「寄る辺なさ」(helplessness)
《帰るべきクラス、帰るべき学校、
三十人のクラスメートを失う子どもの心の状態もまた、「よるべなさ」といえる。
帰るべきクラスも学校も地域にあり、友だちもそこにいるのに、そこから遠ざけられていく子どもたち、そのようにして生きられる環境を奪われた子どもたちのよるべなさ》
「寄る辺なさ」という言葉をきっかけに、44年前に教育委員会に呼びだされた時の自分の感情を思い出し、「分けられる」ことにこだわり続けた子ども時代を思い出しました。
その感情は、高校を卒業するまで、私の生活から離れることはありませんでした。
大学に入り、分けられる恐れがなくなって始めて、自分と同じように分けられかけている小さな子どもたちのことが気になるようになりました。
それから三十年あまり、いつのまにか私は、人生のほとんどをそのことに費やしてきました。
だから「寄る辺なさ」という言葉は印象的でした。
ああ、こんなところに、「ことば」があった。そんな気持ちでした。
その「ことば」に出会って、3・11の衝撃と無力感の続いているなかで、改めて自分が子どものとなりで何をしたかったのかを考えました。
私は、ただ子どものよるべなさを、なんとかできないものかと思ってきたようです。
なかでも、「分けられること」にこだわってきたのは、それが「寄る辺なさ」を子どもに植え付けるものだからでした。
特別支援教育は、障害のある子どものニーズに応えるための「支援」をするのだと、一般に思われています。
ただし、「子どものニーズ」の中心にある「みんなと一緒」を支援することはしません。
「特別支援」の前提には、「みんなと一緒が無理」な子どもにどう対処するか、と考えているところがあるからです。
自分がみんなと同じ子どもであること、自分がクラスの一員であること、そうした子どもとしての受けとめられ体験を、手放す代わりに提供されるのが「特別支援教育」です。
それはつまり、子どもの「寄る辺なさ」と引き換えに、与えられるのが「特別支援教育」ということになります。
子どものためにと、「通級」を勧め、やがて固定の特別支援学級に変わっていくこと。
そうしたやり方は、子どもにとって大地震や津波の被害にあったような寄る辺なさをもたらすかもしれないということ。
原発の事故のために、家も田畑も先祖のお墓もすべてそこにあるのに帰ることもできない人たちの抱える寄る辺なさと同じように、学校もクラスメートも先生も変わらずにそこにあるのに、自分一人がそこには帰れない、という寄る辺なさを与えていること。
特別支援を勧める人たちは、そのことにあまりに鈍感です。
「この子がさびしくないように」というカテゴリーで、私が伝えたかったことは、このことでした。
子どもにとって、普通学級にあるもの、そこでしか得られないものが確かにあります。
それは、「くつろぎ」「結びつき」「共にいること」「たずさわること」「自分であること」というニーズです。
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2012年5月14日
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