私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

今日見るクルマから思うこと

2019-07-16 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 今日見るクルマ(レクサスLSの最新型だろう)なのだが、このクルマ自体に関心は薄いが、チラと眺めてやけに小さなドアアウターミラーだと観察してみた。やはり、カメラを使用したドアミラーだということが判ったのだが、従来の大きなミラーを見慣れているせいか、なんかアンバランスで違和感というかカッコ悪いなぁとう思いがこみ上げて来る。まあ、フェンダーミラーからドアミラーになった遥か昔も、しばらくの期間違和感は生じたのだが・・・。

 室内を覗くと、インストルメント(ダッシュ)パネルの左右ミラー(カメラ)近くに、それぞれ小型モニターが設置されている。カメラだから、ミラーと比べ設置する位置の自由度は大きいのだが、ボデーとの対比上、ボデーの映り込みが1/3程度必要になるのと、室内で違和感なくするのはモニターもこの位置になるのかということなのだろうか・・・。しかし、まったくの私見ながら、カメラ部分の小型化が可能なら、近い将来もっと前方の昔のフェンダーミラー辺りに巧いデザインで付けるクルマも出て来るように予想する。さすれば、左右のモニターもドライバーの視線移動がより少なくて済む、インストルメント中央付近に持ってきても違和感は生じないのかもしれない。

 ここからはレクサスおよびアウディ信奉者の異論反論あることを十分承知の上で、独断たる私見を記してみたい。昨今のレクサスのグリルは、何とか独自の差別感を生み出そうと、フロントバンパーを上下に貫いた大型グリルにし、しかも中央部をくびれさせた逆たる型ともいうべき共通デザインモチーフを採用している。そもそも、このフロントバンパーを貫く大型グリルを最初に取り入れたのはアウディであり、それからかなりに期間を経過している。しかし、アウディもレクサスも、このグリルがカッコ良いとはいつまで経ても変わりそうにない。

 だいたいにおいて、ちょっとした知り合いなどから「アウディって高品質らしいね?」などという問いかけを受けることがある。また、メーカーのでっち上げた宣伝から、レクサスって高品質みたいなイメージを持っていると思われる、オーナーやクルマ好きの意見を聞くこともある。それに対して、特段の反論もしないでいるのだが、本音は「何を言ってやがる、ロクにクルマを観察もしない、とんでもクルマ音痴な者だ!」というのが持論だ。アウディは、メーカーさえVWと異なる様に装っているが、その実態は設計開発から製造までがどこまで独立しているのか疑問なメーカーとさえ考えざるを得ない。同一プラントでVWとアウディが混流生産で流れていても不思議ではないのがアウディというのが私のイメージなのだ。同じ様にレクサスは間違いなくトヨタ自動車が設計開発しており、製造プラントだけは別だが、トヨタブランドと共通部品も多いし、プラントにおける設備機器や製造におけるアーキテクチャー(設計や製造の思想)も同一の商品だ。これは、そもそも米GMにおいて、シボレーブランドとキャデラックブランドの差異で成功した物真似なだけのことだ。

 ついでに、ミラー以外の気になる部分のことも記してみよう。まずは、先日も記したフロントバンパーとボンネットの見切りであるが、このクルマも共通でパッと見は、まあまあチリの狂いに気が付かない。しかし、右斜め前から見た写真の通り、ややボンネット先端部がやや低いという破綻が観察されてしまう。しかし、このヘッドランプもそうだが、近年の多くのクルマがあえてボデーの輪郭からランプ類を飛び出させている。これを私は「出目金デザイン」と名付けているのだが、なんで出目金が多くなったのだろうか。空力上もボデー輪郭に一致したフラッシュサーフェスデザインの方が有利だと思うのだが・・・。云うなれば、手早い差別化というところだろうが、これだけ多くのクルマでやっていちゃあ、差別化もくそもありはしない。

 もう一つ、ミラー近くのドアサッシュモールに継ぎ目があるが、約30年前の初代セルシオ(初代レクサス10)でさえ、ドアサッシュは写真の様な全周を一体成型(たぶん亜鉛ダイキャストにメッキ処理したもの)していたもので、当時感心して眺めたものだったのだが・・・。やはり原価低減が垣間見える部分だ。

 今回はボンネットを開いて見ていないが、間違いなくエンジン上部は安っぽいプラスチッキーなカバーに覆われているだろう。その下の実メカは、およそデザイン性を一切無視した形状や、パイピングやハーネスの取り回しだろう。これが、トヨタが世界に流行らせた、サプライヤーも含め同時に各部品を設計開始し、ネットワーク上の3D・CADで各部品相互の位置関係や寸法をコンピューターモニター内で検討しつつ、試作と手直しを大幅に省略できるという現代的な合理的手法というものだろう。しかし、こういう姿を見て思うのだが、現代社会と相似している様に思うのは考え過ぎだろうか。それは、一見綺麗に整然とした街並みとだとか、各種の物事だが、その実態の本質は如何に安く、如何に表層だけが立派に見えるかという偽善に満ちているのではないかという思いなのだ。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。