私の思いと技術的覚え書き

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山彦乙女を読んで

2012-02-22 | コラム
 表題は、このところはまっている、山本周五郎氏の中編作品である。
 山彦乙女(やまひこおとめ)とはと何ぞやと思い読み進めていく内に、後半でそれは、「やまびこおとめ」のことだと判った次第です。

 物語は、隠された武田信玄の財宝や武田家再興の野望が蠢き、財宝の隠し場所たる「かんば沢」などの地のことが出たりしてミステリックに展開していきます。そして、終章で財宝の隠し場所である洞窟が大崩落を起こすなど、アクション活劇の要素も持っています。黒澤作品を初め数々の映画化がなされている周五郎作品ですが、この山彦乙女が映画化されたという話しは聞きません。

 私が周五郎作品に魅力を感じるのは、物語の主人公達に言わせている言葉、それはおそらく周五郎氏自身の思いでもあるのでしょうが、格言めいて心を打つところにもあることでしょう。

 この山彦乙女ですが、主人公の半之助の心の内を、山本周五郎は次のように語っています。

 政治を執る者は変る、後者は前者の秕政を挙げ、己の善政を宣言する。だがそれはかつて実行された例がないし、将来も実行されることはないだろう。なぜなら、かれらは強者であり、支配者であるから。それが公卿の出身であろうと、武家の出身であろうと、また庶民から出た者であろうと、かれらがいちど政治の権力をにぎれば、彼は、もはや彼自身ではなくなる。いかに高潔な、無私公平な、新しい政治理想をもっていても、現実には、必ず強者であり、支配者であることから、ぬけ出ることはできないのである。

 物語は生き甲斐を失った半之助が乙女(花世)との出会いから、徐々に生き甲斐を取り戻すところで終わりますが、力量の大きな監督に映画かしてもらえたら、きっと良い作品になると思うのです。



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