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日本民族史の始まり

2018-09-08 15:57:44 | 日本史
日本民族史の始まりとはすなわち大体弥生時代の始まりだと考えています。日本では考古学が歴史学として扱われることからか、縄文時代を歴史として捉える傾向があると思いますが、歴史の史はフミであり文書ですから、文字資料が一切ない縄文時代を歴史として捉えることは無理があると思います。アメリカでは考古学は人類学の一部とされ、ヨーロッパでは先史時代を考古学的に研究する先史学という学問領域があるようですが、個人的にはヨーロッパのように縄文時代を先史時代として研究するのが妥当のように思います。記録がなくともずっと続いた日本列島人を人類学の範疇に入れるのは違和感があります。また、分化が早い島の琉球語と日本語が日本語族として学問的に同一の言語であったと捉えられることからも(琉球人が先住民ではないかという指摘は、琉球藩~沖縄県の成立の一連の過程から明快に否定します。ハワイ州が分けられないアメリカの一部であるのと同様、沖縄県は分けられない日本の47都道府県の一部でしかありません。一方琉球語を沖縄方言と捉えるのは無理があります。琉球国に文字資料が残っているからです)、縄文という長すぎるスパンに日本語に基づく文化的連続性を見ることは難しいだろうと思います。

歴史資料が多くなるのは勿論古墳時代に入ってからになりますが、弥生時代を原史考古学(先史考古学・歴史考古学に対して、文献や伝承がある程度存在しているが十分ではない原史時代の遺跡・遺物を研究する考古学)に含める説の方が妥当だと思っています。日本書紀・古事記は古墳時代以前の弥生時代を歴史として取り扱っていますし(皇紀は紀元前660年に始まりますが、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとされます)、中国の史書も弥生時代の倭人の存在を記述しています。大体が古墳時代と弥生時代の連続性を否定する人っていないと思います。稲作も共通しますし、弥生墳丘墓は古墳に繋がると指摘されます。大和朝廷は必ずしも異民族を征服したのではなく、大体日本人を統一したと考えていいんじゃないでしょうか(蝦夷はアイヌっぽいですが)。

弥生人は北九州で生まれたと言えるのではないかと思っています。朝鮮人は日本人が元朝鮮人と思い込んでいるようですが、言語学的に誤りは明らかですし、中国の史書にも朝鮮人は朝鮮人であると書かれています(古代の北朝鮮に住んでいた人々は中国の史書に韓国に住んでいる人々と違うみたいなことも書かれていますが、どの程度違っていたかに関しては良く分かりません。いずれにせよ、少なくとも三韓あたりの住民の大勢は古来より朝鮮人であり続けているでしょう。百済王族云々の話はありますが)。対馬水道は東の方が深く、氷河期の終わりと共に朝鮮人と日本人が別れてそのまま現在に至ると見るのが自然です(そこまで遡ると言語学的には同じだと辿ることは困難になると言われます。逆に弥生時代が朝鮮人によって始まったとするなら、言語学的にそのことが裏付けられると考えられますが、そうではありません)。最近知ったのですが、九州に自生するビロウが皇室の祭祀に使われることも元々は日本の起源は北九州にあったのだろうと推定する根拠になりえます(ビロウの北限は北九州で朝鮮は関係ありません)。神武東征の話も皇室のルーツが西にあることを暗示しているでしょう。三種の神器の剣ですが、銅剣は中四国九州から発見され、近畿は銅鐸だとされます。どうも記紀と考古学的遺物が重なるところがあります(邪馬台国の遺跡は年代的に南九州から出ないでしょうし、熊野から奈良に攻め込んだというような話も軍事的には考えにくいです)。

漢委奴国王印は教科書通りの漢の倭の奴の国王である可能性が高いと思います。委奴国(イト国=伊都国)説も有力なようですが、同じ後漢書に倭國王帥升の記述があり、イト国の記述がありません。漢書においても日本人は倭人です。倭人の国が倭国で倭国王に金印を贈ったのであって、イト国なる地方政権にわざわざ金印を与えたとは考えにくいところです。伊都国は魏志倭人伝にのみ見られる倭国の下の地方政権です(誤解があるようですが邪馬台国も首都にはあたるかもしれませんが倭国の一部に過ぎません。大和国は日本の歴史書における最初の首都ですが、国号は倭から日本に変えたのであって、対外的に正式に日本が「ヤマト」を名乗ったことはないと思います。最近の日本歴史学の造語であるヤマト王権という用語は意味不明で倭国か日本あるいは大和朝廷で良いと考えます。どうしても正解を出すなら、権威ある歴史書である日本書紀の記述(異説も併記されていますが)をそのまま正解にするしかないはずです。ヤマト王権って何だ?(2度目)当時の歴史書にも考古学的遺物にもそんなことは書かれていないし、歴史的に全く語り継がれていない言葉ですよね?史料的根拠を出せ。指すものが同じなら歴史的用語を使ってください!大和は当時の言葉でない?ヤマトも当時の言葉ではない。カタカナの成立は何時か。朝廷も当時の言葉ではない?王権も当時の言葉ではない。名前を変えたことを言葉を変えて追う必要はありません。織田信長は天文3年に生まれてない、織田吉法師が天文3年に生まれたのだレベルの屁理屈です。指すものが同じなら便宜上用語はひとつで構わず、わざわざ変える必要がありません)(日本という国は、鎖国という言葉がないから、鎖国がないと言い出す人もいますが、出島は何なんだよ?異人はオランダ人だけになってるが?という話です。鎖国と言えるような体制があるのだから必要に応じて鎖国という言葉を与えただけで、これは当時の用語になくても問題ありません。念のため)。奴国はそのまま魏志倭人伝に記載がある国で出土したとされる志賀島も奴国に近いとされます。委奴をイトと読むのであれば、金印にもなった由緒正しい表記を一々伊都に変える理由も必要かと思います。他に用例がないとされますが、漢匈奴悪適尸逐王の用例があり、匈奴が国で国は漢とあわせて二段であり悪適尸逐王は匈奴の王号に過ぎないとするようですが、倭に当たる匈奴の後から王の前に悪適尸逐が挟まれているのは事実であって、奴が何を指すか後漢の時点では明らかではないとも考えられます(文献上は奴国という国は次代の魏志の記述です)。いずれにせよ当時日本にいるのは倭王でしか有り得ない以上、委を倭の減筆としない限り(減筆が有り得ないという説はないようです)、倭国は何処に行ったの?ということになると思います。雲南省では類似の「滇王之印」という金印が見つかっているようですが、日本の金印にある明らかなる漢及び国王の文字がありません。漢の側に統一的な形式が存在したと見るべきではないのであって、金印に刻む文字は現地の要望などを取り入れた可能性があると思います。偽作説もあるようですが、概ね否定されているようです。偽作するのであれば、漢倭奴国王とか漢伊都国王にするべきであって、間違えるのが難しい間違いがあるように見えること自体、本物らしいとも言えます(刻まれている文字はさておいても他の出土品と比べて真と判定されるようです)。結局通説が正しいという話ですが、学説では時折異説が猛威を振るう時があるので、あえて言及しました。奴国の存在証明にはなりませんが、詳細はもはや分からないにせよ、とにかく倭国王の印なのだと見るべきでしょう。このあたりの時期では後の伊都国の領域に考古学的遺物が多いようですが、伊都国は後の魏志では1000戸の記述しかないことにも注意すべきです(奴国が一万戸です)。糸島半島はそう大きな半島ではありませんし、奴国は後の儺県(なのあがた)と言われ博多のあたりと言われます。遺跡が壊れた可能性もあります。1000戸にしては遺跡が大きいようですが、何か文化的な理由(例えば中国語の読み書きができないと中国と交流できないでしょうが、分かるものが少ない特殊な技術であったと考えられますし、西欧で言えばローマ教皇領はそう大きな面積ではありませんでした)や交易上の理由で(島津・琉球・堺・博多など)小さい「国」が栄える可能性もあります。いずれにせよ文化の高低と何処が覇権を握っているか必ずしも一致しない例は少なくありません。世々王有りの記述から伊都国と皇室が結びつく可能性がないとも思いませんが(ただし当時の倭王は明らかに邪馬台国王です)(倭王は共立されたとされており戦争で邪馬台国が勝って倭国を支配したとまでは書かれていません)、仮にそうだとしても伊都国の血統をもらってきたという話程度じゃないでしょうか。ヨーロッパなんかでは神聖ローマ帝国内諸侯からイギリス王になる人をもらってきていますよね。鎌倉幕府でも将軍は皇室や藤原氏からもらってきて得宗家が支配したりしました。この辺はどんなに推理しても確定的に分かる可能性はまずないんですが。結局古墳時代以前にも(つまり弥生時代に)金印をもらうような倭国は成立していた可能性が高いという話です。こういう文字資料に基づく話が(ごく部分的にせよ)できるから弥生時代は歴史時代にギリギリ含めて良く、一切文字資料に基づく話が展開できない縄文時代は先史時代にでも分類するより他ないと考えられます。素晴らしい縄文式土器も土偶も何の話か確実に分かるという人は誰もいるはずがありません。

中国から見て東の歴史に決定的な影響を与えたのは楽浪郡(紀元前108年~西暦313年)の成立であったはずです。中国による400年の現地支配が小さい出来事であったはずがありません。日本において中国の半島支配に一番近かったのが言うまでも無く北九州です。まぁ燕と倭人の関係もあったとされますが、地方政権ですし少し遠いのではないでしょうか。

日本における水田耕作の起源は山東半島ルートではないかと思います。南方の起源の稲作は紀元前3000年以降山東半島先端部に分布しており、日本においては弥生時代早期初頭約2600年前の菜畑遺跡、朝鮮においては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡が見つかっているようです。一度中国で北方適応後に何らかのきっかけで半島や日本に一気に広がったと見るべきでしょう。東北地方北部において約2000年前の垂柳遺跡が見つかっています。紀元前1000年の山東半島とは斉の国です。明らかに中国人ですから、日本人が中国人でない以上、中国人が日本になったと見る必要はありません。普通に技術が何らかの形で異民族に伝わったと見るべきです。明治時代に欧米人が日本人になったでしょうか?日本は何度も中国の技術を入れていますが、中国人が来て入れ替わった証拠は何一つありません。春秋戦国の中国に触れると、楚は南方土着の異民族みたいな言われ方をされることがありますが、自分は北方系の中国人だと思います。ギリシアとマケドニアみたいなもので、ちょっと毛色が違ったとかそんな感じなんじゃないでしょうか。じゃないと(自分だけ違うと)戦国七雄など成り立たないと思います。呉越も然りで普通に殷周からジワジワ広がったと見るべきでしょう。

沖縄と日本は同祖であるなら当然隼人も同祖になります。言語学的に同祖であっても異民族に見えることは歴史においてしばしばあるようです。

アイヌの起源ですが、東北地方北部と渡島半島に住んでいた人々には考古学的に強い類似性があったようです。地名にも東北には明らかなるアイヌ語地名(内=ナイが沢の類)が残っています。言語学的に同祖ではありません。北九州人が弥生人と考えると、東北地方北部まで距離がありすぎ、仮にかつて同じ民族だったとしても遥か遠い昔で完全に分化してしまったおり証明困難と考えるべきでしょう(個人的には環境が厳しい北回りではないと考えています)。東北人は血統的には「アイヌ」の血も流れているでしょうが、言語文化歴史による系統的には日本人だと考えられます(東北弁と畿内の言葉の関連性)。

民族・技術の動きに関して言えば、一般に東西の動きは直ぐに拡大します。気候が似るからです。南北は気候・風土が異なりますので、長い時間をかけておしあいへしあいしますし、同祖でも違いが大きいということになりやすいようです。

台湾の歴史を見ても沖縄ですら大勢として南方経由は有り得ないと考えていいと思います。古い時代に大海は簡単に地域を分かちます。ポリネシア人は特殊な海洋民ですし、あるいは日本に迷い込むこともあったかもしれませんが、簡単に現地民に吸収されたでしょう(南アメリカにおいてもそんな感じだったと思います)。水田耕作は勿論陸でやるものであって、魚は食べますが我々は概ね海洋民とは言えないと思います(何処と比較するかによりますが)。南九州人が種子島→奄美→沖縄と渡って、日本の影響が中々及ばない沖縄本島民が独自に琉球国を建てたものだと思います。鎌倉時代の千竈氏の奄美支配の影響と後の琉球王国の成立(1429年)に何らかの関連性があるようにも感じています。いずれにせよ、日本人は中々種子島(及び屋久島)以南を直接支配は出来ませんでした(琉球王国において士族が佩刀を禁じられるなど島津氏や江戸幕府の支配が部分的に及んでいたところはあります。その意味では蝦夷地と同じでしょう)。東シナ海を渡ることに関しては既に遣唐使など日本古来に例があり、琉球の大陸との貿易をもって南から北への伝播を見ることはできないと思います。

※11月19日日本史の始まりを日本民族史の始まりに改題。カテゴリーを変更。