ワニなつノート

「一緒がいいならなぜ分けた」と交流の話《全4話》



「一緒がいいならなぜ分けた」と交流の話
《全4話》




ある新聞記事を読んだ。
交流についてだから、流して読んだ。

「副学籍」は初めて聞く言葉。
卒業証書も二つある?

なんだか、「交流」も進化しているらしい。
でも、そこまでやるなら、いっそのこと、「全部一緒にしてしまえばいいんじゃねー」とおもう(=゚ω゚)ノ

そんなことを考えていたら、いろいろ思い出した。


いちおう、新聞記事を紹介しておく。


【<二つめの学舎 副次的な学籍>(下) 
「副学籍制度」広がる長野県】

2017年10月8日 中日新聞

【特別支援学校に通う、障害のある子が、自宅近くの小中学校でも学ぶ仕組みは、長野県では「副学籍」と呼ばれる。県内21の市町村に広がっている。一緒に学んだ証しとして卒業証書を小中学校でも受け取るなど、従来はほとんどなかった交流が定着している。


 長野県伊那市にある特別支援学校「伊那養護学校」高等部一年の男子は二年前、副学籍のあった高遠中学校(同市)で、生徒会役員選挙の投票をした。「うちの生徒だから選挙権はある」と校長が判断。「存在を認めてくれた。うれしかった」と生徒の母親は話す。

 男子生徒は当時、伊那養護学校の中等部に在籍。自閉症スペクトラムで、見通しを持てば安心して行動できる。高遠中では一つのクラスで学び、担任もいた。

特別支援学校での活動を「新聞」にまとめ、月一回、仲間に伝えたり、部活動で頑張る友人の壮行会に参加したり。活動の内容は特別支援学校と中学の担任が本人、家族と相談し決めた。

 卒業証書も二つある。特別支援学校の正式な証書と、高遠中での副学籍用の証書。両校と家族で話し合い、中学の同学年の仲間の前で受け取った。校長や担任は正装で参加。両親は感激した。

「交流はないの?」と高等部に入ったときに本人から聞かれたといい、中学での交流の深さを物語る。


 伊那養護学校の児童生徒のいる上伊那地方と隣接する岡谷市では、同市を含む九市町村すべてに副学籍の制度がある。十二年前に県内で初めて駒ケ根市が導入して広がった。

 副学籍のある児童生徒は本年度百十三人。希望しない場合を除き、「地元の子」として地域の小中学校の名簿に名前が載る。特別支援学校と小中学校の教員が話し合い、学習計画を作る。

多くは、体育、音楽の授業や、運動会などの学校行事に参加する。年間五十日ほど副学籍校で学ぶ子もいる。学校からの印刷物の郵送といった間接交流を含め、年度当初、制度の利用を希望したのは75%。副学籍の児童を家庭訪問する小学校もある。


 副学籍の卒業証書を受け取る児童生徒は急増。

昨年度、伊那養護学校の小中学部の卒業生二十七人のうち、二十五人が証書を受け取った。三人は副学籍校の卒業式にも出席した。「事例が積み重なり、保護者が前向きになる状況ができている。市町村の意識も大きく変わった」と副学籍を担当する渡辺孝次教諭は感じる。


 小中学校では、特別支援学校の児童生徒との「交流」が増えてはいる。学習指導要領が二〇〇二年度から交流の機会を、一一年度からは共同学習の機会を設けるよう定めているからだ。副次的な学籍もこうした背景から生まれている。

ただ、交流は年二、三回程度が一般的で表面的になることも多い。長野県では、共に学ぶ意識を高める副学籍によって、内容を豊かにする知恵が現場から湧いている。


◆岐阜県は全員に「交流籍」

 岐阜県でも三年前から、県内すべての特別支援学校の児童生徒は、地域の小中学校に副次的な学籍「交流籍」を置く。

「特別支援学校の子が、地域とのつながりを保つ制度。将来、地域で生活することにつながる」と県教育委員会特別支援教育課は、狙いを説明する。学校に行って直接交流するか、間接交流にするかは、本人や保護者が選ぶ。

 県によると、昨年度、直接交流をしたのは、小学部で65%、中学部で35%。学年が上がるほど、学びが高度になり、授業の進み具合を合わせるのが難しくなることや、学ぶべき内容が多く時間の確保が難しくなることが、中学で直接交流が進みにくい要因という。(佐橋大)】


            ◆


「一緒がいいならなぜ分けた」と交流の話
《第1話》



「一緒がいいならなぜ分けた」に、答えられない大人たちの姿。

「交流」をオープンにすればするほど、その問いには答えられなくなる。

「一緒」のよさがわかればわかるほど、「交流」による「ごまかし」と限界は明らかになってしまう。

そして、どんどん追いつめられていく大人たちの姿が、そこにある。

「交流」により、「共に」が増えるのではない。本来、「共に」ある者同士を分けたから、壊れた「共に」のかけらが山のようにあるのだ。

それを、ガラスの破片のように拾い集め、つなぎ合わせても、共にを「続ける」のは難しい。

「交流はないの?」と高等部に入ったときに本人から聞かれた」という言葉に、記者さんも「中学での交流の深さを物語る」としか書けない。

その子の言葉に応えるなら、そして、交流が「本物」であるためには、「当然、高等部でも続けるべき」「どうして、無償化の高校でそれができないのか」と問うべきではないのかな。

「中学で直接交流が進みにくい」言い訳をゴチャゴチャ言ってるけど、結局は、「一緒がいいならなぜ分けた」には、答えられない証明のような気がする。

            ◆

《第2話》


「交流」を考えていたら、ふいに6人の子どもの顔が浮かんできた。

小学校の「情緒障害児学級」の子どもたち。一人一人の声も聞こえる。

1年生一人。3年生3人。5年生1人。6年生一人。

それぞれの子どもと一緒に私も、「親学級」の「交流」に通った。

交流が日常になると、「交流」という言葉に縛られないふれあいも生まれる。

子どものふれあいは瞬間の連続。

ふだん「私たちの学級」にいる時じゃなく、「交流先」のみんなといる場所に、彼らの一番の笑顔があった。

一日一時間の交流に、子どもの一番の笑顔があった。

だったら、一日ずっと一緒にいられる方がいいに決まってる。そう思った。

だから、私は一年でその学校を辞めた。32年前のこと。

          ◆

  
《第3話》



学校は一年で辞めたけど、子どもたちとのつきあいは続いた。

学校を辞めてから、子どもたちの家を訪ねた。

学校を離れて、初めて聞けることばがあった。

子どもにも。親にも。

「学校の人」には話さないことばがあった。

夏のキャンプに何年か誘った。

6年生の子は、中3のとき、私が勤める定時制に見学に来た。

3年生の子は、中学の特学から定時制高校に進学した。

3年生の女の子は、小学生のうちに両親が亡くなり施設に入った。

・・・「学校」を終えると、だんだん遠くなる。

一人だけ、32年後の今にも年賀状が届く。

8歳だった子が今は四十過ぎのおじさんだ。

一枚のはがきが、6人の「小学生の顔」を思い出させる。

           ◆

          
《第4話》



小夜さんとの「対談」で、『一緒がいいならなぜ分けた』は1987年2月25日発行ですよねと話したら、「よく覚えてるわね」と誉められた(^^)/ 

日付を覚えていたのは、自分の誕生日だから。

勝手に自分への「誕生日プレゼント」だと思ったから。

あのころは、小夜さんが怖くて3メートル以内には近づけなかった(-。-)y-゜゜゜


でも、「1987年」の意味は忘れていた。あの小学校にいた時だ! 

「一緒がいいならなぜ分けた」と無言で笑い続ける、6人の子どもたちが目の前にいたときだった。

たぶん、この本が仕事を辞める背中を押したのだと思う。

3月には仕事を辞めて、4月には失業保険をもらってたような気がする(=゚ω゚)ノ






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