公を知らない教養のなさなさを露呈する若き技術者の活躍
戦前、戦中の、若き技術者のただただ絶賛する声があるがある意味批判的に眺めている。
つまり、私もその時代における技術の最先端を進むテクノロジーを開発を任され、20代とか30代中頃までの、若き技術者達がリーダーを任され、例えば堀越二郎がゼロ戦を開発したのが34才とか、中島飛行機の最大馬力コンパクトエンジンたる誉エンジンの開発リーダーになったの中川良一が20代中頃であったというのを聞いて、凄いものだと感心する反面、一体この若き技術屋達は、そのスペシャリストとして技術の追求に掛ける情熱は凄いものではあるが、人としての教養とかいわゆる公を重んじる心が何処まであったのか疑問だといささか批判的に眺めているのだ。
確かに彼らは、東大工学部卒で、そのテクノロジーへの知識や発想力は常人と比べれば抜きん出た能力を持ち、技術開発に邁進して来たのだろう。しかし、時の実験を持つ政府高官とか企業の経営者は、単に技術だけの彼らの、よく云えばテクノロジー一本槍、冷静に眺めれば公平とか世の正義とか万民の安寧とかを失念した、ある意味人として歪で偏向した知能を逆利用したとも受け取れるのだ。
ここで、人間若い内はそういうもので、それも致し方がないという意見だとか、戦争に勝つためには、そんなことは致し方がないだろうと云う意見もあるだろう。しかし、同じ様に若き人物でも、人の命だとか、この世の不公平は何とかならないのだろうかとか、何故戦争という争いが起こるのだろうかなどと真剣に思いを馳せる人物がいたことも確かであろうと思うところだ。
この様な前提で、現代の政治家などを眺めると2世、3世で20代もしくは30代でろくろく世間の底辺層の生活などを見ることなく坊ちゃん育ちをした者を眺めると、いささか批判的に眺めるしかない。
特に心配になるのは、いわゆる官僚達についていえば、憲法条文にも公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないと規定されている。また、民間企業については、どのような企業であってもただ利益を上げることとは社是で記している起業はないだろう。どうゆう文言かはそれぞれだが、社会に尽くす、つまり公益ということを述べていない企業はないだろう。つまり、社会に認められる前提があって、あらゆる機関、組織、企業は存在を許されるのであって、それが失われたら、生存は難しいという宿命を持つのだ。ちょっとイレギュラーな例を記すが、警察など権力機関で反社会組織と規定される暴力団組織があるが、その構成員でさえ、ある災害時には、近隣住民に対する炊き出しを行うなど、まったく社会を無視した対応を取らないということがある。ただし、統一教会など、仮面を被る組織は、上辺は社会安念などのスローガンを持つが、嘘デタラメで、搾取一途な訳だが、何故か暴力団指定は、あらゆる場面で排除しようとするが、そもそも宗教の自由が憲法にもあるからと云え、虚偽集団が徹底的に排除できないと云うのは、この世の矛盾でもある。
話しが逸れたが、バランス取れた人というのは、技術を追求することも大事だが、公という面を忘れたら、その組織構成員もだが、国民からも認められないという自戒を持つ要があるだろう。しかし、公を追求することは、単独企業にとっては利益相反というか利益を減じなければならないという宿命を持つ。従って、企業規模に応じて、公へ果たす責務は大企業ほど大きくならざるを得ないだろう。
また、零細企業集団としては、その同業者組合とかを持って、大企業とか社会に寄与していくしかないのであるが、得てしてその組合役員には公の心が求められる。極論すれば、零細企業の組合役員には、十分な役員報酬など保守できる訳もなく、ある意味手弁当での活動が強いられるし、それにより零細組合員の小さな声が社会に届くし、組合の存続も可能となるのだろう。
戦前、戦中の、若き技術者のただただ絶賛する声があるがある意味批判的に眺めている。
つまり、私もその時代における技術の最先端を進むテクノロジーを開発を任され、20代とか30代中頃までの、若き技術者達がリーダーを任され、例えば堀越二郎がゼロ戦を開発したのが34才とか、中島飛行機の最大馬力コンパクトエンジンたる誉エンジンの開発リーダーになったの中川良一が20代中頃であったというのを聞いて、凄いものだと感心する反面、一体この若き技術屋達は、そのスペシャリストとして技術の追求に掛ける情熱は凄いものではあるが、人としての教養とかいわゆる公を重んじる心が何処まであったのか疑問だといささか批判的に眺めているのだ。
確かに彼らは、東大工学部卒で、そのテクノロジーへの知識や発想力は常人と比べれば抜きん出た能力を持ち、技術開発に邁進して来たのだろう。しかし、時の実験を持つ政府高官とか企業の経営者は、単に技術だけの彼らの、よく云えばテクノロジー一本槍、冷静に眺めれば公平とか世の正義とか万民の安寧とかを失念した、ある意味人として歪で偏向した知能を逆利用したとも受け取れるのだ。
ここで、人間若い内はそういうもので、それも致し方がないという意見だとか、戦争に勝つためには、そんなことは致し方がないだろうと云う意見もあるだろう。しかし、同じ様に若き人物でも、人の命だとか、この世の不公平は何とかならないのだろうかとか、何故戦争という争いが起こるのだろうかなどと真剣に思いを馳せる人物がいたことも確かであろうと思うところだ。
この様な前提で、現代の政治家などを眺めると2世、3世で20代もしくは30代でろくろく世間の底辺層の生活などを見ることなく坊ちゃん育ちをした者を眺めると、いささか批判的に眺めるしかない。
特に心配になるのは、いわゆる官僚達についていえば、憲法条文にも公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないと規定されている。また、民間企業については、どのような企業であってもただ利益を上げることとは社是で記している起業はないだろう。どうゆう文言かはそれぞれだが、社会に尽くす、つまり公益ということを述べていない企業はないだろう。つまり、社会に認められる前提があって、あらゆる機関、組織、企業は存在を許されるのであって、それが失われたら、生存は難しいという宿命を持つのだ。ちょっとイレギュラーな例を記すが、警察など権力機関で反社会組織と規定される暴力団組織があるが、その構成員でさえ、ある災害時には、近隣住民に対する炊き出しを行うなど、まったく社会を無視した対応を取らないということがある。ただし、統一教会など、仮面を被る組織は、上辺は社会安念などのスローガンを持つが、嘘デタラメで、搾取一途な訳だが、何故か暴力団指定は、あらゆる場面で排除しようとするが、そもそも宗教の自由が憲法にもあるからと云え、虚偽集団が徹底的に排除できないと云うのは、この世の矛盾でもある。
話しが逸れたが、バランス取れた人というのは、技術を追求することも大事だが、公という面を忘れたら、その組織構成員もだが、国民からも認められないという自戒を持つ要があるだろう。しかし、公を追求することは、単独企業にとっては利益相反というか利益を減じなければならないという宿命を持つ。従って、企業規模に応じて、公へ果たす責務は大企業ほど大きくならざるを得ないだろう。
また、零細企業集団としては、その同業者組合とかを持って、大企業とか社会に寄与していくしかないのであるが、得てしてその組合役員には公の心が求められる。極論すれば、零細企業の組合役員には、十分な役員報酬など保守できる訳もなく、ある意味手弁当での活動が強いられるし、それにより零細組合員の小さな声が社会に届くし、組合の存続も可能となるのだろう。