《森の声を聞くように子どもの声を聞く》
旭川で聞いた《スヌーピーたち》の声は、私が出会ってきた4歳から高校生の声と重なった。そこから援助ホームの若者、母親になった子と赤ちゃんの声が重なる。そこでは、何が重なって聞こえのかが分からなかった。
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あれから一月。重なる声をたどってきて、ようやく気付いたことがある。旭川で聞こえた声は、「一人の声」ではなく、それぞれの身体の中に流れる「つながりの声」だった。だから、私が出会った声と、重なるのだった。
「保育園から」の話を聞きながら、4歳児クラスや一時保護所での幼児たちの声が聞こえ、小中での話から、小中で出会った子どもたちの声が聞こえる。高校は別々になり、卒業後はさらに別々の道を歩いているのに、保育園から変わらないつながりの根の声がそこにある。
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そして、それは50年後も変わらずにそこにある声は、六十を過ぎた私の声と重なる。あ、保育園で廊下に立たされていた俺とカズキ君の周りにあった声が重なるのは、そういうことだった。
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「ふつう学級か支援級か」ではなく、子どもが渡り歩く森の根の話として、聞こえてくる声がある。「インクルーシブ教育がいい」という言葉とは別のもう一つ声を、私は聞いてきたらしい。
生まれた森(家)で根を広げるのは大切だが、子どもにはもう一つの森の根も必要だ。そこが木々との違い。
木は生まれた森で何百年と生きるが、子どもはいくつもの森(しゃば)を渡りながら成長していく。