猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 9 浄瑠璃山椒太夫 ②

2012年02月24日 23時06分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

角太夫さんせうたゆう ②

 岩城殿の館に勅使の御一行が到着しました。正氏は、かねて用意の美を尽くして、勅

使の到着を待っていました。やがて、大納言介兼卿、親敏、重連ら正使を始め、諸侍達

は、それぞれ、座敷に入られました。早速に、珍物珍果のもてなしの品々が並べられました。

さて、平蔵は、三宝に例の土器を載せて現れました。何も知らない勅使大納言は、土器

を取り上げて、平蔵の酌を受けました。とその時、庭に忍んでいた重連の家来が、鳩を

放ちました。鳩は、ばたばたと羽を打って、座敷目掛けて飛んで行き、そのまま勅使の

手に飛び乗りました。大納言が驚いて土器を三宝に戻すと、鳩も又、三宝に乗り移り、

まるで土器を守ってでもいるかのように見えました。満座の人々も突然のことに驚いて

騒然となりましたが、その時、重連は、わざとらしく顔をしかめて立ち上がると、

「あら、もったいなや、有り難や、君の君たる道は明かなるぞ。只今、勅使様が、正氏

の罪の虚実を窺おうとする所に、返って、勅使の命を奪おうとする企て、既に顕れまし

たぞ。浅ましや。如何に人々、これは、正氏が謀叛に違いない。証拠は、この毒酒であ

る。馳走顔で、勅使を始め我々を毒殺しようとする所を、有り難や、正八幡大菩薩が君

を守り、霊験を現し、救うことに疑いなし。鳩はこれ、八幡の使いである。勅使の手を

止め、今もあの様に盃を守るように居ることこそ奇特である。皆々、ご油断あるな。」

と言うや否や、金の土器を庭に向かって投げ捨てると、鳩もどこかへ飛んで行きました。

色めき立った勅使、親敏は、

「さても謀叛が露呈したか、最早、逃れられぬぞ、判官殿。配所は筑紫と決まっておる。

覚悟あれ。」

と、責め立てましたが、謀叛の心も無く、まして毒酒の覚えも無い正氏は、返す言葉も

無く、只呆れ果てて居るばかりです。しばらくして、正氏は手を付くと

「いやしくも、この正氏、五十四郡の大将を給わってよりこの方、魂は、朝家国家の為

に尽くし、身は、鳳闕(ほうけつ:王宮)の樹庭(じゅてい)に置こうと思いましたが、

如何なる因果か、病となりました。これ、ご覧下さい。この様に左の腕にでき物できて

しまったのです。」

と、肌脱いで見せ、

「この様な病人が、都でお役に付いても、役にも立たず、御在番を怠りましたが、いく

ら、世間が悪く言ったとしても、謀叛とは言いますまい。

 これは、私の武運の末とは思いますが、それにしても、毒酒とは納得が行きません。

如何に、平蔵、酌をしたのはお前だが、その酒を飲んでみよ。」

と、言いました。困った平蔵は、わざともじもじしていましたが、

「お主様の御意でありますから、畏まりました。これまでなり。」

と、言うと、銚子を傾けてぐっと飲み干しました。そして、あら苦しやと顔をしかめる

と、胸を押さえて悶絶しました。まったく迫真の演技です。これを見た正氏は、歯がみ

をして、

「いかなる者が意趣(いしゅ)を含んで、こんなことをするのか。運命尽きたり。

これまでなり。

 如何に、北の方、安寿姫、厨子王丸、委細は見聞きした通りである。言い訳をする

証拠も今は無し。召しに従って流され行くぞ。お前達は、先ずどこへでも落ち延びて、

時節を待って都へ上り、我が身の誤り無きことを、祖父の梅津殿をもって奏聞するのだ。

伝え聞く勾践(こうせん)も命があったればこそ、会稽の恥を濯ぐことができたのだぞ。」

(中国故事:敗戦の辱めを忘れるなの意)

と言えば、北の方を始めとして家来の人々は、正氏に縋り付いて、泣き沈みました。

やがて、正氏は、牢輿(ろうごし)に入れられて館を後にしました。

 主との別れに人々が、嘆き沈んでいる中で、倒れていた平蔵は、辺りの様子をきょろ

きょろと窺っておりましたが、そろそろ良いかと、そっと立ち上がると、こそこそと逃

げ出しました。それを見ていたのは、宮城の小八でした。小八は当年十六歳、乳母(め

のと)姥竹の一子で、軽く五人力の若者です。足の立った平蔵を見つけると、走り寄っ

てむんずと組み止めました。がっぷりに組んだ二人は、えいやえいやともみ合っていま

したが、やがて観念したのか、平蔵は腰の刀を抜くと、自分の腹に突き立てて、ううん

と呻いて仰け反りました。小八は、

「母上、母上、詮議の奴をとらえましたぞ。」

と、大声で呼ばわると、母の姥竹を始め、女中達が我も我もと駆けて来ました。姥竹は、

「これは、どうしたことか、最前死んだはずの平蔵が、どうしてまた。」

と、不思議がるので、小八が事の次第を説明しました。さらに小八は、平蔵白状せいと、

腹の刀をえぐり回すと、堪らず平蔵は、

「因果が報うのは我が身の欲故。正氏殿には咎は無い。これ、皆、企んだ、企んだ。」

と言い残し、反り返って息絶えてしまいました。姥竹親子は、なんとかして讒言者を聞

き出そうと、平蔵を引き起こしましたが、押し動かしても最早、時は遅し。そこへ、

平蔵の家来達が、主の敵となだれ込んで来ました。これを追い散らし、切りまくりつつ、

小八親子は、御台、安寿、厨子王を仮の隠れ家へと、逃がしたのでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 9 浄瑠璃山椒太夫 ①

2012年02月24日 20時48分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

角太夫さんせうたゆう ①

本編は、説経節では無いので、ここでは番外と位置づけるべきものではあるが、説経節が語った筋とは異なるもうひとつの「さんせうたゆう」として紹介することにする。

本編は、佐渡文弥人形芝居保存会が発行した「文弥節浄瑠璃集下巻」(非売品)に翻刻収録されており、山本角太夫(かくたゆう)の正本とする山本久兵衛板の底本によることが分かるが、その底本がどこの物なのか等については不明である。年代は、角太夫の活躍年代からして、延宝年間であることが推測される。角太夫は京都の浄瑠璃師であり、角太夫節と呼ばれ人気を博したと言われ、「しのだ妻」を得意とする等、説経ネタに熱心であったことが窺える。

 お釈迦様は、ブッタガヤの南、佉羅陀山(きゃらだせん)で、延命地蔵経をお説きに

なりました。一万二千の阿羅漢(あらかん)三万六千の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)

が、お集まりになったその時、地蔵菩薩は、六輪の錫杖(しゃくじょう)を持ち、大地

より浮かび上がって来られ、心を込めて、八十六道の衆生を済度されたのでした。誠に

観自在の弘誓(ぐぜい)は海よりも広いとは言え、地蔵菩薩の深いお慈悲にはかなうも

のでは無いと、説かれたのです。

 ここに、本朝において丹後の国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の尊い由来を尋ねて見

ますと、六十四代、天禄(970年)の天皇(円融天皇)が即位なされた頃のことです。

誠に賢い天皇であられましたので、政(まつりごと)は正しく行われ、臣下大臣は星の

ように連なり、天長地久(てんちょうちきゅう)の勢いです。国々の大名小名は、代わ

る代わるに内裏に詰めて、天皇をお守りし、太平の御代が保たれていましたので、まっ

たく有り難い御時世でした。

 さて、司召し(つかさめし)とは、国々の大名小名の官位と、出仕状況を記録する重

要な書類ですが、この目録をご覧になった関白道真公は、奥州五十四郡の大将、岩城の

判官正氏の名が無いことに気がつきました。道真公が、担当の役人に問い質しますと、

「ご不審の正氏殿ですが、ご病気との訴えにて、御出仕無く、この度の目録には、載せ

ることはできません。」

との答えです。道真公がこの件を奏聞なされますと、その処遇について、帝も迷われて

いるようでした。

 さて、ここに上総の国の管領である重連(しげつら)という者、岩城の判官正氏とは、

同族の者でありながら、常々、奥州の大将である正氏の威勢を妬み、その性格も我が儘

でありました。重連は、今の詮議こそ、正氏を陥れる絶好の機会と、はばかりも無く、

御前にまかり出ました。

「申し上げます。岩城の判官正氏は、それがしの一族ではありますが、我が君のご不審

には変えられず、言上いたします。

 正氏は、奥州の大将を給わりしよりこの方、謀叛の企てがあります。日の本の将軍と

自らを号して、近国の武士を集めて、軍評定(いくさしょうじょう)をしております。

それで、病気と偽って引きこもり、都へ出仕もしないのです。この重連にも仲間に入る

ようにと言って来ましたが、これまで黙殺をして内々の事として参りましたが、今日の

御評定に至っては、最早、一家の咎(とが)を白状するのが忠臣の道と考えました。」

と、白々しくも忠臣面(つら)をして、怖ろしい讒言(ざんげん)をしたのでした。

 これを受けての詮議の結果は、二条大納言介兼(すけかね)卿を勅使とする調査団を

急遽、奥州に向かわせ、朝敵であると判明したなら、召し捕って筑紫に流し、もし、刃

向かうならば、誅伐(ちゅうばつ)せよというものでした。 この調査団には、武臣の

大将として武蔵の郡司親敏(ちかとし)が命ぜられ、さらに管領重連には、案内役が命

ぜられました。こうして、調査団一行が奥州へと向かうことになりました。

 さて、案内役の重連は、奥州へ到着する前に密かに、内通者である正氏の家来に使者

を送りました。それは白川平蔵時村と言う者でした。知らせを受けた平蔵は、驚いて

重連の元へと急行しました。平蔵がやって来ると、重連は、

「さて、貴殿に見せる物がある。」

と言うと、都より持参した箱を取り寄せて、開けて見せました。その中には、白い鳩が

一羽おり、金色の土器(かわらけ)に餌が入れてありました。すると、重連は、供の家

来を遠ざけて、平蔵に小声で、

「内々、貴殿と打ち合わせておいた通り、正氏の病気を作病に偽って、様々讒言をした

ので、虚実を確かめ、流罪させよとの宣旨。勅使大納言殿は、追っ付けご到着される。

しかし、謀叛の証拠があるわけでは無い。そこで、思案を巡らし、この鳥を隠し持って

来たのだ。

 つまり、こういうことだ。勅使が到着すれば、正氏は、勅使に土器を差し上げて

九献(くこん)をされるだろう。その時、おぬしは、給仕をして、その土器を、この

金の土器と取り替えて三宝に載せて出すのだ。よいか、この鳩は、生まれてよりこの方、

この金の土器以外の器で餌を食べたことは無いので、この土器を良く覚えておる。勅使

が、土器を取り上げた時に、庭木の陰より家来に鳩を放させるのじゃ。すると、鳩は、

この金の土器を見て、餌と思ってひと飛びに勅使の手に飛び付くだろう。そうなれば、

人々は、怪しいことが起こったと思うに違い無い。後は、それがしが、うまいこと言っ

て、正氏を謀叛の罪に陥れるというわけだ。後の約束は、半分ずつの取り分ぞ。どうじゃ。」

と、不道(ぶどう)の密談をするのでした。悪の平蔵は、分かった分かったと頷いて、

「これぞ、究境(くっきょう)の企て、お任せください。」

と言うと、金の土器を手に取ってみました。すると、鳩もさっと拳(こぶし)に止まり

ました。さらに、土器を懐にしまうと、嘴(くちばし)でつつき、懐中にまで嘴を入れてきます。

よくも、ここまで飼い慣らしたものです。

つづく


もうひとつの「さんせうたゆう」

2012年02月24日 10時05分03秒 | 調査・研究・紀行

 佐渡に渡った時に、不思議に思ったことは、安寿の墓とされる「安寿塚」があることである。佐渡の安寿塚は、安寿姫の慰霊塔であり墓でもあるという。

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左:外海府の海を望む鹿の浦の安寿塚  右:畑野の市街地にある安寿塚

 説経節の山椒太夫は、与七郎正本(年代不明)、七太夫正本(明暦)、山本久兵衛板(寛文)、七太夫豊孝正本(正徳)等の比較的多くの版本が残っている。それだけ、人気があったのだろう。

 さて、これらの説経節山椒大夫では、安寿の姫は、売られた先の由良山椒太夫の館で、三郎の拷問によって殺されてしまう。このストーリーはどの説経にも共通していて例外が無い。いったい、佐渡に渡ったとされる安寿はどこに居るのだろうか。安寿が佐渡に渡ったとする話しと出会えないまま、長年不思議に思っていたが、ようやく、安寿が佐渡に渡ったという記述に出会うことができた。

 「文弥節浄瑠璃集」という本の下巻には、佐渡文弥人形で演じられる「山椒太夫」が収録されている。山本角太夫正本(山本久兵衛板:延宝頃)とあるので、分類上は浄瑠璃に属する。調べて見ると、この角太夫という方は、浄瑠璃者ではあるが、仏教ネタが好みで、説経物を得意としたらしい。近松と同年代にもまだ、そういう太夫もいたのかと、妙に感心した。しかし、この「文弥節浄瑠璃集」に掲載されている浄瑠璃が本当に角太夫の作なのか、多少疑問が残る。まず他の角太夫板と異なっている。また「佐渡が島人形ばなし」(佐々木義栄著)によると、北村宗演が所持していた嘉永五年に書かれた写本が底本になっている可能性が大きいが、この本がどのような写本であったのか不明なのである。

佐渡の文弥節で語れる角太夫山椒大夫のあらすじを紹介する。

 岩城の判官正氏が、筑紫に流罪となる発端は、説経と同じであるが、ライバルの讒言と計略によって陥れられるという、浄瑠璃的な書き出しとなっている。最後に厨子王を助ける梅津の院は、厨子王の祖父として設定されていて、父が流罪された後、御台と兄弟は都の梅津の院を、頼ることになる。供は姥竹とその子小八。一行五名が、越後直江津で、人買いに騙されるのは説経と同じであるが、そこから小八がさまざま活躍して武勇を奮うところが、浄瑠璃的な筋で面白い。しかし、結果的には、御台と姥竹は佐渡に売られ、安寿、厨子王兄弟は、山椒大夫の所に売られて来る。小八は、海に落とされてしまうが、なんとか人売り山角太夫を捕虜として、兄弟の行方を捜索する。

 山椒太夫の所で、兄弟が苦しみを受け、安寿が厨子王を逃がすのは、説経と同じ。説経では、厨子王を逃がしたことで拷問を受けた安寿が、殺されてしまうが、ここでは、小八がようやく追いついて、安寿を助ける。厨子王は山椒太夫の追っ手を国分寺のお聖の助けや地蔵菩薩の功徳によって振り切り、やがて都へ辿り着く。

厨子王は、梅津の院と会い、養子となるが、父正氏を陥れた計略を劇的に暴くのも浄瑠璃的で面白い。

 一方、小八に助けられた安寿は、小八と共に、佐渡島に流された母を尋ね、再会を果たすが、残念なことに安寿は母に抱かれて絶命してしまう。野辺の送りを済ませた頃に、ようやく厨子王丸が母を尋ねて佐渡に渡って来る。厨子王は、母と再会し、姉の死を知り悲しむが、地蔵菩薩の功徳によって失明していた母の目を治す。

その後、厨子王達は都へ戻り、本領安堵され、山椒太夫と三郎の首を竹鋸で引き切るというのは、説経と同じ結末である。

 佐渡の安寿は、この浄瑠璃によって存在していたのだ。佐渡の文弥人形はこの話しを語り継いで来たのである。これで、納得が行った。ところで、この山椒太夫は、佐渡ではあまり人気が無かったらしい。どうやら、金平物(ちゃんばら物)の方が人気で、一度途絶えたという。現在残っている文弥節山椒大夫は、北村宗演師が、節付けして復活させたという記録がある。

現在この浄瑠璃の内、鳴子曳き・母子対面の場を猿八座で演ずるための準備を進めている。猿八節のレパートリーが増えそうである。