建物が町内に約100棟あり、深山荘の移築まで手が回らないと判断した。
歴史的建造物などの保護活動をしている「軽井沢ナショナルトラスト」の中島松樹会長は「文化遺産として旧三笠ホテルのように移築保存できればよかったが、残念。軽井沢ではこうした遺産が知らぬ間に消えるケースが少なくない」と話す。
原爆投下必要なかった?=「使用せずとも終戦」と分析-米軍神話覆す機密資料 (時事通信) - goo ニュース
広島、長崎への原爆投下が太平洋戦争を終結に導き、何百万人もの人命を救った-。米国が繰り返す原爆正当化の論理は、「(投下は)しょうがない」とした
6月の久間章生前防衛相の容認発言と相まって、被爆者の怒りをかき立てている。だが、その正当化論は戦後につくられた「神話」にすぎないことが、終戦前後
の米軍資料から浮かび上がってくる。
◇終戦の決定打はソ連参戦
「原爆を使用せずとも、対日戦争は(1945年8月9日の)ソ連参戦でほぼ終わっており、遅くとも46年2月半ばまでには終戦を迎えて
いた」。戦後間もない46年4月、当時の米陸軍省情報部門の研究チームがまとめた極秘報告書がワシントン郊外の米国立公文書館に保管されている。2発の原
爆投下が直接的に太平洋戦争を終結させたわけではないと、第一線の米軍情報担当官らが告白していたことは注目に値する。
報告書は、米軍が原爆を使用しなかった場合の戦局の推移を研究したもので、昭和天皇は早ければ45年6月20日には終戦を決意してい
たと指摘。ソ連参戦に至るまで、日本指導部は原爆投下にほとんど言及していないとして、和平の仲介を依頼していたソ連の参戦が「日本にとって終戦の理由を
完成させた」と結論付けている。
◇侵攻後の米軍死者、30日で1万人
日本が降伏しなければ、米軍は45年11月1日を期して九州侵攻作戦(オリンピック作戦)を発動する計画だったが、報告書は、原爆を併
用せずとも作戦開始後2カ月以内に九州占領に成功し、その間の米軍死傷者は7万5000~10万人と試算。46年春に計画していた関東侵攻作戦(コロネッ
ト作戦)の開始は不必要になっただろうと判断している。(続)
[時事通信社]
皇居への原爆投下を討議=45年春、標的選定委員会-米 (時事通信) - goo ニュース
【ワシントン5日時事】1945年(昭和20年)8月に広島、長崎に原爆が投下される約3カ月前の同年春、米国の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計
画」を指導した核物理学者オッペンハイマー博士らも出席した「標的選定委員会」で、東京・皇居への原爆投下の可能性が討議されていたことが、米国立公文書
館所蔵の委員会議事録により裏付けられた。
議事録の存在はこれまでも知られており、皇居を含む東京はその後、標的から外されたまま終戦を迎えたとされる。しかし、議事録は、
45年春の激しい沖縄戦の最中、国体の頂点に位置する皇室への原爆攻撃も辞さない強硬意見が米軍部と原爆開発に当たった科学者の間に根強かったことを物
語っている。
議事録によれば、米軍の超大型爆撃機B29部隊を統括する陸軍戦略航空軍の幹部軍人やマンハッタン計画にかかわった科学者が出席した同委員会は、少なくとも2回にわたって東京への原爆攻撃を検討した。
同年4月27日にワシントンのノースタッド米陸軍戦略航空軍後方司令官(准将)の会議室で開催された初会合では、マンハッタン計画の最
高責任者グローブズ少将も出席。委員会は「東京は(3月の大空襲で)焼き払われ、がれきの中に皇居が立っているだけ」(議事録)と指摘しながらも、「東京
は一つの可能性」と位置付けた。(続)
[時事通信社]