目連記(八文字屋八左衛門板)⑥
さるほどに、目連尊者は、獄卒共を打ち連れて、八大地獄へと急ぎましたが、地獄と
言っても様々です。目連は、
「いったい、あそこにも、ここにも地獄がありますが、どれがどれなのですか、教えて下さい。」
と、言いました。獄卒が答えるには、
「それでは、一百三十六地獄を残らず教えてあげましょう。これは無間地獄、あれは石
女(うまず)地獄、修羅道、餓鬼道、畜生道。地獄の数は語れど語れど尽きません。中
でも、餓鬼道の苦しみとは、飯を食べようとすれば猛火となって燃え上がるのです。」
目連はこれをご覧になって、
「さても不憫の次第である。我、娑婆世界へ帰ったなら、釈尊を頼み、御法(みのり)
の経を読誦し、母諸共に救い上げよう。」
とお思いになりました。そうして、様々な地獄を見ながらようやく八大地獄にお着きになりました。
この地獄の高さは、鳳凰の翼を以てしても越えることは出来ず、その広さは限りがありません。
そして、湯の煮えたぎる音は、幾千万の大きな岩を落とすようなものです。獄卒は、目
連に、
「これより扉を開きます、中より出てくる猛火で、焼けないようにしてください。」
と言いました。目連は、
「私は、無相神通の空体であるので、どうして焼けることなどありましょうか。」
と答えると、獄卒共は、ごもっともと思い、扉を開きました。すると、熱鉄の火炎が外
に向かって飛び出てきました。目連尊者は、構いもせずに火炎に中に飛び込むと、なん
でもありません。しかし、少しだけ衣が焼けました。これは衣を織った母上の娑婆での
執心が燃え落ちたのでした。
そうこうしていると、獄卒が鉾(ほこ)の先に目連の母親を突き刺して、目連尊者の
前に献げました。驚いた目連は、さながら夢の心地で母上に取り付き、
「母上様、母上様、親子は一世の契りとは言いますが、私は神通の力をもって、ここま
で来たのですよ。」
と叫びましたが、母上は、かすかなる声でこう答えました。
「のう、娑婆の我が子が、ここまで来たのですか。ああ、儚いことです。私は、自分の
後世がどうなるのかも知らずに、人の命を滅ぼし、宝と言えば奪い取り、これらの罪科
によって、このような地獄の苦しみを受けるのです。ああ、苦しや、助けてください。」
と、哀れに嘆く有様を見た目連は、
「母上、この地獄の苦しみは、如何なる供養で免れるのですか。」
と聞きました。母上は、
「法華経を。」
と言いましたが、その時、獄卒は怒って、
「ええい、この地獄では、刹那の暇も許されぬのじゃぞ。さあさあ、いつまで休んでお
るか。」
と言うなり、母上を掻い摘むと、火炎の中へ投げ入れてしまいました。今しばらくとい
う目連の願いは聞き届けられませんでした。
目連尊者は、一刻も早く娑婆へ戻り、供養をしなければならないと思い、閻魔王の所
へ戻ると暇乞いをしました。閻魔大王は、それそれと払子を振り上げると、目連尊者目
掛けて、はっしと打ち下ろしました。するとどうでしょう、目連尊者の魂は、たちまち
娑婆の身体に戻ったのでした。
三月二十五日の冥途へ行った目連尊者は、四月八日の寅の刻にこの世に蘇って来たの
でした。これを見ていた千人の弟子達は、大変驚いて、皆尊者の回りに走りよりました。
そして生き返った目連尊者は、冥途の様子を詳しく語って聞かせたのでした。それより、
目連は、釈尊の御前へ出ると、どうしたら母が成仏できるのかを問いました。釈尊は、
こう答えました。
「七月十五日に当たって、十丈に床を祓い清め、百味の飲食(おんじき)を供えて、
万灯籠を灯し、施餓鬼を行いなさい。そして法華経を転読すれば、速やかに地獄の苦し
みから逃れて成仏するでしょう。」
目連尊者は、釈尊の教えに任せ、七月十五日に床を飾り、百味の供物を供えて、万灯
籠を灯し、法華経を読みました。そして、過去の精霊(しょうりょう)七世の父母に至
まで供養されたのでした。まったく有り難いことです。こうして、十悪五逆の罪人達は、
地獄の苦しみを免れ、我も我も地獄から這い出てきました。また、母上はこの供養によ
って、たちまち仏となられました。さらに一切衆生、その外鳥類、畜類に至まで、皆々
極楽へと成仏したのでした。
施餓鬼ということは、この時から始まったのです。末世の戒めもまた同じです。
上古も今も末代も、例(ためし)少なき次第とて
貴賤上下おしなべて
感ぜぬ者はなかりけり
おわり