観測にまつわる問題

政治ブログです。「保険」「相続」「国民年金」「AIロボット」「運輸エンタメ長時間労働」「GX」を考察予定。

四国八十八か所の起点は?

2024-06-18 04:41:45 | 日本地理観光
四国八十八か所の起点は?徳島です。終点は香川。元々高野山や京都との連携が前提じゃないでしょうか。その意味で紀淡海峡ルートは四国を見つめ直す機会になります。既存の岡山や広島や神戸との連携も大切ですが、四国には四国の事情があると私は思います。

香川の倭迹々日百襲姫命像とか、「邪馬台国徳島説」とか、東四国は大和朝廷の全国への飛躍に深く関わっていると見られます。四国と奈良や和歌山との連携強化がもつ意味も小さくありません。伊予の湯も大和朝廷との連携が売り。伊予国府や越智氏も奈良との連携。伊予と吉野の南朝の関りも深い。

愛媛から奈良は、現在の岡山ルートを勿論活用できますが、国際線(関西空港)とのアクセスが良くなり、環状線で渋滞を回避できるというメリットがあると思います。豊予海峡ルートの本命は道路(鉄道も必要)。物流の再編になると思いますし、関門海峡への過度の集中も緩和される。

愛媛と高知の連携

2024-06-18 04:17:25 | 日本地理観光
松山には坂の上の雲があるから、親藩ですけど、意外と明治維新に親近感はあります。宇和島藩も維新で活躍していますしね。脱藩の道もありますし、高知とは上手くやっていける。明治維新の脱亜入欧は功罪あると思いますが、日米同盟基軸の戦後政治で学ぶことは大きい。強くてニューゲーム。今度こそ。

西園寺氏と土佐一条氏も似ていると言えば似ている。西南四国はもっと連携していい。四国中央市ももっと高知や徳島との連携を増やさないと、その立地を活かせない。道路では中央なのだから、鉄道の中央を徳島に譲る考えでもいいのではないか。

日本の目指すべき観光政策

2023-09-25 15:51:52 | 日本地理観光
まず、インバウンドですが、良くも悪くも放っておいても増えます。日本は(魅力は十分あると思いますが)観光客が国際的に少ないですから。増えると、勿論収入になりますが、オーバーツーリズムといったデメリットも否定できません。ですから価格を上げて、数を抑制することは考えていいでしょう(少なくとも数を求めて、優遇したり、お金をかけたりすることありません)。日本円が買われると円高になるという副次的効果もありますが、旅行業界は低賃金の業界なので、インバウンドの増加につられて、ここに国運をかけるということは有り得ないでしょう。

では観光は重要ではないかと言えば、特に地方では違うんだろうと思います。勿論、インバウンドにおいては魅力的な観光地とは、大都市です。しかし、地方は人口減少に悩み、仕事がないんですね。特に優遇しなくても機能するのであれば、インバウンドがあってもいいとは言え、どの道、現在の日本の観光業界は内需産業です。インバウンドが注目されたおかげで観光と言えば、外需のようなイメージがあるかもしれませんが、内需を取りに行く意味でも観光は重要な訳です。マイナーな地方の観光地は日本人が支えてこそでしょう。その上でプラスアルファとしてインバウンドというのが標準的な観光のあり方と思います。まぁ世界遺産があるような世界的観光地であれば、普通にインバウンドを取りに行けばいいと私は思いますが、それでも国際共通語の英語と日本語の二本立てぐらいがちょうどいいような気もします。多言語対応は今時アプリで十分でしょう。

そもそも観光とは何でしょう?食・宿泊・土産が三本柱のような気もします。最近では体験型観光も流行りかもしれませんが、実際に来てもらって、買ってもらうことが重要な訳です。食は一次産業と相性がいいですが(北海道と言えば、観光地であり、食料生産地です)、土産も一次産業や工芸品と関係があります。つまり江戸切子のような例もありますが、地方で地場産業を育てることに繋がる訳です。明治時代の母体となった江戸時代は幕藩体制で各藩は特産品開発にやっきになり、北前船等、廻船網が発達していました。また(旅行の先駆けとも言える)「西国巡礼」やお伊勢参りなんかも国内経済を活発にしたと思います。そうした歴史を念頭に行われたであろう(補助金を注ぎ込んだ)一村一品運動は功罪あると思いますし、ふるさと納税もそうですが、日本の地方に歴史と文化はある訳ですから、それを活かさない手はないと思う訳です。勿論、売れないものをお金をかけてつくっても仕方ありませんよ?首長の手腕も問われるでしょうが、やる気があるのであれば、特に禁止することも無いと思う訳です。地方地方に特色もあるでしょう。半導体産業もいいんですが、日本が半導体工場だらけになる訳でもありません。これまで培ってきたものづくりの精神でやれるだけやればいいんじゃないでしょうか。むいてそうですしね。とにかく、地方に仕事がありません。先進国で(途上国の中心産業であるところの)一次産業は金食い虫ではあると思いますが、農地と働き手を確保しておくことは、食糧安全保障の観点から無駄ではないと信じます。宿泊ですが、観光地にお金が落ちる有力な手段です(日帰り旅行ではお金はそれほど落ちない訳ですが、インバウンドが国内旅行に比べて優位にあるのはその辺です)。特に京都・奈良のような多数の見るべきものがある観光地であれば、宿泊で拠点を持つことは重要でしょう。その点、京都・奈良はほとんど全てにおいて落第していますが(奈良にうまいものなし、宿泊拠点に乏しい京都・奈良)、まぁ(全国から一次産品や工芸品が集まる)首都だったので仕方がないのでしょう。京都・奈良は遷都に期待するのでは勿論なく、観光地らしい儲かる観光政策を追求すれば、ポテンシャルは大いにあるでしょうし、せっかくある地元の歴史文化を活かすことになるんだろうと思います。

京都市の人口流出と税収、インバウンドの拡大

2022-10-20 01:15:26 | 日本地理観光
ビジネス特集 なぜ京都市が?人口減少が全国最多 - NHK(2022年10月18日)

京都市は日本一の観光都市でありながら、他都市と比較して税収が少ないというのもありますね。日本政府もインバウンドをやるなら、観光と税収について考えないと。人口減少については大都市なのに(景観を守るため)高層マンションが建てにくいことが影響しているんでしょうか。景観を守るのはお金がかかるのかお金になるのか。まぁお金が全てではありませんが、お金がないと国も守れない訳で。

躍進するインバウンドから

2019-11-15 16:33:38 | 日本地理観光
訪日客が過去最高 インバウンド取り込みで佐賀、青森が躍進(2019/09/11 J PRIME)

 2013年~2018年の訪日客数増加率が最も高かったのは佐賀県で6.75倍に増えています。タイの映画ロケを誘致したことなどが功を奏したようですが、タイは成熟しつつあるとはいうものの、だからこそ旅行する余裕があるとも言え、親日度ランキング1位で旅行先として日本は4位だそうですから、まだまだ潜在的に旅行者が伸びる国ではないかと思います。旅行先で多いのは東京でタイは暑いのであまり歩かず、公共交通網が充実している地域を選んでいるそうです。佐賀が伸びたのはロケ地を中心にしたツアー商品が人気だからのようですが、伸びる東南アジアをターゲットにする場合は、あまり歩かないを意識するべきなのかもしれません。同じく暑さで甘いものが好きなど特徴があって、戦略的な対応でタイ人に選ばれる観光地をつくっていける可能性もあります。タイ自体旅行先では日本の先輩とも言える観光大国で、インスタ映えする観光地が多いだけでなく、新しい観光スポットも強化されている最中のようです。貿易収支は日本の黒字で来てもらうだけでなく、こちらから行くという意味でも注目の国だと考えます。
 2位の青森県は台湾で注目があり、特に10,11月の奧入瀬渓流の人気が高いようです。台湾人の日本観光の最大の目的は風景・景色の観光だということですが、台湾の場合は緯度が高く四季がハッキリしてないから紅葉に注目があると見られます。漢民族で風景と言いますと、山水画が想起されます。山水画とは再構成した「創造された景色」なのだそうですが、矛盾するようですが、身近な自然というより、言わばある種不自然な自然に興味があるとも言えるのかもしれません。紅葉に関する観光需要は台湾に限らずあって、香港人は都市生活で(香港では自由に出来ない)サイクリングが好きなど日本の自然でノンビリしたい需要があるようです。グランピング(ラグジュラリーなアウトドア体験)需要もあるとか。対して台湾人は鉄道好きで紅葉だけでなく温泉や日本庭園といった日本文化に興味があるとか。タイ人にも紅葉ツアー人気があるようですが、やはり四季が明快でないところに需要があるのかもしれません。欧米人にも日本の紅葉ツアーへの注目があるようで、日本は長期休暇を利用した国内需要が比較的秋に少ないと考えられますから、観光地にとっては開発に取り組む意味は小さくないのではないかと考えられます。台湾人が鉄道好きの理由はよく分かりませんが、台湾は日本と同じく人口過密の島とも言え、観光の足としても鉄道が成功していることが理由として挙げられるのかもしれません。八田ダム(烏山頭ダム)に対する注目もあると思いますが、公共投資に対する興味があるとすれば、インフラツーリズムなんかも興味ないかのかと思わないでもありません。
 3位の香川は瀬戸内国際芸術祭に注目があるようです。芸術祭で検索するとさすがに瀬戸内が上位を独占していますが、東瀬戸内も自然環境や歴史と文化では負けていないでしょうし(芸術祭ファクターを脇におけばポテンシャルはあるという意味です)、種子島宇宙芸術祭なるものも2017年からスタートしているらしく、日本各地の地域の特色を活かした芸術祭が他にあってもいいんじゃないかと思います。瀬戸内芸術祭は3年に1度で春から秋にかけてのイベントですが、知名度向上による香川人気という波及効果があるらしく、瀬戸内芸術祭は成功事例として注目があるようですが、上からのトップダウンのボランティアを募るやり方ではなく、ボトムアップの瀬戸芸サポーターの「こえび隊」の役割が大きいとされています。住民主導で(傍観者にならない)自分ゴト化や地域ゴト化が鍵だという見方があるようです。
 4位の岡山はLCCによる拡大だそうですが、白桃ツアーに人気があるとか。岡山では他にブドウも全国ランキング上位の産地のようですが、観光農園の主たる課題はオフシーズンの取り組みだと思います。値段を下げてバーベキューをやる観光農園も検索上位(観光果樹園 オフシーズン)で出てきますし(アウトドアは近年好調のようで、車なんかもRV人気の時代です)(シーズン中でもやっているバーベキューの取り組みをオフシーズンでも値段を下げてやるという形のようで、経済原理に則った取り組みに見え、にわか感がないのがいいのかもしれません)、イチゴ農園でジャム作りのような可能性を探る動きもあるようです。また中四国に向かう玄関口としての位置づけもあるようです。広島市との行き来は船が便利だよねという中予人としては、まぁ地理的にそうなるかという気もしますが(岡山を基点に周遊するのが利便性が高いという意味で、あるいは岡山に隣接する地域に岡山から行く需要があるという意味で、直接中予に来るのに岡山から来ているという意味ではさすがにないんだろうと思います)(瀬戸大橋が中四国の底上げに繫がっているのは明らかで、第二国土軸に特に関空からの人の流れの潜在需要もありそうで、神戸とあわせて徳島だけでなく関西と四国もテーマであっていいとは思いますが)(しまなみ海道は周遊ルートに使えますし、島自体の魅力も高く、潜在性は高いと思っていますが、建設前から広島市と松山市を繋ぐルートとしては遠回りになることは前提で建設したと思います)(大和ミュージアムの呉と松山を結ぶフェリーもあり、船旅もそれはそれでいいものです)、瀬戸内芸術祭に対する拠点として岡山県宇野市に対する注目もあるようで、県域を跨いだ移動も視野に入れないと観光政策は難しい時代なんだろうと思います。
 訪日客の数的には東京が多いようです。元々首都圏で人口が多い上に、LCCへの取り組みでも関西に遅れた感じですから、一極集中の流れも今のところ止まるところを知らないようですので、やればやるだけ成果が出るんでしょう。新宿・新大久保、銀座、浅草といった定番が人気のようですが、東京というのは首都ですから課題も多く観光開発は二の次になっているとも考えられます。アジアはおろか世界最大の都市としてパリやロンドン並みの注目があっても筆者はいいと思っていますが、夢は大きくワシントンD.C.兼NYぐらいを目指して欲しいところです。五輪後云々なんてものは偏差値秀才の勉強してないぐらいの眉唾ではなのかもしれません。
 2位は大阪で、関西の盟主として他県との連携や波及効果はどうなってるの?という気が少ししていますが(隣県どうしの緊張感あるあるは良く分かるのですが、東京は隣県同士のライバル意識はともかく東京に対するライバル意識はあまり見らないような気がします。首都じゃない・規模が違う・伝統が違うと言われればそれまでかもしれませんが、京都や奈良のような大阪に対して上に立てるだけの文化遺産がある県ばかりではありません)、忽ちは百舌鳥古市古墳群で奈良県との連携も気になるところで、リニアや北陸新幹線、万博といった新しい話題も絶えない今後も要注目の地域だと思います。
 3位は福岡で福岡空港も拡大しますし、これまた注目の地域ですが、福岡県というより福岡市に勢いがあって、九州の首都的な位置づけで成長する福岡市がどう九州と共存していくかがテーマではないでしょうか?アジアに近いことに優位性はありますが、アジアの玄関口としては今の時代飛行機でひとっとびですし、中々難しいところもありそうですが、スタートアップに対する取り組みがあるように、恐らくアメリカ西海岸がモデルと思いますが、玄関口として実質的に機能することを目指すのであれば、まずは福岡市に1度止まらなければならないのではないかと思います。ただ世界の玄関口を目指すのであれば、広島にも神戸にも中部にも仙台にも国際空港はありますし、北海道や沖縄も国際的な拠点としてポテンシャルはあろうかと思います。確かにそうした地方の拠点都市は放っておいても内需で食べてはしばらく食べてはいけます。しかしながら、増える人口は何処からか移動してきているのであって、大都市が自ら子育て環境等を整備して産み出したものではありません。地方の方が国際都市になるのはよほど特徴がないと事実上不可能でしょうし、可能としてもアクセスする交通手段の問題があります。責任野党という何だかよく分からない言葉がかつてありましたが、国際都市の取り組みは国際的活動をする能力がある都市の責任でもあるんじゃないかと思いますが、如何でしょうか。
 米国の旅行者が宿泊費にお金をかけているということで宿泊費に注目してみますと、日本人の平均宿泊費の上昇に対して、訪日客の平均宿泊費は下がっていますから、全体的な流れで言えば、裾野を広げるのがインバウンドで(賑わいをつくるとも言い換えることも出来ます)、ハイクオリティを目指すのが内需という位置づけになっていると思います(ただし休みがとれない日本人のオフシーズンの問題も依然としてあると思います)。円高傾向で海外旅行を謳歌しているのも実は日本人なのかもしれず、能ある鷹は爪を隠すとは言いますが、目の肥えた日本人が多いのだとしたら、逆輸入で真摯に他人の意見を聞ける日本人は一方で素晴らしいとも思うものの日本に対する目利きとしての実力も発揮してほしいところです。贅沢禁止令で裏地に金をかけた江戸っ子の末裔がどれだけいるか分かりませんが、上に倣えで皆節約倹約では一番大きい内需が詰んでしまうのは火を見るより明らかです。ノーブレスオブリュージュとはよく言ったもので、お金がある人ほど変な話お金を使う責任があるという見方が生じた時、日本経済は劇的に復活するのかもしれません(反対とかヘイトとか嫉妬とかのマイナスパワーは賛成とかのプラスパワーを吹き飛ばしかねない力があるように見えます)。金は天下の回り物とは言いますが、税収を直接は産まない公共事業の文脈で使われる言葉なのが気になっている次第です。米国の旅行者の宿泊費に戻ると、内需主導でハイクラスの観光需要が伸びれば、世界は広いですから、後からついてくる面もありそうで、海外評価で逆輸入ばかりに期待するのは円高トレンドで難しいのかもしれません。客観的評価を忘れる必要はありませんが、一種の自己評価に取り組むのが今の日本に必要ではないでしょうか?なお円高トレンドは日本の輸出産業が強い証拠なので、弱くならないと円安トレンドには基本的にはならないはずであり、日本の強い輸出産業が没落したら少なくとも現状で日本経済自体が底抜けしかねませんから(お家芸とも言える自動車でも自動運転の波もある等、厳しい国際経済で何があるか分からない部分もありますが)、円安を前提とした政策なんてものは危機管理の部類であり、変動の一部を切り取ったものにしかならないと考えます。

※筆者のfacebookコメントより転載

山陰インバウンド雑考及び拉致問題小考

2019-11-05 06:09:27 | 日本地理観光
 拉致問題の早期解決を願う国民の集いが10年連続して米子での開催ということですが、米子は江戸時代に日本海海運で栄えた米子商人の拠点であり、あえて挑戦的な言い方をすると、日本の海を守ることが拉致被害の再発防止に繫がるのであって、専門家の発想もいいのですが、日本海を活用している人が日本海も一緒に守っていくという考え方もあろうかと思います。攻撃は最大の防御という言葉もありますし、日本が侵略国家になろうという訳ではありませんが、攻撃している間は攻められにくいところもあって、受けに回ると主導権を握られますから、守り中心なら籠城戦やカテナチオぐらいの防御力は欲しいところです。それはともかく、漁業者は不審者を見つけたら、漁業権との絡みで水産庁に通報することになっているようですが、海上保安庁との連携はどうなっているのだろうとふと思いました。漁業に限らず、海運関係の方々に海の監視の協力を要請できれば、海保の人員不足傾向を緩和し、なおかつ海の守りを飛躍的に高められるかもしれません。現時点で拉致を実行したあの国は漁業戦闘なる行為を日本海で行っており、戦いの相手は国交のない我々なのかもしれないという自覚が必要なのかもしれません。要は日本の漁場を荒らすことを意識して戦闘とか言っている可能性があります。戦闘には嘘がつきものの一面があり、大和堆を北朝鮮の漁場と信じているのではなく、確信犯的に嘘をついてある意味日本に侵攻しているのではないでしょうか?向こうの土俵に下りるのは残念ですが、連中の拡張された戦闘行為をどうにかしない限り、舐められてしまって交渉どころではないということなのかもしれません。警戒している相手には手を出しづらいという面も大きく、北朝鮮は警戒すべき相手でしかありません。そういう意味で米子という日本海随一の日本の拠点とも言える都市で拉致問題が話し合われてきたことは意義深いものがあるように思います。米子の近隣の境港は代表的な日本海の漁港でもあり、一帯は隠岐の島との関係も深い地域です。
 >外国人観光客の受け入れに積極的な松江城や大山隠岐国立公園、そして水木しげるロードでは、輸出に力を入れている酒蔵や外国人向けの地元農産品のアンテナショップなどを訪れました。地方経済にも大きく貢献する外国人観光客の受け入れに、来年4000万人の目標達成を目指して、さらなる環境整備を進めてまいります。・・・松江城のウィキペディアを見ていて人柱伝説かよ!と思いましたが、あれ多分、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)や記紀神話の黄泉の国/イザナミや水木しげるロードと併せて意識的にやってるのかもしれませんね。怪談話が好きな人は恐怖を自然なものとして受け入れているという考え方もあるようですが(特集「怖い話のウラ側」 ダヴィンチニュース)、裏を返せば勇敢な人があえて恐怖を好むのでしょうし、出雲は古事記の神話の主たる舞台の一つでもあって、イザナミの黄泉の国が地上の何処かにあったという話もありますが、撃退したのは桃の種で吉備との関連性も気になるところで、山陰地方ならではの怪談・妖怪がご当地観光の一つの売りになるだろうと思います。インバウンドに関連してクルーズ船が境港に寄航して、中国人観光客が水木しげるロードに訪れたニュースがあるようで、日本の妖怪をどう思ったか反応が気になるところですが、仁徳天皇紀の吉備中國川嶋河派の大虬はみずちですから、蛇ではなく、山海経にいう蛟=蛇似で角と四本足を有する水棲生物で、毒を吐く伝説上の妖怪ではないかと思います。つまり山海経には倭が登場しますし、当時の知識人は読んでいたのではないかと。仁徳天皇紀には他に飛騨に両面宿儺なる妖怪が登場していますが、二面四手が三面六手の阿修羅の祖形のようにも見え、こちらのルーツはインドや仏教の影響が気になっています。仏教の伝来は欽明朝が嚆矢とされますが、仏教は中国や百済では当時流行があったと言い、接触があった日本に何らかの影響があって不思議ではありません。飛騨は匠で知られますが、鶏が先か卵が先か仏教建築で動員があったことで技術を伸ばした一面があるような気がします。「怪談」は「怪力乱神」を語るものとは言えど、読みようによっては含蓄があるとも言えそうですし、ホラーは人気がある一ジャンルではあって、山海経がある種重要古典として残っている中国にはそういう嗜好が小さくないようにも見受けられます。
 松江城ですが、松江城の本丸は有事の際にだけ使用される「詰の丸」であり、天守は倉庫として使われていたのだそうです。また、松江城の防御のために厳重な築造がなされる正門の大手門は江戸城や大阪城に匹敵する規模ですから、松江城は防備に特化した城と言えそうです。山城は一般に詰め城というのがありますが、守る時は防御力が高い山城で平時は麓の館は戦国時代の遺風を残していると評価できます。また宍道湖北岸の湖城とされ、今は埋め立てている部分があるのか知りませんが、明らかに南に対する防御を意識した城だと思います。宍道湖・中海を天然の防壁と捉えるなら、アクセスしやすい交通路は限定されますし、北側には島根半島も横たわり、海側からの侵入も決して楽ではなさそうです。築城は関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)だそうで、月山富田城からの移転で築城したようです。月山富田城は山陽の毛利VS山陰の尼子の舞台で尼子氏の居城です。堀尾氏も入部するにあたって元々の住民や武士達に配慮・研究したようにも思え、また東軍方として西軍の雄の毛利氏の侵攻に対する防備を意識した城に違いありません。月山富田城をそのまま使わなかったのは、手狭で平時の拠点としての不便を意識したに違いないと思いますが、それでも当時として実戦を意識した城なんだろうと思います。今では県同士の戦争は考えられない時代ではありますが、今でも何処か山陰地方は山陽なにするものぞという気風が残っているように見えることもあります。
 山陰地方で唯一の現存天守で、国宝指定された5城のうちの一つでもあり、つまり残りがいいという点で特に価値ある城のようです。石垣の積み方は牛蒡積みというようで、石垣のルーツは近江(滋賀県)の穴太衆(明智光秀でも話題になる坂本付近の)にあるとされ、穴太衆は比叡山山麓に居住する古墳築造などを行っていた石工の末裔と言いますが、成務天皇の志賀高穴穂宮を嚆矢とし、あるいは戦国時代まで間を繋ぐピースは山門の発注だったかもしれませんが、だとするならば、前方後円墳の(板石で造る)竪穴式石槨や古墳時代前期の讃岐の積石塚と関係する可能性があります。ブロックやプラモデルじゃありませんが、今時3Dプリンターもありますし、牛蒡積みなる石の積み方が何処がどういう風に地震に強いのか実験というか直感で分かるような取り組みがあると勉強になるのかもしれません(丸い石の組み合わせが安定しないだろうことは分かりますが、石垣は外目には丸い石の組み合わせに見えます)。石垣の巨石の運搬は謎とされますが、長い石なら(整形している石は)転がりにくく引っ張りやすいというのもありそうです。石垣の石はサイコロ状でもないようですが、そうしないのには意味があるそうです。
 大山はダイセンと読み、山海経はセンガイキョウで、山に人と書いて仙人のセンですが、山をセンと読んでいた時代の読み方が残っているようにも見えます。円錐状の山で最高峰だから大山と言ったように見え、つまりは出雲伯耆(山陰)から見て大和・筑紫・瀬戸内・北陸ぐらいまでが日本だった頃の命名ではないでしょうか。円錐形の山は大和でも尊ばれ、富士山を意識していたか知りませんが、大和三山の畝傍山・耳成山を挙げることが出来ます。
 インバウンドの魅力に日本の自然もあるようですが、大山南麓の鍵掛峠は絶景だそうです(鳥取県の写真・インスタ映えするスポットまとめ 山陰ペディア)。大山まきばみるくの里も観光地として有力そうですし、大山の魅力は訪日客をも満足させること間違いなしだと思います。

※筆者のfacebook記事から転載。

京都観光考

2019-11-04 12:50:13 | 日本地理観光
 最近オーバーツーリズムで話題もある京都の観光について考察してみました。結論から言うと、リピーター重視の戦略を柱に据えてみてはどうかと思います。というのも京都は日本で一極集中とも言える伝統文化の集積を見せる地であって、つまり観光名所が多過ぎて的が絞れない地域だからです。仮に漠然と京都の魅力を高め、観光客を増やしたとして、オーバーツーリズムの問題が台頭するだけであり、現に今そうなっていると言われています。これに対して顧客重視のハイエンドの戦略なら、単価を高めるでしょうし、オーバーツーリズムの弊害を緩和することが出来ます。京都は元来5回以上の訪問の観光客が8割を超えており、最初からそういうヘビーユーザー層が訪れる観光都市と言えるようですが、修学旅行のイメージや日本の伝統的文化の中心地のイメージやインバウンド増の文脈でその特色があまり意識されないまま、議論されている気がしてなりません。京都は伝統と革新が並存する街とも言われますが、伝統もただ残すだけではなく、戦略的な発想で元々あるものを活かしていかないと、千年都市としての尊敬を取り戻せない時代になってきたと考えます。あえて刺激的な言い方をすると、売り出すのは京都では実はなく、京都に集積している文化伝統それぞれではないでしょうか?
 例えば代表的日本文化の茶道で言えば、裏千家の活動は海外に広がっており、裏千家の茶道総合資料館が上京区にあるようで、日本全国、世界中から茶道を志す良質の「観光客」を集めていると思う訳です。京都府のインバウンド需要 | 訪日ラボを参照すると、京都府のインバウンド消費金額は全国33位ですが、京都府に来ている訪日外国人TOP5のインバウンド消費金額で断トツなのはアメリカです。京都府に来ている外国人の数だけで言えば、中国人が4割で断トツであり、京都の観光客数は容量の問題で頭打ちだと言われる中、中国人も含めて注目されるべきは質の方です。中国人は古き良き唐の文化を京都に投影しているとも言い、確かにそういう見方も成り立つでしょうが、例えば裏千家の茶道をアメリカでやっていて、京都に観光に来ましたという方が、京都でなければならない動機を持つ京都が大切にしなければならない顧客なのではないかと思います。京都は日本が誇る伝統文化の集積地なのであって、ヘビーユーザーを誘うコンテンツに事欠きません。
 京都観光の問題点に足があると言われます。電車の便は悪く、バスの路線は複雑で、広大な京都であれば、もっとも良い観光客の足はタクシーなのかもしれません。観光客を案内する観光タクシーも有名なようですが、流しのタクシーが8,500台京都市内を走っていると言い、タクシーが捉まらないということはない世界だそうですが、春秋の観光ピーク時には空車がほとんど無くなるのだそうです(タクシーに関する疑問はココで解決 プロが語る!タクシー観光のコツ All About)。ピークにあわせたギリギリの数かもしれませんが、通常時に捉まらないといことがないのであれば、利便性だけで言えば、流しのタクシーで観光は事足りると言えます。戦略は総花的になっては意味がありませんから、観光を意識した京都の都市政策とはタクシー・車を意識した政策になるのではないでしょうか?つまり交通渋滞がなるべく起こらない交通政策・都市政策を意識するべきですし、北陸新幹線駅の周辺には広い駐車スベースや広い道が必要ですし、首都圏に三環状道路がありますが、空港や人口集積地からの導線と通り抜け需要がバッティングしないようにするのも一案です。観光ピーク時だけ営業する安い観光タクシーという考え方があってもいいかもしれません(短期バイトのようなもので探せば成り手はいそうです)。京都は知りませんが、タクシーは通常個別の会社にかけるものだと思いますが、近頃はタクシー配車アプリもあるようですので、そうしたネットワークが機能するようにしていけば、顧客の利便性・満足度は高まるはずでしょう。
 泊食分離という考え方も最近、注目されていますが(泊食分離(はくしょくぶんり)で旅館の稼働率をアップ。 インバウンドNOW)、京都こそ伝統的な都市であり、また一方で新し物好きの一面もあるようですから、泊食分離を意識した観光政策も有り得そうです。泊食分離とは要は宿泊施設が食部門を抱えず、周辺のレストラン等を利用するという考え方ですが、餅は餅屋で京都には良い食文化がそもそもあると思います。宿泊施設不足が言われて久しい京都ですが、宿泊施設を例えば寧ろ良い食べ物屋が集積している地域につくってしまう訳です。そうすれば、長期滞在してくれる質の高い顧客が京都の食文化をジックリ楽しめるという次第です。京都はインバウンドにおいては(米食圏の)アジアの観光客が多いようですが、京都人にはパン好きの一面もあると言い、旅行先で食べ慣れたものを食べたいという需要は多いと思われ、あるいはインバウンドが京都の美味しいパン文化を拡張するきっかけにもなるのかもしれません。ハラルミートも言われる昨今ですが、旅行における食の比重は大きいと思われ、選ばれる観光地、飽きの来ない観光地を目指すには分厚い食文化を選んでいけることも大切だと思われます。ドバイで茶道の売り込みもあるようですが、自家用ジェットで京都に来る日が来るかもしれません。そもそも宿泊施設が足りない環境下においては、泊まるために食を我慢するケースも多いと思われ、そのような状況下で顧客満足度は高まってきません。
 宿泊施設不足そのものに関して言えば、長期滞在型施設の周辺での規制緩和が考えられます。逆に言えば、駆け足型の観光に関して言えば、最悪宿泊施設が京都になくてもいい訳ですし、京都につくるのであれば、最近は朝観光・夜観光の取り組みがあるようですが、景観に配慮しながらも、そうした宿泊と一緒に京都ならではの散策が楽しめる地域につくってしまうのも一案です。
 あるいは寺に泊まる動きも最近はあるようですが(お寺や神社で修行体験!一度は泊まってみたい宿坊5選 一休コンシェルジュ)、京都ならではの伝統的宿泊を創造してみることも考えられます。宿泊施設が足りないようですし、広いスペースはあって、提供する宿泊文化や食文化、体験できる文化もあるのですから、チャレンジしてみて損はなさそうです。何事も最初は始まりがあります。京料理は和食ですが、寺社仏閣とも密接に結びついており、京野菜の需要が伸びれば、京都府にも恩恵があります。精進料理と禅宗が密接に結びついていることはよく知られる通りです。
 イベントで言えば、例えば平安神宮の時代祭は最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続くようですが、明治維新の主要な舞台の一つに京都があり、藤原時代/平安時代がもっとも京都が日本の中心だった時代であって、明治維新まで皇居があったという意味では首都であり続けた訳であり、それぞれの時代の文化施設・見るべきものが京都には多いのは勿論ですが、延暦時代とは平安京を造った桓武天皇の時代で昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号なのだそうです。応永は金閣寺の足利義満の時代で室町時代であり武士の都が京都にあった時代ですが、安土桃山時代の桃山は京都市伏見区桃山地区の伏見桃山城のことであり、豊臣秀吉の築城であって、一時代を築いて時代名にもなっています。足利氏の邸宅を花の御所とも言い、足利義政の銀閣寺もそうですが、室町時代は京都が特に日本の文化の中心地と言えたもう一つの時代であり、豊臣秀吉は近場の巨大都市大阪府の象徴的存在でもあって、大阪京都にライバル的な関係があるにせよ、大きな内需もあるかもしれません。もっとも著名な茶人は千利休で後世の茶道に与えた影響は極めて大きなものがあると思いますが、千利休は最期は悲劇でしたが豊臣秀吉に仕えてズバ抜けた存在になったところもあります。京都の郊外と言えば宇治はブランド化しているとも言えますが、桃山文化の桃山(伏見)も市内とは言え、本来的には郊外のはずで、伏見稲荷大社の千本鳥居など見るべきものは多く、このあたりも京都が日本文化の中心とも言えた時代だと言えるかもしれません。江戸は上方文化があり、吉野は皇室贔屓で武家から政権を奪還したと言える後醍醐天皇を意識しているのでしょうが、鎌倉時代というか(源平)武士の時代の起こりは京都にあるとも言え院政時代は京都が舞台で、京都で武家を意識するのは意外と本質的で根源的なところがあると思います。結局のところ千年の都には所謂平安文化だけに収まらない伝統や魅力もあって、テーマ別に時代背景を深く知っていれば、時代祭もより楽しめるのかもしれませんが、言いたいことは人気観光地を廻る修学旅行的旅行のその先に京都に関心を持って個別のテーマを廻る観光も有り得るのではないかと思います。そう考えると、京都観光に求められるのはブ厚い事典のような観光ガイド本・データベース・アプリなのかもしれません。何でも西欧とは思いませんが、彼の地のガイドブックはブ厚いと言い、研究熱心な観光に潜在需要はある可能性もありますし、そうでなくても京都は京都検定の地ですし、文化遺産を守るのに目録は必須でしょう。多言語対応も視野にあっていいはずです。
 清水寺は京都の代表的観光地ですが(KYOTOdesign)、戦火や火事で焼失した歴史もあり、現在の本堂は徳川家光の寄進によるものだそうで、千年の都が千年の都たる所以とも言えそうです。伝統で風雪に耐えた古さは重要ですが、失われても蘇るところに伝統文化の強さがあって、新しい技術によるバージョンパアップに見るべきものもあると思います。清水寺の懸造りが何時からある技術か定かではないようですが、山岳寺院で見られる建築様式であり、江戸時代の町家にも見られるようですが、さすがに元々あった様式を復活させたのでしょうが、その技術のルーツを探ってみるのも面白く、日本に波及効果もありそうです。京都が伝統建築の集積地なのですから、技術史的視点で京都の建築を解明できれば、日本の伝統建築そのものを半ば見切ったと言えるのかもしれません。歴史を知るのは今を知る一面もあると思います。
 事典を書ける知識もありませんし、以上としますが、京都の深い魅力を掘り下げることで、京都の観光の問題の解決の一助となり、日本や世界に波及効果もあろうかと思った次第です。

八雲立つ出雲:弥生時代と古墳時代の地方史②

2019-05-28 16:25:52 | 日本地理観光
出雲大社のFile:Haiden 1.JPG(パブリックドメイン)出雲大社拝殿(ウィキペディア「出雲大社」(2019/6/5)から)

出雲の由来と枕詞)通説の出雲国風土記に言う「八雲立つ」出雲が由来で良いと思います。「八雲立つ」と「出雲」は古代の日本人の意識の中で密接に結びついている枕詞だからです(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 古事記・現代語訳と注釈〜日本神話、神社、古代史、古語)。また出雲というか山陰地方はその字面でも分かるように、実際問題曇りが多い地域で、対して瀬戸内側は山陽といい、この対照は古代から認識されていました。日本の神道は太陽神が重視されており、弥生時代は水田耕作中心の時代ですから、尚更天気は明快に意識されていたはずです。古代において雲が多いの代名詞が出雲であるのに、他の解釈が成り立つとは思えないところがあります。また日本海側で雲が多く、太平洋側が雲が少ないというコントラストは日本全国で一般的に見られる現象ですので、大和視点ではなく、北九州視点で雲が多いと言っているんだろうという推測も十分成り立ちます。古代の人は統計をとっておらず、体感で分かる範囲で言っているでしょうが、数値的に雲が多い云々というより、比較して差を捉えて雲が多い云々を言っているだろうことも、山陰/山陽から明らかなはずです。

出雲国成立と弥生時代年代)弥生時代の発祥は考古学的に北部九州になりますが、大和朝廷の発祥が神武東征で示唆されるように日向(筑紫の四神は全て太陽神で古くは北部九州を指したと見られる)であるのと同様、出雲も北部九州からたどり着いた弥生人(渡来人ではなく北部九州縄文人が弥生人に変化しました)が建国した国と見られます。これは出雲国風土記の所謂国引き詞章の八束水臣津野命の台詞、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも」(出雲の国は幅の狭い布のように小さく幼い国だなあ)でも分かると思います。地形をよく捉えているのもそうですが、「若い国」という見方は「古い国」視点でしか発生しません。そしてその古い国とは考古学的に北九州でしかありません(国立歴史民俗博物館の放射性炭素14を使った年代研究:九州北部=紀元前10世紀後半 九州東部~西部瀬戸内=前700~前650 近畿=前7世紀後半 北陸=前6世紀ごろ 東海=前6世紀中ごろ~前5世紀末ごろ 東北=前400年前後 関東=前3世紀後半 共同体社会と人類婚姻史)。また北部九州から出雲に辿りつくには船によったでしょうが、航海において天気とは重要なものです。なお話はやや逸れますが、弥生時代が比較的早期に日本海側を辿り、太平洋側が寧ろ遅れたというのも東北の早期水田や巨大前方後円墳の進出の経緯から明らかです(関東より会津に先に辿りついています)。

四隅突出型墳丘墓)方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓(ウィキペディア「四隅突出型墳丘墓」(21/5/29))です。「弥生中期後半の広島県の三次盆地に最も古い例がみられる。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている」ということのようですが、筆者は古墳を死者の家と見ており、四隅突出型墳丘墓は破風(はふ:アジアに広く分布する屋根の妻側の造形)を意識したように思っています。テントも考えましたが、円形のようです。三次盆地に始まるのが事実だとしたら、製鉄技術者が最初は発想した可能性があるかもしれません(「古代出雲」(ウィキペディア 2019/5/29)において山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっており、特に遺跡が多いのは県境付近であって、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられるようです)。北陸に広がった形式のようです。

ハネる出雲/山陰)四隅突出型墳丘墓(世界の歴史まっぷ)・「伊勢」と「出雲」2大古社の建築をイラストでわかりやすく比較!!(和樂)・祭祀(夜見神社)・いなばのしろうさぎ(出雲大社)

荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡)出土する金属器の多さ等から、やはり古代出雲の力とはタタラ、製鉄、製銅、鍛冶じゃないかと思います。中国山地の森林を伐採しつつ鍛冶をしており、野だたら遺跡が年代が特定できないがゆえに、その辺が分かりにくくなっていると見れる気がします。通常はタタラ製鉄で銅は関係ない印象があります。しかし鞴(ふいご)が「たたら」というそうですから、必ずしも鉄ではないと筆者は思います。鞴(ふいご:吹子)(和鋼博物館)を参照すると、「踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。」「踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。」・・・たたらを踏む(空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむ)という言葉の由来のようであり、なるほどと思いますが、注目すべきは銅の溶解に使われたということでしょう。これは時代が降っていますが、史書に必ずしも技術の詳細は記されておらず、有り得ない話ではないと筆者は思います。つまりこの場合のタタラは製鉄ではなく製銅に関係する可能性があります。通説でタタラが6世紀云々の話は筆者に言わせれば論外で、証拠固めは重要でしょうが、荒神谷遺跡に象徴されるように幾らでも金属器が出るのですから、自分で鍛冶をしていたとみるより他ありません。

「神武東征」時の大和盆地と出雲神話の関係性)日本書紀を読むと、神武天皇を大和盆地に受け入れた(皇后を出した在地の)勢力が事代主神ということになっています。古事記などと異同があるようですが、どうも国譲り神話を想起させるものがあって、国譲り神話の舞台は大和盆地ではなかったかという気がしないでもありません。つまり弥生時代の最先進地で拡散の根源の(北)九州から見て、大国(オオクニ)とは本州のことであって、出雲の大国主と大和の事代主、三輪の大物主神は同一の系譜にあるんじゃないかと思います。つまりあえてザックリ言うと、出雲人が大和に移住したのでも、大和人が出雲に移動したのでもなく、九州人が出雲と大和に移住して似たような神・神話があると筆者は見ます。神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメ(日本書紀)/ヒメタタライスケヨリヒメ(古事記)も名前にタタラを含んでおり、大和は元々銅鐸という名の銅鈴配布の一大根源地でしたから(その製作地は唐古・鍵遺跡と見られます)、神武天皇が大和入りした時に既に鍛冶の力は大和にあったと見られ、やはり出雲とどちらが起源という話ではなさそうです(吉備ならまだしもでしょう)。

スサノオと八雲立つ)古事記の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」というスサノオの歌の意味は、>「八雲立つ」と「出雲」をほめ、さらにその枕詞が「八重垣作る その八重垣を」と新妻との新居の宮をほめる言葉を導き出すことで、スサノオたちの前途を祝福するものであり、決してスサノオが雲を否定的に捉えている訳でも、八雲立つという枕詞が出雲を否定的に捉えている訳でもありません。

比婆の山)古事記でイザナミが亡くなった時の記述に伯耆と出雲の境にある比婆の山に葬ったとあります。比婆とはヒバ(アスナロ/翌檜)と思われ、九州から本州に自生し、ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・ネズコと共に木曽五木にも数えられ、古くから馴染みのある常緑針葉樹になります。かつて全国に広く自生していたとされ、寺社仏閣に多く使われていますが、乱獲のため減ったと推測されているようです(針葉樹の名前と種類。これだけは知っておきたい日本の針葉樹 life info)。ヒノキ科ですが、ヒノキとは区別しやすいとも。湿気のある肥沃な深山を好んで自生するとされ、針葉樹ですし、あまり低山には分布しないような気もします。広島県庄原市の比婆山は標高1264mですが、比婆山は雲伯国境中心に日本各地にあるらしく、元々木材として利用価値があったヒバが生えていた山を一般にヒバ山と言ったのではないかと思われます。これは檜山・杉山・樫山と同根です。

雲伯国境)出雲と伯耆の国境ですが、伯耆の国府は東伯(倉吉市国府(こう))にあり、(今人口が多い)西伯ではありません。雲伯方言など、出雲と西伯は文化が共通する面も多いようで、古代出雲を考える時、西伯の領域も意識するべきであるようです。

根之堅洲國)古事記でスサノオが言う亡き母(イザナミ)の国。根の国とは嶺(ね)の国で、島根郡(島根半島)を指す説があるようで、嶺(ミネ)=御根で、高嶺(高根)(の花)等、結構和語に根付いた言葉で結局、山ではないかという気がしないでもありません。カタスは潟洲のような気がします。カタは片山、形山、片島等々いろいろなバリエーションがありはします。洲(ス)は言うまでもなく洲(シマ)に通じます。結局、伯耆の夜見島が根之堅洲國説が捨てがたいと思います。というのも安来の地が古代出雲で栄えたのであって、「中海」にあったであろう港から夜見島は近いからです。スサノオは海を治めることになっていました。

夜見島)弓ヶ浜半島(山陰の古代史 - 米子)>古くは島であったと考えられている。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている。ヨミは黄泉説もありますが、どうも語源は不明な感じです。夜の万葉仮名にヤ、ヨ。見の万葉仮名にミ、メ、yeとあります。

花仙山の勾玉)彩り鮮やかな玉から時代の色を読む(岡山県古代吉備文化財センター)>古墳時代になると社会の仕組みが大きく変化し、それに伴って前期後半に玉の材質と色にも変化が起きます。碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉の登場です。これらは島根県花仙山(かせんざん)で産出される緑色の碧玉、赤い瑪瑙、白・透明の水晶を素材として、出雲(島根県東部)系の玉作集団によって創造された玉であり、「勾玉=ヒスイ」「(石製の)玉=緑」いう弥生時代までの伝統・既成概念を打ち破った玉の意識改革が起こります。・・・花仙山のめのう脈(島根ジオサイト100選(出雲地方))。弥生時代末から古墳時代にかけて技術革新があったようです。ということは出雲振根の神宝は、この新しい玉造の勾玉だったのかもしれません。新しい勾玉は東国の翡翠の勾玉にとって代わったようですが、あるいは弥生時代に出雲人が越に渡って技術を持って帰って新しい勾玉を開発したというような可能性もあるのかもしれません。そもそも糸魚川産翡翠は縄文時代以来の日本の文化でその技術の起源は日本にあるようです(糸魚川産翡翠の解説 MoonMadness)。玉造の勾玉も結局仏教の興隆で絶えてしまうようです。

越の八口)出雲国風土記意宇郡(おうぐん)母里(もり)の郷(さと)。「大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す」の記述で越の八口とは?という問いがあります。筆者は大穴持命が出雲自身を平らげて中心部の意宇郡(おうぐん)に帰った可能性が高いような気がします。松江市に古志原という地名があります。八は方位を表し、口は城の攻め手とかで使われ、~口を守るとかそういうイメージで八口と見ておきます。越の原義は越すで山を越した向こうのことだと考えることが出来、山陽・吉備視点かもしれません(葬祭土器なんかは吉備から伝播しているとか)。畿内からみた北陸や関東から見た越後がコシ(越し)だと筆者は考えています。峠と関係深い言葉なのでは?

出雲大社)一般的には「いずもたいしゃ」と呼ばれますが、いずもおおやしろが正式名称のようです。島根県出雲市大社町杵築東にある神社で、祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮。参拝スタイルは一般的な二拝二拍手一拝に対し、二拝四拍手一拝。これは宇佐神宮も同じようです。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたのだそうです。元来(平安時代前期まで)祭神は大国主神でしたが、スサノオに祭神を変えていた時代もあったようです。1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、記紀の記述に沿って祭神を大国主大神に戻したのだとか。

大社造と明神鳥居)出雲の建築は反るのが好きなようですから、明神鳥居の破風の起源を出雲に見る勝手な推定。

杵築宮)大分県に杵築市ってありますよね。まぁそれだけなんですが。城(キ)に関係する地名は九州に多い感じです。築城郡(ついきぐん)など。百済の城がキ説(借用語)があるようですが、何となくシロになって基本的には消えてしまっています。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたようですが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したのだそうです。

妻問い)大国主は妻問いの説話が多いようですが、妻問いの風習は古墳時代に一般的で飛鳥・奈良を通じて存在し、平安時代の摂関政治の要因になったとも言います。元々の日本の風習かもしれませんね。

国引き神話)綱って綱引きとかで陸のイメージがありますけど、国引き神話って船の係留のイメージとか海のイメージですよね。瀬戸内や九州ならまだしも山陰が海のイメージは後の時代を考えると、ちょっと不思議でやはり神話は弥生時代の拡散・移民の記憶が反映されているように思えます。

注連縄)締め縄ではなく占め縄が原義だと思います。弥生時代の衣服は貫頭衣らしいんで。ここからは神の領域だから立ち入り禁止とかそんな感じなんでしょうね。神職は神人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)と言いました。横綱は陥落なしでダメになったら引退だから、占め縄みたいな。縄張りという言葉もありますし、ロープでの区切りから発生したものでしょう。漢字は当て字と思います。稲藁の効率的な利用から生まれたもので、基本的には弥生文化だと思われます。

左綯え(ひだりなえ)と右綯え)出雲大社が(例外的な)左綯えで有名です。左綯えが時計回りで、右綯えが反時計回り。日本では、時計回りを右回り(みぎまわり)、反時計回りを左回り(ひだりまわり)と言いますから、左綯えが本来右回りで、右綯えが左回りのような気がしますね。ヒダリは日出りで、ヒガシは日向処(日向かし)が語源が通説で妥当だと思いますが、これは天子南面という中国文化の影響が指摘されます。左重視の日本の文化は東=日出ずる国、日本自身の重視の表れと考えられます。伊勢神宮は畿内の東にありますね。東国というフロンティアの尊重もあったと思います。「左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある。」(ウィキペディア「注連縄」(2019/6/5))そうですが、まぁこれはそういう見方もあるということなんでしょう。五行思想とか中国の占星術、あるいは陰陽道かもしれませんが、そういうものの影響があるように思います。日本文化は比較的女性を重視していると思いますが、さすがに女性上位のような考え方は有り得ないと思います。ただ、皇祖神が女性神であるのは間違いありません。スサノオが男性神ですから、出雲神道的な解説なのかと思わないでもありません。厳密に神様の男女を左右で分けてないでしょうから、左綯え=男、右綯え=女の図式は成り立っておらず、あるとしたら、左綯え=最高神が男、右綯え=最高神が女というマイナーな左綯えから見た見方なんじゃないかと。筆者は国を譲った出雲大社を伊勢神宮の上位に置くような見方があるとしたら、一般的にはならないと思っていますし、不敬でもあると思っています。ただ、反っている人達に意見を言っても聞きはしないんでしょう(逆にとられると思います)。

出雲大社と向き)出雲大社では社殿は南向きであるのに対して、御神座は西向きであることでも知られます。この理由は諸説あるようですが、南向きは天子南面を意味している(神社は南向きに建てられるとか)はずですが、「国を譲った」大国主命は西=海を向いているんだろうと思います。出雲大社は海から1キロほどで古くはもっと海に近かったと考えられます。出雲の中心地(遺跡が多いところ)は必ずしも出雲大社付近ではなく、大国主命の鎮座地ははじめから海の近くが選ばれ、海を向いた御神座になっていると考えられます。出雲神話に特徴的なスサノオは海を統治するという話になっています。かといって半島・大陸に向いているということでは全くないと思います。日本の歴史を通じて地勢的に山陰地方が大陸に向けた窓口という事態はほぼ見られないからです(無論開いてはいますが、相対的な比較で九州と比べるべくもないという意味です)。では何故海で西かと言えば、筆者の考えでは祖国=北九州=高天原=葦原中国(あしはらのなかつくに)を向いています(東アジアの何処に存在していても「小中華思想」は有り得ます)。古墳時代は大和中心の時代ですが、弥生時代はそもそも北九州の時代として始まっています(時代が下るにつれ、パワーバランスが東に傾いているのは土地の広さ/人口の関係でしかないと思います)。出雲振根も崇神天皇の使者が来た時、筑紫に出張中でした。神武東征の出発点=日向(ヒムカ)も本当は北九州なんだろうと筆者は思っていますが、最初から天子南面だった訳ではなく(九州は四面日向でどちらがというのがそもそもないのは確実だからです)、考古学的に北九州縄文人が弥生人に発展していったのも(弥生人=渡来人ではなく)、その内定説・通説として認められるだろうと考えています。

日御崎)ひのみさき。出雲大社の西にある岬。

出雲-新羅航路)古い時代ほど難しいと思います。対馬や壱岐・北九州は渡海に関連する祭祀や遺跡が濃厚ですが、出雲は必ずしもそうではありません。筆者は呉越から東シナ海横断ルートなるものに対しかなり批判的です。古代ほど命がけの航海だったのであり、なるべく陸に近い安全なルートを採用していたはずです。出雲は北陸地方と海で繫がっていますが、中継貿易のような感じで北九州に流しており、昔ほど北九州が窓口であり、対外交流のプロだったんだろうと思います。遭難したら普通死にますからね。漂流者がたまに流れ着いたから何なの?ってところがあります。リスクが高いところが控えて、リスクが低いところがやるのが経済原理というものでしょう。

メモ:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)・物部伊勢父根・妣國(ははのくに)・根の国・高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)・沼河比売(ぬなかわひめ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)/諏訪大社祭神/御柱・巨大な宇豆柱・雲太、和二、京三

ハーリーブニ(ハレブネ/競漕舟)の沖縄(糸満)文化(小舟を並べて漕ぎ走らせくらべがフナハラシ)と龍舟(龙舟/lóngzhōu/ドラゴンボート)の中国文化

2019-04-21 14:04:06 | 日本地理観光
ハーリーに関する記事に関しては、「石垣島から 海への感謝込めた船越屋ハーリー」(SanekeiBiz 2015.9.4)参照。ハーリーとは「爬竜(はりゅう)」の中国語読みで、沖縄で伝統的に使われてきた漁船「サバニ」のへさきに竜頭、艫に竜美尾の装飾をつけた船が祭りで使われる「爬竜船」ですが、一般参加ができる北部・伊原間(いばるま)地区の「船越屋(ふなくやー)ハーリー」が人気で地元住民による踊りや伝統舞踊、八重山拳法なども披露され、海人(うみんちゅ)のみで行う競漕(きょうそう)に加え、観光客など一般の人が参加できる「体験ハーリー」もあり、石垣島ならではのイセエビ汁そばや魚汁そば(濃厚なだし汁が麺に良く絡む、絶品の味わい)が配られるそうです。

沖縄に根付いた祭りがハーリーという訳ですが、どうもハーリー=爬竜という一般的な説は地域の祭りに限っては誤りのような気もします。ハーリーで最大のものは那覇ハーリー(ハーリー行事の中でも最大規模の「那覇ハーリー」 那覇市観光協会 >琉球王国の国家的行事として栄えましたが、廃藩置県(1879年)で琉球王国がなくなったことにより、廃止されます。その後は地域の行事として一時期復活するも、1928年を最後に競技は途絶えてしまいました。本土復帰記念事業として1975年の開催された沖縄海洋博を機会に復活し、その後は沖縄を代表する行事になりました。>那覇ハーリーと県内他の地域のハーリーとの違いは「舟」にあります。那覇以外の地域のハーリー舟は、主に漁労用のサバニを漕ぎ手10名、舵取り1名で操りますが、那覇の舟は全長14.5メートル、幅2.1メートル、重さは2.5トン、漕ぎ手は32名、鐘打ち2名、舵取り2名、旗持ちなど6名と、乗組員が42名になる大型のもので、舳(へさき)には竜頭を、艫(とも)には竜尾の彫り物を飾った特別な舟となります)ですが、那覇ハーリーとは冊封使の歓待に関係する国家行事(龍潭(りゅうたん) | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華 ... - 国営沖縄記念公園>龍潭は尚巴志が冊封使(さっぽうし)一行を接待するために国相の壊機(かいき)に命じて1427年に造らせた池である。琉球王朝時代には、ここで中国からの使者である冊封使を歓待した重陽の宴(ちょうようのえん)が行なわれていました。龍潭で爬龍船競争(はーりー)を見たりして舟遊び等をしていたそうです)ではなかったでしょうか?だから廃藩置県に伴い廃止したという訳です。地域の行事として復活したりするのは、中国人の子孫を称する方々(閩人三十六姓)の働きかけかもしれませんが、ともかく琉球王国において冊封使の接待でボートレースが行われていたのは間違いなく、那覇の舟は鐘打ち(ドラマー)がいるドラゴンボートの一種のようです。

これは長崎の在留の唐人によって始められたペーロン(長崎国際観光コンベンション協会)(太鼓・銅鑼(どら)各1名ずつの打手がいて)と同じく中国由来の祭りであることは疑いがないところです(ウィキペディア「龍舟競漕」(2019/4/21)>台湾では賽龍舟と呼ばれている。清代には競渡や闘龍舟などと呼ばれていた。また、戦前には扒龍船という名称で閩南音訛りで「ペーリョンツン」と呼ばれていた時期もある)。ただ、龍=ロンで現代中国でドラゴンボートを龍船というようであり、ハーリー船=爬竜船ならば、音韻が違いますし、何故爬虫類の爬なのか、竜という漢字を使うのかという疑問はあります。可能性としては元々沖縄土着のハーリー船があって後で爬竜船という漢字を宛てた可能性も考えられると思います。その方が無理に爬竜船の名前の謎を考えるより、腑に落ちるところはあるんですよね。少なくともハーリーブニのブニは船(沖縄方言でe→i)で明らかな和語であり、一般的にはこの場合ハーリーも和語と考えるべきです(ただし重箱読みがそれほどレアだという訳ではありません)。

中国からの渡来色が強いボートレースである那覇ハーリーに対して、それ以外のハーリーはそもそもドラゴンボートではなく漁労用の在来の船を使用しており(ハーリー 伝統的な漁船で競う迫力のレース たびらい ※那覇ハーリーと他のハーリーでは船の形が全然違い、そもそも起源・系統の違いを疑わせるものがあります)、中国の祭りの影響があるとしても(端午の節句の船こぎ競争を真似たとしても)、直接の移植ではない(楚の屈原に関係すると言われるドラゴンボートの競争をやろうとした訳ではない)んじゃないでしょうか。

ハーレーの名称由来と発祥(糸満市)によると、>従来、糸満のハーレーも、ハーリー(爬龍船)としてマスコミはあつかっていました。糸満の中でも、チュジューニン(寄留人)はハーリーと呼んでいましたが、糸満のウミンチュ(漁師)たちは伝統を守ってハーレーと呼び続けてきました。>南島文化圏(沖縄文化圏)の中には、古くからフナハラシ(小舟を並べて漕ぎ走らせくらべをすること)のことを「ハレ」と呼ぶところがあります。1850年代に奄美大島の風物をまとめた「南島雑話」に、伊津村の「ハレコギの図」があり、競漕の舟を「ハレブネ」と呼んでいた>琉球最古の古語辞典といわれる「混効験集」の中では、昔から使われていた「ハレ」ということばについて、次のように説明されています。「ハレは、走という事、はしれを中略也」 これらのことからみると、走らす舟をハレブニと呼んでいることは、沖縄の古語が今も使われているということであります・・・ということのようです。ここで気になるのが糸満人が拘ったハーレーという発音です。沖縄方言では一般的にはeがないはずです。考えてみれば、糸満はイチマンと読むようですが、何故oを含む糸という漢字を使うのかもよく分かりません。糸満にはサバニを造る大工の方が残っているようですが、(宮崎県の)飫肥杉を使用するようです。元々丸木舟・刳り船だった沖縄の伝統船が何時しか接ぎ(ハギ)(張り?)船になったようですが、船大工が飫肥杉と一緒に渡ってきた可能性もあるような気もします。それはともかく糸満方言はあって、ハーリーは元々糸満のハーレーが広まったとも考えられます。eが発音出来ないので、ハーレーになることはありそうですが、その逆はちょっと考えにくいんですよね。糸満漁民は高い技術を持ち、海外に飛躍したことでも知られます。

面白いのはフナハラシ・ハレコギという古い言葉です。このハレコギのハレがハーレーでありハーリーの由来ではないでしょうか?コギは明らかに漕ぎで和語そのものであり、じゃあハレとは何なのかということになります。晴れも思い浮かびますがピンと来ませんし、ここで恐らく同源のフナハラシのハラシを考えてみるとハラスが動詞で漕ぎ走らせくらべるということですから、走らす(走らせる)でシが落ちたようにも見えるんですよね(奄美における本土系民謡(
奄美における本土系民謡 - 奄美民謡誌<初稿・増補・改訂稿>Web版
)pdf44p 「くるだんど節」 (奄美大島・瀬戸内町諸数)参照で「はれよふね=走れよ, 船」とあります。ハレは掛け声でもあるようですが、メカニズムは分かりませんがshiが落ちる用例を奄美に見ることが出来るようです)。沖縄においてはハーエー(沖縄方言事典)が「1.かけ足すること。2.走ること」という言葉があるようですので、糸満市が紹介するハレ漕ぎ・ハレブネのハレは駆け足といった意味で駆け漕ぎ(走らせ漕ぎ)・駆け舟(走り舟)を意味するということでいいんでしょう(駆け足という言葉があります)。フナハラシも船走らせで競艇(競漕)のような意味としている糸満市が(メカニズムはさておき※英語ですが「音は落ちる、ほとんど落ちる」というブログ記事も)聞き取りで正確に意味を伝えていると考えます。ハーリーがeが発音できないことによるバリエーションと考えると、ハーリー舟とは(原義が忘れられた)競漕舟ということになります。分からなくなったから、違う漢字を宛てたんでしょうが、宛てた人が単に(文字を操る)中国人だった可能性もあって、その場合龍舟を意識はしたんでしょう。糸満海人の歴史と文化を伝える生きた資料館「糸満海人工房・資料館」(沖縄CLIP)を参照すると、琉球王国は糸満の漁業を評価していたようですが(他の地域が漁業をやってなかったかのような話は不思議に思いますが)、乾杯の音頭を沖縄ではカリー!とやるところ(かりゆしと同源でカリーは嘉例でしょう)、糸満では大漁の意でコーバンギラー!というようで(小判?)、やはりちょっと違う来歴があるような気もします(移民でなくて漁民だからの可能性もありますが)。ユートゥイが湯取りでサバニに溜まった(暖かくなった)海水をとる道具(本土ではこの湯を淦(アカ)というようです。ゆ‐とり【湯取り】(goo辞書)参照で船中の淦 (あか) をくみ取る器。あかとり。あかとりしゃく。〈和名抄〉)。鮫をサバというのは独特と思いますが、中国語とも鮫(サメ)ともワニともフカ(西日本)とも違うようで、この辺は独自の言葉なのかもしれません。いずれにせよ、中国にフカヒレを輸出することが目的だったでしょうか(食べられ始めたのは明代だそうですが。時代的に逆に琉球か倭寇が中国に教えた感じだったりして)。

検索しているとハーリーに絡んでウガンを雨願いで雨乞いとする見解が見られますが、これは恐らく中国人の勘違いから来る誤りなんでしょう。中国では古来(日本でも少なくとも空海の頃には)龍と雨乞いを関係づける祭りがあるようですが、龍はさすがに日本由来とは思えません(独自の雨乞い儀式は農耕と共に育ちはしたでしょうが)。ただ、琉球在来のハーリーがどうも龍に関係ないと分かってくると、ウガンも雨乞いではないと分かってきます。竹富町の小浜島で雨乞いの儀式は雨願(あみにんがい)というようですが(沖縄タイムス 2014年11月18日)、これは明らかに和語にルーツがあります。沖縄では御嶽のなかに拝所(うがんじゆ)が設けられるようで、ウガンとは明らかに御願(コトバンク)のようです(沖縄方言でo→uでgが落ちてますが、オンタキ(元は山岳信仰に関連して御岳ではないでしょうか)をウタキというのと同源)。

イトマン(日本姓氏語源辞典)はイチマンと言ったようで、日本の一万地名との関連が疑われます(『○万』 地名コレクション)。糸満とは「糸満」(ウィキペディア 2019/4/21)参照でかつては兼城間切糸満村として同間切の一部。間切りは明らかに和語(沖縄方言)由来で、カネグスクとはグスク(具足と思われます)(城)が琉球石灰岩の独自の文化(喜界島が源流としては怪しそうです)で、カネは兼ねなら沖縄の王名や記紀の思兼神(おもいかねのかみ)に関係し、金ならよくある沖縄の名字金城と同じであって、いずれにせよ和語色が強いのは明らか。兼城間切で、古くは「しもしましり」、または島尻兼城間切と呼ばれていたそうで、やはり島尻という言葉からして和語です(対になるのが国頭で沖縄北部。鉄道の上り下りじゃありませんが、(文化がしばしば中国からも入るにせよ)沖縄のルーツが何処にあるかはもはや明らかで、沖縄を南洋からの北上と見るよくある見方・中国に(人の流れの)ルーツを求めるよくある見方は基本的には誤りと分かります。

ハーリーブニ(競漕舟)の沖縄(糸満)文化と龍舟(龙舟/lóngzhōu/ドラゴンボート)の中国文化があるという訳ですが、地理的に見てあるいは節句に行われることから見て中国の競艇文化を沖縄が参考にしたんでしょうが(ミルク神の例もあります)、どうも本来奄美までは広がる文化のようで、中国船と和船という技術の系譜の明らかな違い・和語/沖縄方言の使用から見て、もうこれは別物で沖縄文化と言っていいんだろうと思います。ユートゥイが湯取りでサバニに溜まった(暖かくなった)海水をとる道具で和名抄にも見える言葉(=淦取り杓)と同じというのも示唆的です。ウガンが雨願で雨乞いというのは典型的な中国人の勘違いと見られます。ハーリーブニは概ね爬竜船ではなく、那覇ハーリーだけが中国のドラゴンボート由来に思われますが、それも言葉は元々の沖縄のハーリー船の名前を利用し漢字を適当に宛てたように思われます。

環濠集落と鳥居の関係性を踏まえた伊勢神宮神明鳥居と外宮の豊受大神の謎解き

2019-04-15 23:07:50 | 日本地理観光
正宮 内宮 鳥居(2014年3月8日撮影)江戸村のとくぞう

鳥居の起源ですが、諸説あるようですが、筆者は弥生時代の環濠集落の門が起源なんじゃないかと思っています。古墳時代には首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体されたようですが、弥生時代の集落は環濠集落で特徴づけられます。勿論弥生時代と古墳時代に民族の交代のような画期を認める説はまずなく(騎馬民族説も古墳時代の中での話です)、環濠集落をつくっていた弥生人はそのまま古墳時代人になっていることが前提です。何故環濠集落なのかと言えば、絶対に門が存在するからです。環濠とはつまり堀と柵で囲まれていますし、要は必ず出入り口があってそこに門が存在するでしょう。鳥居を一種の門と考えるなら、原型は弥生時代にあったと考えることが出来るはずです。環濠集落は弥生時代の全国的な住文化です。木と木を縄で結ぶのような結界説は注連縄の起源としては考えられても、どう見ても鳥居の起源ではないと考えられます。古墳時代に外来文化で入ったと考えることも出来るかもしれませんが、まず似たもの、時代があうものがないようですし、後述しますが鳥居は和語で外来語ではないことも踏まえねばなりません。環濠集落の門に起源があるとして、環濠集落解体後に消えたかと言えば、門に宗教的意味などあれば、何らかの形で残るとも考えられます。門とは入り口であり、区切る境界でもあります。神社の形式が整うのが仮に8世紀ぐらいだとしても、その間に宗教施設がなかったとか門がなかったとか考えなければいいだけです。弥生時代の環濠集落の門が全国的に必ずあった文化だから怪しいとして、何故そこまで決め打ち出来るかもう一つ理由を述べると、その名前と形、それに伴う文化となります。

環壕入口(吉野ヶ里歴史公園)
門と鳥形(吉野ヶ里歴史公園)

>弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。
>大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
>鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
>天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる

素直に考えましょう。鳥居とはそのまま鳥(鶏)の止まり木を意味するに違いありません。これが理解できないのは現在の鳥居の形が止まり木に見えないからでしょうが、まず何故鳥(鶏)に止まり木が必要なのでしょうか?それはニワトリは止まり木で寝るからです(参考:ニワトリは止まり木で寝る なんてこったィ !! ナチュラおじさん Blog)。ニワトリは鳥なので本能的に木で休息しようとし、基本的には外敵に襲われる平らなところや床下では寝ないようで、止まり木があるとそこに群れて寝るようです。スズメも電線に群がりますよね。家禽(ニワトリ)の起源は紀元前8000年前から起源前4000年前まで諸説あるようですが、いずれにせよ弥生時代には既に出現していたことは間違いありません。弥生時代における出土は少なく、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」としての利用が主体だと考えられており、食用とされた個体は廃鶏の利用など副次的なものであったようです(個人的には雌鳥の卵の利用も同時にあったでしょうし、肉食も一般的だったと考えます。鶏の肉=かしわは和語で拍手(かしわで)との関連が怪しく、神聖なものを寧ろ食べる文化は動物崇拝(コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))で見られる考え方のようです(>トーテム動物のなかには普段は食べることが禁止されているが、トーテムの儀礼のときには食べることが積極的に認められる例もある。日本の例では食用ではありませんが、アイヌが熊送り(イオマンテ)をするため熊を飼う事例もあったようです。後に広まった肉食を禁じる仏教の影響でタブーになって分からなくなったのでしょう。食糧事情が厳しかった古代において、そもそも鶏が珍重されたのは食料としての用途があったからだと思います。大量に飼育されなかったのは、餌をやらないといけなかったからで寧ろ収支はマイナスだったかもしれません。そのマイナスを補うためにも食べられていたという訳です。魏志倭人伝に牛馬なしと書かれていますが、少なくとも出土している鶏や豚は牛馬ではありません)。時代が降りますが、記紀の天岩戸伝説において、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたという記述があります。つまり鶏の飼育があれば、止まり木があって当然で、鶏の飼育は規模は大きくないものの存在したのであり、その名前は「鳥居」だったと考えて良さそうです。時告げ鳥は貴重だったでしょうし、実際に伊勢神宮には神鶏の文化が存在しました(伊勢神宮の鶏が神鶏(しんけい)と崇められる由来 みんカラ >神宮の神鶏には名前はありませんが「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の種類が見られます)。だとすればその止まり木が神聖でも不思議はありません。神の家とは神聖なものです。

だとして何故鳥居をくぐるかですが、鶏が早朝に鳴くことから1日の始まりと見られていたかもしれません。鶏の鳴き声で起きて農作業を開始することで鶏が時間の始まりを意味することになり、その家=鳥居が空間的な始まり=入り口を意味するようになったという訳です(NIPPONIA(Web Japan)によると、「日本にやってきたニワトリは、中国文化の影響もあるだろうが、昼夜の境を告げる霊鳥として扱われた。ニワトリの時を告げる声は、一声がとても長く大きいので、現在よりもずっと印象的だったことだろう。1日3回、日の出の前、太陽が昇った頃、そして日没の前に、かなり正確に鳴くことから、時計としての価値が高く、また、長く鳴くものほど大切に扱われたらしい。実際、日本では、暁と日の出の鳴き声を、一日の始まりとしてきたのである)。暁・日の出の重視は日の出信仰(一年の始まり元日の初日の出・高山の頂上で見る荘厳な日の出である御来光・伊勢など日の出の方向=東の宗教的重視)や日本という国号にも繋がりそうですし、伊勢神宮の鳥居は神明鳥居と言い、暁とは明け方です。ちなみに「コケコッコー」ではなかった!ニワトリの鳴き声の変遷(山田ガーデンファーム)参照で室町時代以前に鳴き声はカケロと言われていたようです(ウィキペディア「ニワトリ」(2019/4/16)によると>ニワトリという名前については日本の古名では鳴き声から来た「カケ」であり古事記の中に見られる。雉を「野つ鳥雉」と呼んだように家庭の庭で飼う鶏を「庭つ鳥(ニハツトリ)」(または「家つ鳥(イヘツトリ)」)と言い、次第に「庭つ鳥」が残り、「ツ」が落ちて「ニワトリ」になったと考えられる。また「庭つ鳥」は「カケ」の枕詞であり「庭つ鳥鶏(ニハツトリカケ)」という表記も残っている。別の説では「丹羽鳥」を語源とするのもある・・・ですが、ニワトリとは即ち庭鳥でカケと関連付けられますが、ここで気になるのは丹波の語源です。『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓んでおり、古形はタニハであり、ハとワは通じますから、田庭説が有力視されるのは納得できますが、意味を「平らかに広い地」とするのが誤りでしょう。そうではなく、箱庭でも分かるように庭はミニチュアの意味があって、丹波の盆地を畿内の平野に比べてミニチュアだと見て、田庭としたと考えるとストンと落ちるものがあります。丹(辰砂)はニであり、大産地は寧ろ畿内にほど近い中央構造線沿いであり、字面に引っ張られるべきではないのかもしれません。田はありふれてますし国名での使用が見られず、丹が好字とも考えられます。そう考えると、但馬も田島で全く同根なのかもしれません)。また、おんどりの朝の鳴き声、序列の高い順から 研究(afpb 2015年7月24日)参照ですが、鶏に序列があったことは当然意識されていたでしょうし、鳴くのは縄張りを誇示するためだったようです。これは鳥居が門/境界であることに通じます。いずれにせよ環濠集落に門は必要ですし、鳥の止まり木=鳥居に似ていることは直ぐに意識されたでしょう。

具体的にどんな鶏を飼っていたかで言えば、考古学的・動物学的に調べられるべきでしょうが、「尾長鶏」「尾鷲鳥」「小国鳥」の内、小国鳥が気になります(日本鶏の紹介 日本家禽学界 >闘鶏の一種として古くから飼われ、多くの日本鶏の成立に関わった。昭和16年に天然記念物に指定された。三重県、京都府で多く飼われている)。闘鶏の意味が当時あったか分かりませんが、弥生時代は銅剣・銅矛・銅戈・環濠集落でも分かるように戦乱の時代でもあって、喧嘩する気性は寧ろ好まれた可能性もあります。いずれにせよ、多くの日本鶏の成立に関わったというのが注目されます。尾長鳥は江戸時代の土佐(高知県)に起源があるようですが、鶏の美しさを競う文化があったのが注目されると思います。古い文化の残存かもしれません。尾長鳥で印象的なのは止まり木でもあります。尾鷲鳥に関しては伊勢近隣の尾鷲の鶏といった意味であり、供給地であったかもしれませんが、よく分かりません。ちなみに尾鷲とはそのまま鷲の尾を意味するような気がします。矢羽で鷲の手羽・尾羽が利用され、どちからと言えば、尾羽の方が丈夫で重要だったようです(黒鷲と黒手羽って何が違うのですか? yahoo知恵袋 >手羽(てばね)というのは手の羽の事です。尾の羽は尾羽(おばね)と言います。一般的に手羽のほうが柔らかいので耐久性は悪いが値段が安く、尾羽のほうが耐久性が良いですが値段も高いです)。弓は弥生時代どころか縄文時代から出土しするようです。オワセであってオワシではありませんが、ウィキペディア「尾鷲市」(2019/4/16)を参照すると、1942年当時の尾鷲駅。表記が「おわせ」ではなく「をわし」となっており、「おわしぇ」と地元では呼んでいたという記述が見られます。弥生時代の鳥信仰で鷲もあるいは関係あったかもしれません。

さてここで鳥居の形に注目しましょう。鳥居には神明鳥居と明神鳥居がありますが、ここで伊勢神宮の神明鳥居をその起源とします。明神鳥居の破風(はふ)は装飾的で城にも破風があって日本人の文化的好みではあるでしょうが、鳥居のルーツではないと考えます。止まり木に破風はいらないからですね。神明鳥居が成立してから装飾的な明神鳥居が後で誕生したのでしょう。元々は木で鳥居をつくっていたと考えれば、現存する鳥居の形はあまり関係ないかもしれません。伊勢神宮が古い文化を保存しているというのは普通に有り得る話です。門が起源として、直線的な笠木がそもそも止まり木というのは分かりやすいところです(笠が被る笠ではなく直線だということが注目されます。笠沙の御前(みさき)とは直線的で弥生時代の発祥の地で中国と通交していた倭国の所在地博多の湾に(直線的に)突き出している砂浜である海の中道ではないでしょうか。沙を砂と見る訳です)。問題は笠木の下の貫(ぬき)であるに違いありません。これは鳥居を門として大きくつくった時の建築術上の要請と見ます(「鳥居」に見る日本の建築技術の基本 建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える 下山眞司 >着目点の二つ目は、笠木の下に設けられた横木。これも貫で、柱に対して、楔を打って固める。これによって、二本の柱は、一本の笠木だけの場合に比べ、より強くつながり、しっかりとした、簡単には変形しない門型を構成することになる)。弥生時代の土器の絵に重層建物があったようですし、縄文時代の三内丸山の柱穴もありますが、日本では古くから建築術はあったと考えられます。門を大きくつくるのに貫をつけるのは当然の発想だったかもしれません。鳥居と沓石の免震構造が知られるところですが(鳥居はなぜ倒れない? 社寺建築の豆知識)、法隆寺の免震構造もあって、この辺の技術は地震国の日本で縄文時代以来、長い時間をかけ発生し受け継がれてきたと筆者は見ます。ここで神明鳥居の形式をウィキペディア「鳥居」(2019/4/16)で確認すると、「笠木柱には丸材、貫には板材が用いられることが多い。笠木の下に島木がなく、貫は貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられている。」となり、これはそのまま止まり木(笠木が丸材であるところが特に。ただし現在の伊勢神宮の鳥居の笠木は丸材ではないようです)を板材で補強したものと理解すればよいと考えられます。この素朴な形式で鳥居はスタートし、他は装飾的なバリエーションだと考えられます。宗教建築が巨大化するのはありがちですね。

弥生時代の鳥に関する信仰ですが、鳥居と鶏を結びつけると、直接的には鶏以外の鳥は関係ないかもしれません。ただ、天照大神等に見られる太陽神信仰(恐らく農耕神だと思います)は確実にあって、その住まいは高天原に見られるよう勿論天なのであって、空を飛ぶ鳥が使いとして信仰されるのは当然の流れとして理解できます。八咫烏が記紀に見られる霊鳥ですが(咫(あた)は、中国および日本で用いられていた長さの単位で八咫とは大きいの意らしい)(三本足の記述は記紀になく後世の混入の可能性が指摘されます)、烏は知能が高いことで知られ、特に神の使いと認識されたかもしれません。穀霊という指摘もあるようですが、鳥は稲作の敵でもあり、日本にそういう習俗も見られないようで(狐が稲荷神として重視されるようです)、こと日本においては無さそうな気がします。恐らく(東南アジアと日本に同じものが伝播したと考える)長江文明直接渡来説と結びついた誤認じゃないでしょうか。

(弥生文化の源流の)九州の神名は全て日がつき、神名や天皇名等にも日は多く、皇祖神は太陽神です。古代日本に太陽神信仰があったことは明らかで、三種の神器の内のひとつである鏡は多く出土し、神社の神宝として多く所蔵されるようですが、鏡は光を反射します。そして太陽神の住処が天(アマ)であり、アマは海に通じますが、島国日本で太陽が昇るところは海です。中国の天帝信仰やモンゴルのテングリ(天神)信仰と日本の宗教を結びつける考え方がありますが、日本の宗教も海外に大きく影響は受けはしたでしょうが(鏡や鍛冶技術が日本にあったと主張しません)、日本のこうした信仰は中国・モンゴルに似ておらず(多分一番似ている可能性があるのはお隣だと思いますが、勿論民族は縄文以来長年違うとハッキリしておかねばなりません)、その源流を海外に求める考えは基本的に誤りだとも考えられます。「銅鐸」祭祀もそうですが、海外の宗教と日本の宗教は仏教以前は似たものが見つからないケースが多いように思います。

伊勢神宮内宮の主祭神は天照大神ですが、常世長鳴鳥(世界大百科事典 コトバンク)によると、「八百万(やおよろず)神が常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)命に舞わせて,天照大神を呼び出す話」とあり、これは勿論鶏が朝に鳴く時告げ鳥でもあること、伊勢神宮の神鶏と関係します。時・天文と権力は一般的に結びつくものです。これが皇祖神として崇められ、伊勢神宮が最重要の神社とされるのは納得のいく話です。

ただ一般に謎なのが並び称される外宮の豊受大神(トヨウケビメ)の方でしょう。ウケは古語で食物のこととされ、大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)・稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と関連付けられますが、どうもウケ=食物論が日本人にピンと来るものがありません。食べるはタベルのはずです。これはもしかしたら逆ではないでしょうか?ウケという言葉ありきで、外宮の(由来不明の)豊受大神が重要だから、食物に結び付けられたと解する訳です。豊(トヨ)は豊作の豊です。ウケとは普通に考えて受身の受けです。ここは素直に受けを解すると何に対して受けかと言えば、天照大神に対して受けではないでしょうか?日本の史書では意味が通りにくいですが、有り難いことにこの辺は中国の記録もあって、台与をトヨと捉えて、豊受大神と理解すれば、卑弥呼(日御子・日巫女)に対する受けだと腑に落ちてきます。倭国の大乱を治めて日本がまとまったシンボルが台与です。記紀では王として扱われませんが、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性になります。こうして考えると、そもそもよく分からない豊受大神を皇祖神と並べて祀ることになったか理解できてきます。男性中心社会(特に先進地中国においては)の影響で記紀では見え難くなっているにせよ、日本としても皇祖神に近い時期に凄く重要だった台与を祀らないといけない伝承・史料が当時あったのでしょう。外国人は遠慮がありませんから、日本で女性が重要な役割を果たしていたのを寧ろ差別的に記録したのだと思います。台与(トヨ)は元々食料に関係する言葉ですから(鍬も稲作の道具です)、それで食料に関係する神だとされたのであって、受けは継承の方の意味だったのを後に誤解したような気がします。倭姫が祭られたのは大正時代でしたが、豊受大神と見られる豊鍬入姫命が祀られたのは伊勢神宮の創始に関係あるからでは実はなく、祀られるべき王としての事跡があったからだと見ることが出来るのではないでしょうか。祭祀に関係あるという伝承はこのあたりの事情がぼかされたと見ることも出来そうです。これは天照大神と見られる倭迹迹日百襲姫命も同じ事情だと思えます。倭迹迹日百襲姫命は突然死していますが(古墳時代と言いますが、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は古墳時代最初の大前方後円墳とされます)、日食が卑弥呼の時代にあったことが分かっています。これは天の岩戸の話にも関係するでしょう(呼び出されたのが同じ日巫女職である豊鍬入姫命と見る訳です)。崇神天皇ははつくにしらししみまきのすめらみこととされ、この辺りに日本のひとつの始まりがありましたと考えられますが、意外と派遣や紹介が多く本人の話がありません。それ以前が「欠史」ですから、男性中心視点で崇神天皇に事跡をまとめたと考えられます。倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の代の記載ですが系譜で二代前であり、卑弥呼は高齢と記され、崇神天皇の娘である台与が年若い宗女(一族の娘)だと考えられます。この辺は驚くほど符合するところです。まぁ台与は若すぎ象徴的なシンボルなのであって、実際には崇神天皇が(卑弥呼後、倭国大乱後の)リーダーだったかもしれませんが(台与の親だったからリーダーになれたのかもしれません)、中国の史書には女王がリーダーだったと記されています。「欠史」に触れたついでですが、筆者は欠史八代も何らかの歴史的事実を伝えると見ます。それは倭迹迹日百襲姫命を通じて崇神天皇以前の系譜が一部正しいことが分かるからであり、古墳時代以前も「銅鐸祭祀」を通じて大和が強勢だったと見られるからであり、卑弥呼の時点で北九州を圧する勢力を擁していたことが中国の史書でも分かるからです。神武天皇は日向(ここでは書きませんが、宮崎とは限りません)の出かもしれませんが、皇室は卑弥呼の前で六代ぐらいは大和で遡ると考えて良さそうです。誤りも含むものの一般に言われるよりずっと記紀は歴史的事実を伝えていると調べれば調べるほど理解できると考えています。

最後に明治天皇記に鳥居のコンクリート論があったものの明治天皇はこれを許可されず、質素な造営に先祖の建国の姿を知るべきと諭されたとのことです(伊勢神宮入門 幻冬舎 145p)。神明鳥居もそうですが、古い形をそのまま残していると、その時は(戦火で記録が失われることはしばしばありますし、流行に流されることもあります)意味が失われているとしても、後でその意味・知恵が理解できる時もあるんだろうと思います。何も変えないのが保守だと思いませんが、風雨に耐えた貴重な伝統文化をそのまま守ることは重要であり、これが守るべき保守精神ではないかと思いますし、明治天皇の立派な見識に頭が下がるところだと思います。