ワニなつノート

名古屋のお母さんたちと話していて、気づいたこと。(その4)



名古屋のお母さんたちと話していて、気づいたこと。(その4)


《悶え神》




「親のいない子」や、「親と暮らせない子」たちと暮らすようになって、気づいたことがある。


子どもの生き辛さの深さは、「頼れる大人である親」がいない生活上の苦労で深まる以上に、その苦労悲しみさびしさを、聞こうとする人、感じようとする人がそばにいなくなることで、底なしに深くなっていくのではないか…。


子どもが感じる親の意味は、暖かい食事、暖かいお風呂、抱きしめてくれる温もり、日常にある当たり前の声、世話をしてもらうこと、そういった親の「できる」ことだけではない。

それと同時に、ただ、いつも、そこにいて、「自分をみていてくれる人」としての親の存在がある。



たとえ幼い子どもであっても、その子自身が感じる悲しみや寂しさ、恋しさ、そうした思いを、親は変わってあげることはできないし、子どもの願いをすべてをかなえてあげることもできない。

泣いている理由も、辛そうにうつむいている理由も、分からない場面が無数にある。

だけど、分からなくても、理解できなくても、無力であっても、たとえ死んだ後でも同じように、届き続ける思いがある。


無力な自分を責めることしかできなくても、その無力な思いだけしかあげられないけど、あなたをまもりたい、そばにいたい、その目に見えない思いが、そばにあること。

酸素と一緒に、子どもはそれも呼吸している。


そういう、自分の存在を見ていてくれると感じる大人が、そばにいないこと。

それが、どういうことかを、私は気づかないで生きてきた。


ずっと自分をみていてくれる人が、いなくなること。

ずっと見ている人が突然いなくなること。

ずっといつも聞こえるはずの声、ずっと希望であるはずの「いること=いるだけ」が、突然いなくなること。



私の両親はまだ健在で、いることが当たり前すぎてこの年まで生きてきたから、気づいてないことがたくさんある。



               ◇



昔、児相の保護所にいたころのこと。
夏のある日、中2の男子が入所してきた。


林間学校に出かけている間に父親が突然亡くなった。
親子二人暮らしだったので、帰る家がなくなった彼はそのまま保護所にきた。


彼には軽度の知的障害があった。
それだけで、彼の行き先は養護施設ではなく、障害者施設の方向になる。

そうすると、今まではふつう学級にいたのに、当然のように特殊学級に移ることになった…。
本人の思いも、亡くなった親の思いも、誰も聞かない。



私は、亡くなった父親のことは何一つ知らない。

でも、伊部さんや真さんや、ふつう学級を大切にする父親の顏が浮かんで、勝手に彼の父親の思いを思った。


子どもを一人にしてしまう無念さと寂しさを抱えて空に行くしかない途中で、家と父だけでなく、ふつう学級の友だちとも離れることになる。

それももう守ってあげられないことが見えてしまうのだろうか。
そんなことを思った。


            ◇



今回、「名古屋のお母さんたちと話していて、気づいたこと」は、「いること」と「いないこと」の違いだった。


「共にふつう学級へ」という運動にかかわってきた私は、そこにある「親の思い」がどういうものかを、感じてきたつもりだった。
むしろ、子どもをおもう「親のおもい」に惹かれて、ここまできた。


だけど、障害がなくても、当たり前にふつう学級にいても、「親がいない」子どもにとっての、「いるだけ、の親の存在、親の意味」は、知らなかった。


名古屋の集会に参加して、「ここにいる、子どもたちは、しあわせだな」と思った。
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