どうでもいいです、の話

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保守記事.278-9-2 似たような事例は数多く。。。

2015-05-22 12:22:02 | 記事保守

“竹田”違い 「天空の城」観光客、誤って丹波へ

 「天空の城」として人気を集める国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市和田山町竹田)を訪れるつもりが、間違って丹波市市島町竹田地区にたどり着く観光 客が相次いでいる。地名に同じ「竹田」が入り、城跡までの距離が直線で約30キロと近いのが理由のよう。城跡の知名度が全国区になった影響は思わぬ所に波 及している。(今泉欣也)

 丹波市市島町中竹田のJR福知山線丹波竹田駅は、1日平均乗客数が162人(2012年)の無人駅。駅前に商店などはなく、むろん竹田城跡の案内は見当たらない。

 竹田城跡人気に火がついた昨年以降、市内のタクシー会社には同駅から「竹田城跡に行きたい」と配車を依頼する電話が舞い込むようになった。「多い月で3件あった」と担当者。駅前の丹波署中竹田駐在所にも、同駅で降りた複数の客が城跡の場所を尋ねに来た。

 竹田城跡の正しい最寄り駅はJR播但線の竹田駅。駅に掲示されている近距離切符の運賃表(路線図)などで丹波竹田駅を見つけ、早合点した可能性が考えられる。

 また、マイカー利用の観光客が同駅周辺に“迷い込む”ケースも少なくないという。

 城跡を包む雲海の様子がテレビなどで繰り返し紹介された昨年秋ごろから、同駐在所を訪れる県外からの観光客が増加。藤本亮巡査部長(31)は「この駅の近くではないことを告げると、『じゃあ、どこなの?』と。何を見てここまで来られたんでしょうね」と不思議がる。

 こうした事態を受け、藤本巡査部長は同駅周辺から竹田城跡への行き方が一目で分かる案内マップを家族とパソコンを使って作製。所要時間や有料道路の通行料、目印となる建物も盛り込んだ。

 一方、丹波市観光協会によると、竹田城跡について尋ねる電話は「有名になる前はもっと多かった」。同協会では正しい行き方とともに、地元の雲海の名所である黒井城跡(同市春日町黒井)も紹介しているという。

    ◇

 竹田城跡へはJR竹田駅から徒歩で登山道を登るか、同駅前と城跡を結ぶ「天空バス」(土日祝日のみ)を利用。マイカーで上がれるのは山腹の観光施設まで。朝来市竹田城課TEL079・672・6141

保守記事.278-9 最後の一文が問題にならない?


保守記事.443 信長の野望

2015-05-22 12:13:51 | 記事保守

江戸時代の町屋・街路跡「兵庫津遺跡」で広範囲に見つかる/兵庫

THE PAGE 2014年6月30日(月)10時58分配信

 

江戸時代の町屋・街路跡、「兵庫津遺跡」で広範囲に見つかる/兵庫

 神戸市兵庫区の旧中央卸売市場本場跡地で、このほど江戸初期から幕末にかけての町屋群や街路跡などが広範囲で見つかった。28日には、説明会の形で現地の一般公開も行われ、江戸時代に栄えた街の古(いにしえ)の姿が、見る者の心にロマンをかき立てた。

 今回、見つかった場所は、JR兵庫駅南東に広がる「兵庫津遺跡」の一部で、今年2月から約1万6千平方メートルで発掘調査。同跡地は、2012年に同地 で発掘された戦国時代末期の「兵庫城」のそばで、江戸時代、港町や西国街道の宿場町として発展し人口約2万人の街となったとされるところ。「丁寧に、壊す ことのないように掘り出している」と、説明会を開催した神戸市教育委員会。町屋の中には、物づくりを生業としていた跡も見つかっている。

 確認された主要な街路などは江戸中期の「摂州八部郡福原兵庫津絵図」に描かれた建築模様にほとんど一致。街路と町屋の関係が具体的に広い範囲で調査によって確認されるのは珍しいことで、今回の発掘が、近世の町屋構造を示す貴重な遺構となるのは間違いなさそうだ。
(谷川しゅんき/関西ライター名鑑)

 

墓石壊して石垣に 兵庫城で“罰当たり”築城術

神戸新聞NEXT 5月21日(木)16時0分配信

「墓石(はかいし)を破壊した」-。なんてことがあったら、科学やITの普及で迷信や伝承が廃れつつある現代でも、しゃれでは済まされない。一言で表すな らば「罰当たり」。死者への弔い、そして祖先崇拝の思想が根付いている証しなのだろう。だが、当のご先祖さまが、墓石をぞんざいに扱っていた形跡がJR兵 庫駅南東の「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区)で見つかった。


 「ようこんなひどいことを…」

 西国進出を狙う織田信長の指示で安土桃山時代に建てられたとされる兵庫城。今年1月ごろに見つかった二重の石垣(全長約640メートル)の発掘調査で、神戸市教育委員会の学芸員が漏らした。

 次々に姿を現したのは、分解したり切断したりした石塔。現代の墓石に相当するといい、付近の墓地に室町時代~安土桃山時代ごろ、地元の領主らが設置したとみられる。

 市教委によると、総数は全体の1割弱、約1200点に上った。その多数を占める五輪塔は、土台の直方体を石垣の角などにあてがい、屋根形の部材は隙間 に、丸みを帯びた上部は内側から支える「裏込め」に使う。全身を4分割された地蔵や、墓地を囲む石柱なども石垣に組み込まれているのが確認された。

 「石材が貴重だった時代とはいえ、現代の感覚では考えられない」と首をかしげる学芸員。発見された五輪塔のほとんどが上部を切断されていることから、「後ろめたさがあり、魂を抜こうとした跡かも」と推測する。

 一方、元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川(さがわ)真一研究部長(仏教考古学)は、お盆の墓参りなど現代に根付く祖先崇拝が広く浸透したのは檀家(だんか)制度ができ、人と家、墓の結び付きが強まった江戸時代以降とみる。

 兵庫津遺跡では石垣のほか、周辺の町屋群の礎石や井戸などに幅広く転用されていたことも判明。「領地を制圧した見せしめに破壊したという見方もあるが、墓石に対する宗教的な意識が希薄で、墓地を石材の供給源として捉えていた可能性が高い」と指摘する。

 安土桃山時代の墓石の転用例は、姫路城(姫路市)のほか、安土城(滋賀県)や郡山城(奈良県)などの調査でも確認されているが、石垣の遺構がそもそも少 ない。兵庫城について、神戸市教委は「信長の築城技術や勢力拡大の背景とともに、日本人の祖先崇拝の変遷を読み解く上でも貴重」として分析を進める。

(小川 晶)


 【兵庫城】 兵庫津遺跡の一角から見つかった城跡。1580(天正8)年、織田信長の命を受けた家臣池田恒興(つねおき)が築城した。敵対する荒木村重 が治めた花熊城(花隈城)を解体し建築資材に使ったという。江戸時代は尼崎藩の支庁、幕府直轄領の出先機関として活用され、1868(明治元)年には最初 の兵庫県庁が置かれたが、6年後に運河の開削で本丸の大半が姿を消した。これまでの発掘調査で、天守台跡とみられる石垣のほか、周辺で町屋群などが見つ かっている。