いい機会なので、日本の領土を不当に放棄するかのような論調の「日本の国境問題」(孫崎享著)(ちくま新書)の竹島部分の批判を(
尖閣に続いて)行なう。
・韓国学者が極めて詳細に調査していることが分る(152p)
元外務省なのに、
韓国の主張は既に破綻していることを取り上げないのが不可解である。これは外務省HPはじめ、領土問題(竹島)を勉強すれば、誰でも分る基本なのに、韓国の主張に都合の悪いところは意図的に避けているのだろうか。外国人には信じがたいかもしれないが、日本には外国の代弁者であるかのような反日的な学者もいるだのが、孫崎氏もその一変種に見える。
・「三国史記」の記述(151p)
→『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はありますが、「于山島」に関する記述はありません。また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっています。(外務省HP
竹島の認知)
歴史を遡れば、地図・地理書の誤りは珍しいことではない。竹島は人の住めない岩礁に過ぎない。国があったという記述の時点で信憑性ゼロということも分らないらしい。歴史好きはピンと来ると思うが、古い地理誌など実にいい加減なものである。明らかな誤り(中国の国史「三国志」には倭国が会稽(今の上海より南)の東にあるとの記述がある)、妖怪魑魅魍魎の記述(山海経・シーサペントなど)などがあったりもするのだ。この辺は結構面白いので、興味のある人は自分で調べてほしいが、一応グーグル検索「
古地図 世界」にリンクしておく。
・「新増東国輿地勝覧」の記述(151p-152p)
→『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。(外務省HP
竹島の認知)
全く実在しない島と言えば、
アトランティス(ウィキペディア 2011-07-17 0:06)の類が想起されるが、韓国では政府が今でも真面目にそれを言っているらしい。
波浪島(ウィキペディア 2011-07-17 0:10)がそれだ。いい加減にしてほしい。
・安龍福の件(152p)
「知っていますか、日本の島」(下條正男氏 自由国民社)を見ると、詳細に反駁されており、安龍福の証言は偽証で、見たのは隠岐島(勿論古来よりの純日本領)であろうことが分る。鬱陵島から日本へ行く途中に鬱陵島(72.82 km²)より大きい島を見たと言うなら、竹島(0.23 km²)であるはずが無く、隠岐島(島後)(241.58 km²)だろう。簡単なことだ。外務省HP(
鬱陵島への渡海禁止)にもこの件は書かれている。
・「三国接壌地図」(152p)
外務省HPにも「知っていますか、日本の島」にもこのことは書かれていない(見落としてなければ)。が、この地図を書いた林子平は民間人に過ぎず、日本は江戸初期には竹島の領有権を確立している(外務省HP
竹島の領有)。尖閣もそうだが、この辺の時代(明清)、アジアは海禁の国が多く(韓国は鬱陵島すら空島政策で無人島にしていた)、日本の民間(あるいは琉球)の動きは比較的だが早かった(活発であった)という歴史的背景があることを忘れてはならない。
自分が「
三国接壌地図」を見た限りでは、島の形から朝鮮領とされている竹嶋は鬱陵島で、その北東の小島が今の韓国名でいう竹嶋だろう。子平が朝鮮領とわざわざ書いたのは、
竹島一件(ウィキペディア 2011-07-17 1:30)での鬱陵島の領有権放棄を意識してのことだと思われる。当時日本は鬱陵島を竹島と呼んでいた。この辺がややこしいのだが。
・「朝鮮全図」「朝鮮東海岸図」(152p)
朝鮮全図(部分拡大図)(島根県Web竹島問題研究所)を見ると、松島が島の形が正確に鬱陵島で、竹島として点線で書かれた島は架空の島であろう。これはアルゴノート島として西洋で当時存在するとされており、外務省HPでも経緯に関して記述されている(外務省HP
竹島の認知)。新増東国輿地勝覧にも鬱陵島の西に于山島は書かれており、何らかの形でこうしたことが誤認に繋がったとも考えられる。
朝鮮東海岸図(個人のページらしいのでリンクは避ける)は島の形が正確でないものの、竹島らしき岩礁が載っているようだ。これで「朝鮮の領土に含めた」と出来るかは疑問だが。
・「大韓興地図」「大韓国全図」(152p)
大韓興地図は確認できなかった。ジャーナリストの櫻井よし子氏は文藝春秋8月号平成17年度で
>1898年から99年にかけて対韓帝国学部編集局という韓国の公的機関が『大韓興地図』『大韓全図』という地図を刊行します。ここでも朝鮮の東限は東経百三十度と記されている。これは鬱陵島の経度で、いまの竹島(独島)は百三十一度五十五分です。
としているらしい(ネットからの孫引き。リンクポリシーの記述がない個人ページはリンクしない)。大韓国全図は個人ページの大韓全図というものを見たが(同一のものかは分らない)、鬱陵島の直ぐ北東の于山と書かれた小島はどう見ても今の韓国名で言う竹嶋である。
・1900年10月25日の大韓帝国勅令(152p)
この勅令で韓国領とされたのは「鬱陵島全島と石島」と「日本の国境」には書かれている(韓国学者の本からの引用)が、正確には「鬱陵全島と竹島石島」らしい(
石島 (韓国)ウィキペディア 2011-07-17 2:30)。
>大韓帝国時代の「皇城新聞」1906年05月19日付の記事に、「本郡所属の独島は外洋百余里の外に在るが、本月四日に、日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地になった故、視察のついでに来到し、・・・(中略)(日本官人一行は)戸数人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、諸般の事務を調査して録去した」と記載がある。 しかし、「皇城新聞」の1906年07月13日付の記事には、鬱陵島の配置顛末との題で、「郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里、南北四十里、」と記載されており、郡所管の地域は東西六十里(約24km)、南北四十里(約16km)としている。5月19日付で独島は外洋百余里(約40km余り)としていることから、石島と独島は別の島と言える。(参考:鬱陵島は東西南北とも10km程度の島。現在の竹島は鬱陵島より東南東に約92km離れている。)
>日本では、鬱陵島の古地図に記されている鬱陵島近傍の島の位置関係から、勅令の「竹島」が現在の竹嶼で、「石島」が現在の観音島であると言う見方が強い。竹嶼は鬱陵島近傍にある島の中で一番大きく、観音島がこれに次いで大きい。共に鬱陵島の北東近傍にあり観音島は竹嶼の北西に位置する。
>韓国はまた、竹島(独島)は岩石でできているのでその名に相応しいとしているが、観音島もまた岩石でできている。
鬱陵島全島という表現は周辺小島を含むようにも見えるが、竹島石島は竹嶼・観音島とするのが妥当に思える。少なくとも、1906年皇城新聞07月13日記事を見るとそうだ。また、
観音島は水が出て人が住める島らしい(島根県 Web竹島問題研究所)。鬱陵島にも近く、水がない孤島の竹島よりは当時の視点で言えば、重要な島であっただろう。また、鬱陵島には小島は多いらしく、それを踏まえると鬱陵島全島は鬱陵島と小島、やはり竹島石島は付属島で人の住める竹嶼・観音島と考えるべき。別の日付ではあるが、独島(竹島)は独島で別個に記述があるのだから、石島とするは出来ないという論考が妥当だろう。
どうだろうか。極めて詳細なのは寧ろ日本側ではないだろうか。日韓歴史共同研究委員会に参加した古田博司氏は韓国は不勉強だと指摘した記事(確かMSN産経)を読んだこともある。少なくとも、韓国を持ち上げるかのような孫崎氏の引用を見る限り、極めて詳細に調査???と疑問を感じざるを得ない。
ちなみに孫崎氏に関しては、残念ながら、同じく元外交官丹波實氏が最近の著書「わが外交人生」(中央公論社)(現時点ではほぼ未読)において批判されている(166p~)。ほぼ北方領領土問題と日米安保に関しての指摘なのだが、念のため。
正直に言うと、孫崎氏の「情報と外交」(2009 PHP)は自分は面白く読んだし、国際司法裁判所を活用できればいいとは筆者も思っているが、如何せんここまでグダグダ(今回の竹島編は引用部分批判が主体ではあるが)だともうダメ。ちょっと信用できないと思ってしまう。